<第3回応募作品>「十年目の夏休み」 著者:前田 陽子
ぴゃあ ぴゃあ ぴゃあ
もうちょうど十年前の夏になる。私は小学四年生だった。夜、自分の部屋で寝ようとしていた。
私が住む緑の多い染地は、虫だの鳥だのいろんな音が聞こえてくる。でもあんな不思議な音は聞いたことがなかった。なんの動物だろう?ネズミ?私は懐中電灯を持って裏手の用水路に出かけてった。
ぴゃあ ぴゃあ ぴゃあ
それはまだ目もあかない、掌にのるくらいの生まれたての子猫だった。こんなところに迷い込めるはずがない。文字通り誰かに捨てられたのだろう。私は生まれたての子猫がニャーと鳴けないことを初めて知った。
二歳上のお兄ちゃんとそっと段ボールに猫をいれて子ども部屋に隠した。猫はもうぴゃあと鳴かず、小さくゴロゴロと喉を鳴らした。ほっとした。でも子猫は、早朝突然苦しみだし、あっさり死んでしまった。
私たちは泣いた。そしてひとしきり泣いた後、兄が深大寺に動物の供養所があることを思い出した。
自分たちの貯金を全部おろして、親に内緒で自転車で深大寺に向かった。お墓を買うつもりだった。お寺までは長い長い坂があり、身体が重たかった。
深大寺に着いた。お蕎麦屋さんの軒先の赤い腰かけが目を引く。すると、そこから男の子がひょいとのぞいた。
「何やってるの?」
兄の塾に、深大寺のお蕎麦屋さんの息子がいるとは聞いていた。兄は泣きながら動物供養の場所を聞いた。賢そうな男の子は色々聞かず、黙って道順を指差した。
「終わったら、戻って来なよ」
動物供養係のおじいさんは山羊みたいな白いひげを生やしてて、優しかった。
「ご両親も知らないならお墓じゃなくて合同葬になさい」
お金はほんの少しで済んだ。
帰り道、男の子の店に寄るとおばさんがおそばを三つ用意してくれた。
「いいことしたね。猫ちゃん喜んでるよ。」
男の子とおばさん、おそば、すべてのあたたかさが身に沁みた。タマコと名付けたあの猫は、きっと深大寺の仏様の元に還ったと私は信じられた。
あの男の子はいったいどうしてるだろう?いかにも利発なあの子は難しい中学に受かり、その後はあまり兄も知らないようだった。
あの子の顔は、ちょっとだけ新城に似てた。私はたまに、新城を日ごろ見てるからあの男の子を思い出すのか、あの子に似ているから新城と付き合っているのかわからなくなるときがある。
新城は私の通ってる女子大の講師だ。初めて彼のマンションに行ったのは大学一年の冬だった。十二月のオートロックの高層マンションはうすら寒かった。
「きれいな部屋じゃないけど、まああがって」
学者なだけあって、大きな机には、新城の専門分野である本が乱雑に積み上がっている。でもそれ以外は、言うほど雑多でもない。
そして、ビーフシチューとワインで少し早いクリスマスを祝って、私たちは付き合うことになった。
「先生は三十八歳だから、私の倍生きてることになるのね」
「僕は自分が素敵だと思う女性の年齢は気にならないけど、アキちゃんはどうなのかな」
しどろもどろになった新城がおかしかった。
春になった。私は新城が住む街の地理もだいぶ覚えて、彼のための夕飯の買い物もするようになった。
新城は千葉に別居中の妻子がいた。うすうすわかってたことだ。いわく「ダメ男に愛想をつかし」たんだそうだ。でも、離婚するのかどうかとか、そういうことには触れたくなかった。そんなこと、十九歳の私には重たすぎる。
ともあれ、私は新城のことが好きだった。私好みのルックスも、物知りなところも、年に似合わず純粋なところも。
私は彼に愛されていればそれでよかった。
八月の私の誕生日は、見事に土砂降りの雨だった。でも、新城が夜景の見える高層階のレストランを予約してくれていた。こういう気がきくところは、よ!さすが三十八歳!という気になる。
私たちは雨で煙った夜景を見ながらシャンパンで乾杯した。生のジャズピアノ演奏が素敵だった。ほろ酔いの新城が言った。
「二十歳おめでとう。まだ二十歳かあ。すごいことだね。」
「何よ、子供だってこと?」
私はすねるふりをした。
「何言ってるの。君は僕より大人なところがたくさんあるよ。」
「ねえ、あのピアノを弾いてる人、素敵じゃない?」
私はピアノ奏者を指差した。黒いドレスで、上品な色気があった。
「私、あんなオトナないい女になれると思う?」
私は笑いながら言った。新城は、ちょっと考え込むようにゆっくり言った。
「君はもう彼女なんかよりずっと、いい女だよ。こんなにきれいだし、優しいし、アタマだっていいし。」
新城は酔って、グラスを弄んでいた。
「君は僕とは段違いのいい男に愛されるよ。
…君はいい結婚を、するよ。」
聞こえないくらいの何気ない小さな一言だった。でもそれはぞっとするくらい完全に「他人事」だった。
新城の眼は、一面のガラス窓が映す遠く煙った大都会に飲み込まれていた。
そして彼の実体は、どこにもないように見えた。
怖かった。新城がもつ底なしの闇が。
