「波が割れたら」著者:和泉瑠璃
十二年ぶりに会う幼馴染の女(ひと)を待っている。
空気の中の激しい暑さが徐々に力を失い、秋へ向けて風がぬるくなっているのがわかる。でもまだ、陽射しだけは夏のものだった。
肺腑に深く息を吸い込むと、微かに甘いにおいがした。砂糖や小麦粉で作る菓子の甘ったるいにおいではなく、ほのかに香る甘さ――そば粉に火を通してたつ湯気のにおいだ。その香りは、僕の頭の中で彼女の像を結ぶ。思い浮かんだ彼女の姿は、まだ高校の制服姿で、僕は驚いてしまう。
目の前のロータリーにバスが停まり、乗客たちを吐き出し始めたとき、僕は目で彼女の姿を探しながら、落ち着かない気分になった。
バスから降りた一人の女が、顔をあげたときにこちらへひたと視線を定めた。顎先で切りそろえた髪をした中年の女性で、その年齢にありがちな顎や腕など、身体全体に肉のたるみが少しだけ見える。その人が微笑んだとき、笑みの唇の端の上がり方や目の細まり方があの少女の笑顔と重なった。
門前には参道をはさんで、大きな蕎麦屋が二軒ある。僕が一人でそばを食べるのは、門に向かったとき右手に見える店だ。こちらは半分飲み屋の雰囲気で、そばを啜ってから、ゆっくりと酒を飲むことができるのがいい。一方、僕らが二人で入るのは左手の店で、こちらの鯉が泳ぐ池に面した座席を配する洒落た内装を、彼女が気に入っているのだ。
注文を済ませた彼女は、おしぼりで手を拭きながら、感慨深そうに「ずいぶん久しぶり」と言う。僕が、十二年経ったよ、と答えると彼女は微笑んだ。
「お互い変わるには、十分すぎる時間だね」
語尾がぼやけて、後に続く言葉の気配もなく、話の流れがそちらへ向かったと感じる。
「ご愁傷様。残念だね。……旦那さんのこと」
彼女は窓の外に目をやり、池の水面をどことなく眺めながら、「大丈夫」と静かに言い、小さく息を吸ってこちらに顔を戻した。
「私、専業主婦だったから生活のめどにちょっと手間取っているけど、いざとなったらまだまだ元気な両親がいるし。それに、子供の顔を見ると力が沸くの。それが本当に救いね」
彼女が笑いながら言うので、合わせて微笑んで見せるしかなかった。そこへ、頼んだ蕎麦が運ばれてきた。彼女は顔を輝かせる。
「懐かしい! 不思議とね、どのお蕎麦を食べてもここには敵わない気がしたの」
箸を割り、僕は「将軍のお墨付きだからね」と言った。彼女は、きょとんとした顔をする。
「三代目将軍の家光が、ここの蕎麦を褒めたっていう伝承があるんだよ。それで『献上そば』ってあだ名されたらしい」
「あなたの蘊蓄も久しぶり。まだ本の虫なの? 相変わらずあまり人とは話さない?」
まあね、と答えて蕎麦をすする僕を見つめた彼女は、笑顔を薄めると控えめに言う。
「それじゃ、結婚を考える人もいないの?」
思いもかけなかった彼女の言葉に、僕は危うく箸を止めかける。「こんな四十のおじさんを好きになるような人、いないよ」と冗談っぽく言うと、なにそれ、と彼女は笑った。
間近で見る彼女の笑顔は、どきりとするほどに十二年の歳月が刻まれていた。ゆるやかに弧を描く目元、口元には見慣れない皺があり、耳の上に僕は白髪を見つけた。
店を出てそのまま茅葺の門をくぐり、境内に入る。本堂の前に立った僕らは、どちらからともなく賽銭を投げ、合わせた両手の前で目を閉じる。
学生時代や社会人の頃、彼女が結婚して行ってしまうまで、何度も蕎麦を食べに来てはここに詣でた思い出が蘇り、隣の彼女の気配がぐっと濃厚になった。
閉じた瞼の裏で眺める彼女は、焼けた肌も背中まで伸びた髪もまだ初々しい姿をしている。少しでも身体が揺れれば、きっと肩が触れてしまう距離にいて、胸が高鳴るのを感じている僕もまた、あの頃の青臭い自分なのだ。
そういえば、と思い出す。僕が目を開けても彼女はいつもまだ何かを祈っていて、そのくせ僕が目を開けると、こちらを見上げると悪戯っぽい微笑みを見せるのだ。そんなことを思いながら隣の彼女を見つめていると、空恐ろしいくらいにあの頃とまったく同じ動作で、彼女は微笑んだ。そして、問う。
「ねえ、何をお祈りしていたの?」
言えるわけがない、という青二才の声が耳の奥で聞こえる。苦笑をこらえながら、僕はこれまでと同じように「教えない」と答える。
「そういう君は?」と問い返せば、彼女は思い描いた通り、「それは内緒」と身を翻す。それだけならいつかの日々をなぞるだけだったのだけれど、無意識のふりをして貫き通すには、やはり過ぎ去った時間が重かった。彼女は気恥ずかしそうな笑みを浮かべて振り返り、このやり取りを冗談にした。
