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<第3回応募作品>「パラシュートのヒロイン」 著者:古澤 あずみ 

 前掛けに残った打ち粉をふるい落としながら、僕は、「蕎麦処・しまむら屋」の通用口から飛び出した。幼なじみの水川志穂から、帰ってきているという連絡があったからだ。
 向かったのは深大寺小学校の裏口に通じる長い階段。そこでは、両脇に生い茂った葉桜のカーテンが陽光を閉じ込めて揺れていた。
僕は逸る気持ちを落ち着けようと石段に腰を下ろし、煙草を取り出した。すると、上からこつこつと音を立てて、僕の隣に水色のミュールが並んだ。見上げると志穂がいた。
「慎ちゃん、嶋村慎治君よね?」
 志穂に声を掛けられて、僕は主役を迎える司会者のようにかしこまって立ち上がった。
「小学生のとき、ここでよくやったよね。ジャンケン遊び」
「あ、ああ。パーはパイナップルなのに、パラシュートだって言い張ってたよな」
「慎ちゃんはいつも負けてた。だっていつもグーばっかりなんだもん」
 そんな会話を交わして、僕達は顔を見合わせて笑った。
指の間の白い煙草が薄茶色になっていく。見上げると、矢の様な斜線が降り注いでいた。 
持っていた手拭を志穂に被らせて、僕達は通り沿いにある不動堂の軒先に滑り込んだ。 
並んで立っていると、今、こんなことやっているのと志穂は名刺を差し出した。「シナリオライター」という肩書きが記されていた。
「ライターかぁ、夢を叶えたんだ」
そう言うと、志穂は「まあね」と肯定したものの語尾には力がなかった。
「今日はどうしてここに?」
「…取材、みたいなものかな」
 「覚えてる? ここで昔雨宿りしたこと」
応えのかわりなのか、志穂は寒そうに身体
を縮めて上着の襟をすぼめた。その姿がまるで今にも萎みそうなパラシュートに思えた。
雨音に誘われて、僕は二人で過した、八年前の短い日々を想い出していた。
志穂が転校してきたのは六年生の終わりになってからだった。母親と二人暮らしだと担任が言っていたのを記憶している。
初めて話した場所があの階段だった。クラスメイトとジャンケン遊びをしていると、仲間に入れてと強引に加わってきたのだ。
「え? パラシュート? 嘘だろー」
皆から笑われても、志穂は断固としてパーはパラシュートだと主張した。
「福岡じゃ、パーはパラシュートなの!」
皆に同調することなく、志穂は志穂の方法で皆に馴染んでいった。
パラシュートを背にして、ひらりと降り立ったかの様な、勇ましいヒロインに僕の心はいとも簡単に占有された。

志穂は妄想の中で遊ぶドラマ作りの天才だった。それを知ったのは、僕の愛猫サクラが死んだ時だった。
サクラを胸に抱いて、僕達は山門前の水路を辿って万霊塔までとぼとぼと歩いて行った。
万霊塔は葬儀から埋葬までする動物の総合葬祭場である。墓にサクラを納めて斎場を出てくると、斑模様の猫が首を伸ばして、淋しげに尖塔を見上げているのが目に止った。
「あの猫、サクラに会いたいのかも。そんな顔してる。私には分かるの」
そうかもしれないと思った。志穂の妄想がリアルに感じられたのは、それがサクラに対する最高の餞の言葉だと子供心にも思えたからだろう。素敵なドラマメーカーの志穂といつまでも一緒にいられると思い込んでいた。そうあの日までは…。

早咲きの桜が散り、濡れて透き通った花びらが小学校の階段をびっしりと覆っていた。
その日も、志穂はジャンケンする度にどんどん階段を上って僕から遠ざかって行った。
あと数日もすれば中学校の制服の袖に手を通し、子供時代に終わりを告げる、そんな著しい変化を前にして、僕の心はざわざわと揺れていた。志穂は早々とてっぺんに到達すると僕に向かって宣言した。
「私ね、作家になりたいと。お父さんが果たせんかった夢、私が叶えたいんやもん」
二人きりの時に不意に飛び出す方言も僕には嬉しいハプニングだった。僕だけに心を許している、そんなときめきさえ感じていた。
明確な未来を語る志穂が羨ましかった。
現状維持型の僕は、いつか家業の蕎麦屋を継ぐのだろうという漠然とした未来しか描いていなかったからだ。僕が黙っていると、志穂は急に立ち上がり、もう一回勝負をしようと言い出した。しかも負けたら相手の願いを何でも聞くこと、という罰ゲームのおまけまで突き付けてきた。
願いはあった。もしも勝てたら志穂に自分の気持ちを打ち明けようと思った。中学校に進んでもずっと友達で、いや、飛び切り仲の良い二人でいような。そう宣言するつもりだった。しかし、僕に振られたのはやはり罰ゲームの役目だった。志穂の願いは何だろう。僕は静かに待っていた。
「私が…私がね、もしも…」
その言葉を遮る様に、雨が落ちてきた。激しい雨足に追われ、僕達が迷わず目指したのが不動堂の軒先だった。雨音は強まるばかりだったが、藁葺きの屋根は互いに身を寄せる僕達を優しく覆ってくれていた。肩先から仄かに志穂の体温が伝わり、発車ベルにも似たけたたましい鼓動を悟られない様に何度も深呼吸をして紛らわせた。さっき志穂はいったい何を言おうとしていたのか、「もしもって何?」と口を開こうとした時、黒い傘から不意に視界を塞がれた。
「志穂ちゃん、お母さんが大変なことに」
同じ団地に住むという隣人がアッという間に志穂を連れ去ってしまい、それからの音信は途絶えてしまった。
後に人づてに、志穂の亡き父親を追うように病気がちの母親も逝ってしまったと知らされたとき、僕は何故か、万霊塔を見上げる斑模様の猫の淋しげな横顔を思い出していた。 

