<第3回応募作品>「メロディ」 著者: 四季
思い出すのは、森の中の、彼女のメロディ。
空港という場所は、昔から好きだった。
どこへだっていけるという開放感と、ここから全世界へ繋がっているのだという一体感。
僕が、二番目に自由を感じる場所だ。
そう、二番目に。
『私たち、自由だもの』
かつて僕にそう言った彼女こそ、自由の代名詞のような女の子だった。
機内で、フライトのアナウンスが流れる。
彼女を思い出して、自然と僕は口角が上がるのを自覚する。
今から、飛行機が僕を乗せて大空へ飛び立つのだ。
最も自由な、彼女のもとへ。
深大寺という場所がある。
深い森に覆われた、縁結びで有名なお寺だ。
周辺には、季節の花々が美しく咲き乱れる神代植物公園や、名物の蕎麦屋がある。
春という名の彼女は、ひたすら深大寺というこの場所を好んだ。
ことあるごとに、僕は春に連れてこられた。
僕はそれが嫌いじゃなかったし、むしろ恋人としての役割なのだと思っていた。
春は、僕が恋をした女の子だった。
その日曜日。
高校が休みの僕は、思う存分ベッドで惰眠を貪っていた。期末テストも終わって、大分気が緩んでいたのだと思う。夏休み目前のその日、春からの着信で昼過ぎに目が覚めた。
『もしもし、アキヒロ?』
「…うん」
『寝起きだった?』
「うん」
『そりゃ悪いことした』
春は、電話の向こうで笑った。
『今から、出てこない?』
春の透き通った声に、僕は条件反射のように「いいよ」と答えていた。
僕はまたこの日も、深大寺へと足を運ぶことになった。
馴染みの蕎麦屋の中に、やはり春はいた。
僕は、窓の外から、彼女に見えるように、大きく手を振った。
春は僕に気づいて席を立ち、会計を済ませて外へと出てきた。
「蕎麦ばっかりで、飽きない?」
「だっておいしいものは何回食べてもおいしいのよ」
満面の笑みで、春は答えた。
「それで、春。
今日は何するの?土産物屋めぐり?それとも植物公園?」
「今日はね…」
春は、まっすぐ指を指した。
道の先へ向かって。
「お参り。
たまには本堂に行かないと」
決定権はすべて春にある。
僕は苦笑してうなずき、彼女と一緒に歩き出した。
―僕が春と知り合ったのは、中学3年のとき。クラス替えで、偶然同じ教室、席は隣になったのだ。
はじめは、ずいぶんきれいな子だなあと思っていた。アーモンドの形をした目も、日に焼けてミルクティ色になった髪も。
「これからよろしくね」
それが、僕らが初めて交わした言葉。
だけど春は、あまり学校には来なかった。今に始まったことではないらしい。
クラスメイトにいじめられていたわけではない(むしろ、明るくてきれいな春は人気者だった)。
春は、基本的に束縛が嫌いだった。
学校という場が、あまり好みではなかったようだ。自由を、ひたすら求めていた。
それでも特に問題にならなかったのは、春の成績が抜群に良かったからだ。
春は、何でも器用にこなした。
難解な数式も、
複雑な世界共通語も、
跳び箱も裁縫も料理だって。
僕は、そんな春にただ圧倒されていた。
春は、みんなが知らないこと、学校では教えてくれないことも知っていた。
「アキヒロ。どうして葉っぱの色は緑色なんだと思う?」
「葉の色?」
僕には分からなかった。
彼女がなぜそんなことを言い出したのかも、なぜ葉の色は緑なのかも。
「緑だから緑なんじゃないの?
理由なんてあるのかな」
そういうと、春は笑って、僕の肩に手を伸ばした。
きっと、外掃除の時間にくっついてきたんだと思う。そこには一枚緑の葉があって、春はそれを手で遊ばせた。
「答えはね、光と色の関係。
色ってほら、数え切れないくらいいっぱいあるでしょう?太陽の光って、そのいくつもの色を含んだ光なの。
葉っぱは、そのお日様の光の中でも、緑以外の色が好きなのよ」
「緑以外の色?」
僕は、おうむ返しに聞いた。
「そう、緑色だけが、葉っぱは嫌いなの。
だから、他の色は吸収して、緑色だけ撥ね返すのよ。その撥ね返された色が、私たちの目にはきれいな緑色として映っているの」
本当は、一番苦手な色なのに。でも、すてきなアイロニーよねと春は言った。
僕は、そして幸せそうに笑った春にぼうっと見とれてしまった。
きっと、この瞬間からだと思う。
僕が本格的に春に恋したのは。
春がいない日、ぼんやりと春の机を眺めるようになったのは。
「さっき、少しだけ植物公園に行ったの」
屈託なく、春は笑いながら話す。
本道への、緑に囲まれた初夏の道を、僕らは歩いていた。
「バラがいっぱい咲いていたわ。
香りと存在感がすごくて、くしゃみしちゃった」
「花の匂いでむせて咳き込むのは、花に対して失礼じゃない?」
「そこはこらえたわ。くしゃみだけ。
ご安心あれ!