そんなわずかな仕草に、流れた時間を噛みしめたあと、僕らは北門の方へ歩き出す。
北門を抜けると、森林に囲まれた道になる。蕎麦を味わいに来た客の声は、木々の彼方になり、聞こえるのはどこかの蕎麦屋で粉ひきの水車がたてる水の音と、梢を飛び交う鳥の声くらいで、ここには籠った静寂がある。
僕らがこの寺で会う本当の理由は、この静寂を求めてのことなのだろうと思う。何故なら、彼女が何か悩み事を打ち明けるのは、きまってこの道を歩くときだったから。
夫の死後、こちらへ戻ってくると連絡をよこした彼女がここで会いたいと言ったとき、僕は一つの決意をしたのだ。
けれども、彼女は黙っている。それでいて、僕がこの沈黙に疑問を抱いていることを察しているようで、彼女は少しわざとらしく、前方に見えてきた古い堂を指して、「あれは何?」と問う。僕は、そんな彼女の横顔に、自分の悩み事を語るのに夢中な、少女の横顔を重ねている。あの頃は、そんな風にまわりの風景に目を向けるようなことはしなかった。
彼女が指したのは、古く小さな堂だった。背後に湖を湛え、鋭角に持ち上がった屋根を持ち、白壁の間の木戸をかたく閉ざしている。
声に余計な力みがないように、ひそかに気を付けながら「深沙大王堂。この寺の縁起に関わるんだ」と答えた。
「とある男女が恋仲になった。でも、女の両親は反対して、娘を孤島に隠してしまう。困り果てた男に、深沙大王が情けをかけて、波を割って会わせてやった。そうして結ばれた二人の子供が、この寺を建立したんだ」
だからこの寺には、恋愛成就のご利益があるんだよ、という言葉が喉元までせり上げる。
どうして今さら打ち明けられるだろう。彼女と詣でるとき、その隣でしていた祈願は、常に彼女のことだったなんて。
彼女は「そうなんだ」とだけ言う。堪らなくなって、「ずいぶん静かだね」と僕は言う。
「昔はよく、ここで君の悩み相談にのったよ」
彼女は深沙大王の堂を見上げながら、「やめることにしたの」と言った。
堂に背を向けて歩き出した彼女に「どうして」と問えば、苦笑に歪んだ顔で振り返る。
「だって、あんまり虫が良すぎる話だから」
僕がどう言うべきか考えているうちに、彼女は恥じるように片手で顔の半分を覆った。
「私、困る度にあなたを呼びつけて、愚痴を聞かせた。あなたは嫌な顔一つせず、それじゃあ、って自分にできることを申し出てくれた。それはいつも私が一番欲しいものなの。自分からは何も求めないのにね。私、それがわかっていて、あなたを呼んでいたの」
だけど、と彼女の指に力がこもる。僕は、細い爪がわずかに肌へ食い込むのを見た。
「今日ここに来て思ったの。そんなことを平気な顔でするには、私は年を取りすぎている」
僕はどきりとする。彼女の顔の上へ表れ始めた老いの影を見つけて、驚き、落胆した。押し隠したはずの動揺は、見透かされていた。
そして、「今日断ってくれたら、よかったのに」と彼女は湿っぽい微笑みを浮かべる。
「あなたのことだから、私が今日何をお願いするつもりかわかっているんでしょう。私が今さら、あなたと一緒に生きたくなったこと。お願いすれば、あなたは断らないんでしょう。私、わかるの。だから、ここへ来たのよ」
でもね、と彼女の声は詰まって震えた。
「そんなことって、まともな神経で出来る? 都合がよすぎる。……なんて打算的で嫌な女」
打算的? 俯きかけた僕は、その言葉に打たれてゆっくりと顔を上げる。
そのとき風が吹いて、頭上の梢を揺らした。僕はその葉擦れの音に、どういうわけか波が割れる様を思い、重ねた。枝が揺れたはずみに、陽光が漏れて流れ、彼女の顔を濡らした。
もう顔を覆ってはいない。光が降る先を虚ろに見上げる彼女は、あの日のままに見えた。
「それじゃあ、君に会いに行くとき、僕が一度だって打算をしていなかったとでも?」
初めての言葉に、僕の声は震える。それでも、僕は息を整え、再び唇を開いた。
「君が打算的なら、君の夫が死んだのは、僕が薄汚い妄執を、ここでずっと祈り続けてきたせいだ」
彼女は、はっとしてこちらを見る。僕は、その目の中に拒絶や侮蔑がないことに、心から安堵する。それから、そっと手を伸ばす。彼女の肌に触れるまで、指先にずっとちりちりとした痺れを感じていた。まるで、彼女の一挙一動に浮き沈んでいた少年の頃のように。
ようやく、僕は彼女の手を取る。そのとき僕には、老いも若きもあらゆる美醜も遠く、ただ彼女の存在だけが真実になった。
すると、彼女の顔の上から自嘲の色は溶け去って、静かな雫が瞳から零れ落ちた。それから、僕の手をほんの少しだけ、握り返した。
和泉瑠璃(神奈川県横浜市/22歳/女性/公務員)