あのときの志穂の願いは何だったのか。
雨は通り過ぎていった。それなのに、隣に並ぶ志穂の頬は濡れていた。雨なのか、それとも涙なのか。聞きたいことはたくさんあったが、僕は言葉をグッと飲み込み、店に志穂を誘った。まだ自慢できるほどの腕前ではなかったが、自分で打った蕎麦を振舞った。こっそりと大盛にして。
どんな時も満腹になると人は幸せな気持ちになれるものだと、父からいつも聞かされていたからだった。食べ終わると、志穂の頬は桜の花びらのような明るさを取り戻していた。
厨房の暖簾越しに母と姉が興味津々で僕達を見守っていた。泣き顔で俯く志穂が何か訳ありに見えたのだろう。小意地の悪い姉は、腹を突き出すポーズを取って『孕ませた?』というサインを送ってきた。僕は憤然として首を振った。ここでは話は出来ないと悟り、店を出て再びあの階段に向かった。志穂が一番素直になれる場所だと思ったからだ。

「…駄目になったのよ。テレビデビューするはずだったんだけど。私の作品は他の人が書くようになったって。私の物なのによ!」
階段に着くと、志穂は胸の内を吐き出した。
理不尽とも思える厳しい世界で健気に闘っている志穂の姿が想像できた。そんな志穂に月並みな励ましをするのはよそうと思った。
ふと僕はジャンケン遊びをしようと申し出た。志穂は不思議そうな顔をしていたが。
勝ったら何でも願いを叶えてもらえるというあの時の条件を付けてゲームを始めた。
どうしても今日だけは志穂に勝たなければならない。そんな思いでジャンケンをした。
ゲームの最中、僕はあることに気が付いていた。僕がいつもグーばかり出していたのは、志穂の歯切れのいい「パラシュート」が聞きたかったからなんだと。グーを封印したお陰で、僕は初めて志穂に勝利した。志穂は神妙な顔で僕の言葉を待っていた。
「あのさ…辞めんなよ、シナリオ。それがファン第一号の僕の願いだから。それと、ここにはいつでも戻ってこいよ。親戚がいなくたって深大寺は志穂の故郷なんだから」
志穂は何度も何度も頷き、瞳を潤ませて涙まみれになっていた。

バス停までの道程を僕達は無言で歩いた。調布駅北口に向かうバスが近付いてきた時、志穂が僕に振り向いてこう言った。
「取材なんて嘘。本当は、あの時言えなかった願いを叶えてもらいたくって…あの日、慎ちゃんに言おうとしたこと、それはね、もしも私のパラシュートが墜落しそうになったら絶対絶対、受け止めてねってこと」
その願いも今日、叶ったのだと志穂は、はにかみながらバスに乗り込んだ。
想いは繋がっていた。
初恋が実らないというのは、相手を待つことができなかった人の言い訳かもしれないと思った。待つことは僕の得意分野だから。僕はパラシュートが再びこの町に降り立つまで待とうと思った。
それまでにもっと美味い蕎麦が打てるようにならなくては。これまでとは違うときめきに心の根っこを揺さぶられ、僕は無性に走りたくなった。人目も気にせず、小さな子供の様に両手を広げ、飛行機を真似ながら、山門前の通りを一気に駆け抜けて行った。深大寺小学校の階段ではジャンケン遊びに興じる子供達がいた。パーを出した子に向かって、僕は思わず叫んでいた。
「パーはパラシュート。この深大寺じゃ昔からそうなんだ!」

古澤 あずみ(東京都大田区/50歳/女性/講師業)

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