だけど、一瞬、時間を忘れた。花の魅力はすごいわね」
僕らは、何度このやり取りを繰り返しただろう。
僕らが付き合う前から、春は深大寺へきていたようだ。多分、学校へ来なかった日、大抵の行き先はここだろう。
日がな一日、緑の中でゆっくり読書をしたり、花々の写生をしたり、あるいは鼻歌を歌いながら散歩したり。
だけど、なんだか今日の春はいつもと違う気がした。なんとなく。
「春、なにかあったの?」
そもそも、本堂へ行くこと自体が珍しい。
本堂へ行こうとしたのは、僕らの高校受験の願掛け一回きりだ(といっても、春は優秀だから問題なかった。春と一緒の高校に行きたくて、必死で願掛けしたのは僕だ。その願いは、叶った)。
春は、笑った。
だけどその笑顔は、今まで春が見せたことのないような、くすんだ笑顔だった。
「さて」
そして春は、口笛を吹き始めた。
―春が好きなのだと告げた日、彼女は僕を深大寺まで連れてきた。
「私、いつもここに来るの」
春は僕の手を引っ張り、緑の道を進んだ。
僕は何が何だか分からなくて、春になされるがまま、ここへ来た。
「緑がね、好きなの。
ここにいると、森の海で泳いでるみたいじゃない?」
その言葉が、また僕の胸を振るわせる。
春は、学校ではなく、この森で学んだことの方が、きっと多いのだろう。
「分かる気がするよ」と僕も言った。
春は足を止め、振り返る。
その眼差しに、射抜かれる。
「私がここに来たいって言ったときは、一緒に来てくれる?」
僕は一瞬言葉を忘れた。
けれど、あわてて「喜んで」と言った。
春は、満足そうに微笑む。
回らない頭で、これも縁結びの神様の力なのかななんて、僕は考えていた。
春は、口笛を吹いた。
でたらめなのか、それともこういう曲調なのか、僕にはいまいちよく分からない。
だけど、とてもきれいに春は口笛を吹く。
まるで子守唄のような、そのメロディに聴き惚れてしまう。
だけど、メロディが、止んだ。
「―告白します。
私ね、来月から海外に行くことになっちゃったの」
瞬間に、春は僕にそう告げた。
「え?」
「父親がね、ボストンで研究するんだって。
社会学の教授をやってるんだけどね、うちの父さん。
家族ぐるみで、日本を出ることになっちゃった」
驚いた?と、春は僕の顔を覗き込んだ。
「お別れになっちゃうね、アキヒロ」
目の前が、真っ暗になった気がした。
混乱と、めまい。
言葉が、出てこなかった。
分からない。
引き止めるべきなのかも、笑顔で見送るべきなのかも、冗談だろそんなのと言って笑えばいいのかも。
だけど春はそんな冗談はつかない。
悲しいことに、そんな冗談はつかないんだ。
「アキヒロ」
春は、また笑った。今にも泣き出しそうに。
「私、笑ってお別れしたいわ」
春は、もう決めてしまっていたようだ。
ボストンへ行くことも、今日別れを切り出すことも。
「どうして…」
―日本に残らないの?
―僕と一緒に暮らせばいいじゃない。
―いきなり言われて、笑って別れろという方が無理だ。
搾り出された言葉でさえも、その先が紡げなかった。
(縁結びの神様なんて嘘だ。
だって、僕らの関係は今、この場で終わりを告げようとしている。)
僕の心は、そう叫んで。
そして。
―メロディが、流れた。
僕は、思い頭を上げた。
それは、春の口笛だった。
いつだって。
そう、いつだって、春は自由だ。
自由な春は今、遠いボストンへ行こうとしている。
僕を置いて。
僕は、ボストンがどんなところだか分からない。今は、想像もできない。
怖かった。春に、置いていかれることが。
だけど、あんまりにも春の口笛が優しくてきれいで。
僕はいつの間にか、飲み込まれるように春のメロディに聴き入っていた。
アップ、スロー、スロー、アップ…
曲のテンポが、まるで不規則で、自由そのものの春のようだった。
ふと、視界が開けたと思ったら、そこは本堂の前だった。
通り過ぎる人々が、春と僕とに目を留めていた。
そうして、曲が、終わった。
親子連れの小さい女の子が、ぱちぱちと小さな拍手を送ってくれて、春は照れたように笑った。
「春。それ、なんの曲?」
僕は、いまさら春に聞いた。
春は、ふんわり笑って、
「覚えておいてね。私の好きな曲」
―リフレイン―
再び、その曲を奏でた。
「シューベルトよ」
本堂の前で不謹慎だとは思うけれど、自由な春は気にしない。
日に焼けたミルクティ色の髪が、口笛が、風に溶ける。
「覚えていてね」
春の声とメロディだけが、僕の耳の奥へ残響する。
きっと、ボストンという遠い土地でも、春と、このメロディは変わらないんだろう。
「春」
心が震えた。
鼓膜よりも確かに。
「僕が、会いにいく」
口笛を奏でる春に、僕は誓った。
縁結びの神様。あなたの手さえも、春がすり抜けてしまうというのなら、僕が追いかければいい。
自由で、それゆえに孤独な春を。
僕は、春と同じものを見て、同じものを感じたいと願ったのだから。
だったら僕もボストンへと旅立てばいい。
「きっと追いつくから。
ボストンに、会いに行くからね」
春は、泣きそうな笑顔でうなずく。
ままならない僕の恋人は、そうしてやっと、口笛に隠れて「ありがとう」と囁いた。
四季(東京都調布市/22歳/女性/会社員)