彼の中に私と一緒の未来は一ミリグラムもないことはとっくに承知だった。でも、改めて新城の口からそれを実感させられると、意外にも私の心は芯からざっくり傷ついた。
私はすぐに話題を変えた。時はとりあえず過ぎてゆく。
高層階で、どうでもいい話題でその場を持たせていると、ふとそこから飛び降りてもいい気持になった。ガラスに映るアルカイックスマイルの私は、他人のよう。
いつの間に現実はこんなにばかばかしくなってしまったんだろう?夜景はとびきり美しくて、無限だった。ほんとうに、跳んでしまおうか。この素晴らしい夜景と一体になれるのなら。
私は表情を変えずにグラスを空けた。
「おっしゃる通り。私はいいオンナだから、先生なんてすぐ捨てて、すごく幸せになってくの。」
新城は笑った。
雨がやんだ。私は一人で新宿駅まで歩きながら、切っていた携帯の電源をつけた。ほぼ同時に電話が鳴った。
「アキ、デートだからって携帯切るなよ。俺は加奈といてもいつもONだぜ!」
兄だった。友人と麻雀中のようだ。
「何よ、圏外だったの!」
私は嘘をついた。
「俺にもいつか紹介しろよ、お前の彼氏。今度、加奈と4人で飲むか?」
兄はアリゾナの大学に留学中の身だ。なのに夏休みが長すぎるとかで、一か月も日本に帰ってきている。
「はいはい、そのうちね。相変わらず声がでかいよ、もー。何の用?」
「おう、明日深大寺行かないか?俺、日本にいるうちに行きたいんだけど」
「タマコのご供養でしょ?行くよ」
私はすぐに返事した。
電話を切ると、地下街へ潜っていった。どうせ兄は今日、徹夜マージャンだろう。そのとき、地下街のもっと地下のほうから声が聞こえた気がした。
ぴゃあ ぴゃあ ぴゃあ
夜、夢を見た。誰がこんなところに置き去りにしたんだろう?真っ暗な草っぱら。黒い用水路。まだ足もろくに立てず、彷徨ってた。でもタマコはいない。どうやら溺れかけているのは、わたしだ。
約束の土曜は快晴だった。私と兄は昔みたいにひいひい言って自転車を漕かずに、冷房の利いたバスでスマートに深大寺に向かった。
新城は今日、別居している息子とプールに行っているはずだ。私には言わないけど奥さんも一緒なのかもしれない。でも兄といると、そんなことも忘れた。
心をこめて、タマコの供養を終えた。
「お兄ちゃん、お蕎麦屋の男の子ってどうしてるの?」
私は思い切って聞いた。
「えっ。お前たっちゃんのこと覚えてたのか。」
兄は目を丸くした。
「言いにくいなあ…。」
たっちゃんは今年の五月に亡くなっていた。
兄はおばさんにお悔やみが言いたくて、今回深大寺に来たのだ。
私は兄が朝から下げてた菓子折りの意味を今さら理解し、膝がすこし震えた。兄は気重そうに、お茶屋さんに入るかと言った。
…学校も違ったし、あんまり会ってなかったけど、たっちゃんが不倫してる噂は有名だった。しかも、年が倍も違う大学の講師と。
でも、遊びだと思ってた。だって、子持ちの女だぞ。
最後にあいつに会ったのは去年だ。偶然調布駅で見かけた。
「年上の彼女はステキらしいな」
俺からかったけど、あいつ笑ってるだけだった。でも、たっちゃん本気だったんだな。
何がこじれたのか、今になっては誰もわからない。
表向き、あいつは脳の病気で死んだことになってる。でもほんとは、飛び降り自殺なんだ。女のマンションから…
兄はそこまで言うと、肩で深く息をした。私は涙が溢れた。ぽろぽろ落ちた。私はきょう、たっちゃんにここに呼ばれたと思った。
「わかるよ。私もきのう新宿のビルで飛び降りるところだったもん。
たっちゃんもある時、本気で好きな人の未来に、まるで自分がはいってないことを実感しちゃったのかもね…。残酷なことだよね。」
兄が仰天して私を見た。
私は新城のことが好きだった。たっちゃんも本気で女性を愛したのだろう。
私は、会えば会うほど新城への愛着が募った。でもそれは叶わないことだった。だって、彼の中は空っぽなのだ。
彼に手を握っていてほしかった。でも彼の手はどこにもない。彼は自分の闇の中の住人であることをやめなかった。そんな人と付き合うためには、割り切らなければいけない。本気にならないで、大人になることだ。でも、それは私の心の見えないところを少しずつ、剥ぐように確実に傷つけた。そして、憔悴した。
「そこから先は何もないよ。たとえ飛び降りようと。」
どこからか、むかし道案内してくれたたっちゃんの幼い声がしたような気がした。
「…紹介したくない彼氏なのかとは思ってた。」
兄がつぶやいた。そして、おもむろに立ち上がった。
「さ、本堂に行くか。たっちゃんのために祈るぞ!」
大声につられて、私は涙でぬれたハンカチをしまった。そのばかみたいな大声は、兄なりに私を慰めていた。
深大寺の深い緑から大きなみんみん蝉の声が響いた。無力だったタマコはもう天国で立派な強い猫になってるだろうか。そう信じたかった。
私は立ち上がり、八月の眩しい陽光の中を歩き始めた。
前田 陽子(愛知県名古屋市/33歳/女性/主婦)