<第3回応募作品>「野沢菜おやき」 著者:壱尋
『明日は行きたい所があるから、十一時に三鷹駅で待ち合わせでどう?』
夜の十時を過ぎた頃、二週間ぶりに彼女から届いたメールに、ほっとした反面、正直戸惑った。
『三鷹駅?』
いつもの駅じゃなくて?そういう意味を込めて短い返事を送った。彼女と俺の家の最寄り駅は同じだった。十一時待ち合わせの時間を見たって、俺と会う前に何か別の用事があるわけでもなさそうだ。
『そう。行き先は内緒』
俺の疑問に先回りして、牽制をかけるような受け答えに、嫌な考えが頭をよぎる。
『分かった』言い回しに迷って、結局こんな短い返事になった。
学生時代から付き合いだして六年、有紀子とは週末を一緒に過ごすのがほとんどになっていた。特に約束をしなくても、惰性的にそんな関係になってから、もう随分時間が経っていた。だから二週間前、俺なりに、そういう雰囲気に決着をつけるつもりでプロポーズしたのだが、考えさせて欲しいといわれてから今、かなり気まずいのも確かだった。現に先週末、俺たちは会っていない。うやむやな雰囲気の週末を持て余して、部屋の掃除をしてみた。その結果マグカップを一つ落として割った以外、大して何も変わりはしなかった。
俺たちの最寄り駅ではなく、三鷹駅に十一時ならばいつもより早く家を出なければならないのだと気付いたのは、出掛ける一時間前だった。まだギリギリ間に合うと腕時計に目をやりながら、スニーカーに足先を突っ込んでドアを開けた。
――大丈夫。
三鷹に特別深い思い出はない。今までのデートだって朝の弱い俺に合わせて、大抵十一時頃からだった。もいつもどおりのはずだ。彼女の思惑がどうあれ、手酷いことにはならないに違いない。大丈夫。・・・多分。
これじゃまるで自己暗示だ、と苦笑して部屋に鍵をかける。今日は土曜日。今夜、俺たちは今までどおりに、一緒にこの部屋に帰ってくるだろうか。そしていつもより少しだけ綺麗な部屋に、彼女は気付くだろうか。
「おはよう」
時計より僅かに早く滑り込んだ駅の改札付近には、既に彼女の姿があった。
一瞬目が合ったけれど、そこからは何の感情も読み取れない。会ったばかりでそれも一瞬見ただけなら当然なのに、つい深読みして勘繰ってしまう。
「バスに乗るからね。こっち」
現地に着くまで行き先は教えないつもりらしいと悟って、先に歩き出した彼女に大人しく従えば、頭上の案内板に「ジブリ美術館」の文字。
ホラーやサスペンス、たまにはラブロマンスとかそういうのに混じって、時々俺たちは「となりのトトロ」や「魔女の宅急便」をレンタルビデオ屋で借りて見た。俺はジブリ映画の中では「紅の豚」が一番のお気に入りだったけど、彼女は男のロマンを理解しなかった。でも俺も彼女も「魔女の宅急便」に出てくる黒猫の「ジジ」のちょっと生意気な口の利き方を気に入っていた。だからてっきりジブリ美術館に行くものと思った。赤いリボンをした小生意気な黒猫のマグカップを一組、お土産にでも買って帰るかと考えている俺の手を、彼女が引いた。
「こっち。ジブリ美術館じゃないよ」
不意に掃除の時にマグカップを落として割ったことが重なって、繋がれたままの彼女の手を見やる。小さい手。
――なあ有紀子さ、お前今、何、考えてる?
駅前のコンコースを下りて、彼女が並んだのは、中年からそれより年上の人の多い列の最後尾、調布駅行きのバス停だった。
『神代植物公園前』というバス停で乗客が半分以下に減ったが、彼女は迷うことも大勢にも惑わされることもなく『深大寺入り口』で降りた。珍しいこともあるものだ。
「お寺?」
「そう。渋いでしょう」
静かに告げた彼女の口元を見つめて、もしもこれが最後のデートになるのなら随分だ、と思った。俺の報われない恋心を、別れたその場で供養してもらえ、とでも言うことなのだろうか。そんな、洒落たブラックジョークのセンス、彼女にはなかったと思うけど。ますます彼女の考えていることが分からなくなる。考えるのはやめたはずなのに、またすぐに一挙手一投足に惑わされている自分に気付いて、溜息をついた。時間が経てば分かる。でも、やっぱり気になるのだ。
「へぇ、結構ちゃんとした観光地なんだな」
人の波が増えるに連れて、出店から漂う香りも濃くなってきた。
「雑誌に載ってたの」
深大寺は元々彼女が知っていた場所ではなかったらしい。バスを降りて歩いている途中で気付いたが、特産品らしい蕎麦の文字が目立つ。
俺は彼女の腕を引いて道の真ん中を歩くよう促した。なんだか収まりが悪いのだと、人の右側を歩くのが好きではない彼女は、俺を見上げる。
「湯気に当たったらまずいだろ」
はっと気づいた様に頷いた彼女はバッグからハンカチを取り出す。
彼女は蕎麦アレルギーだった。蕎麦屋、蕎麦饅頭、蕎麦粉。何を好んでこんな蕎麦だらけの場所に来たのだろう。やっぱり、なにかあるのだ。願わくば、その何かが、悪い結果ではありませんように。
見た目よりも急な分厚い石の階段を上って、大きな門をくぐると目の前が本堂だった。
ご縁がありますように。財布から五円玉を取り出して、賽銭箱に投げ入れて、手は叩かないでそっと合わせた。彼女も隣で瞼を閉じる。寺で願う事じゃないかもしれないと気付きつつも、もう一度願った。有紀子とまだこの先も縁が続きますように。
引き返して門を抜けたすぐ向かいに、おやきと煎餅を焼く店があった。昼過ぎのこの時間、丁度小腹も空いてきていたし、ちゃんとした昼食はとりあえず三鷹駅に戻ってから考えようと決めて、野沢菜のおやきと梅の煎餅をひとつずつ求めた。釣り銭と財布をしまうのを待って、半分に割ったおやきを彼女がよこす。
「いい香り。修ちゃん、この味好きでしょう?」
そう言いながらとても自然に、並木道の途中のバス停に彼女は並んだ。
「お嬢さん、どこへ行くんですか?」
俺はわざと畏こまって彼女に尋ねた。
「どこって、三鷹駅に戻るんでしょ?」
きょとんとして、彼女は答える。
「それは京王線つつじヶ丘駅行きのバス停ですが」
え、と視線を移した先には、つつじヶ丘駅行きの表示。
「あれ?間違った。何となくつられて並んじゃった」
「だと思った」
気まずいとき、唇の上下を噛み合わせて、ちらっと右上を見る彼女の癖。それから、そろそろと列を離れて、再び歩き初めた。
「やられた」
その言い回しが可笑しくて、思わず吹き出した瞬間に、残り一口分くらいのおやきが手からころりとバランスを崩して、地面に落ちた。
中身が散らかることもなく、ぽてんと道端に転がったおやきをそのままにしておくには余りにも不自然だったが、彼女がそっと屈んで取り上げた。
「はい、今度は落とさないでね」と代わりに半分に割った煎餅が渡される。落ちたおやきの欠片はさっきまで煎餅を挟んでいた紙にきれいにくるまれて、彼女のバックに収まった。「ありがとう」と返した。
有紀子とのこういう自然な遣り取りが好きだった。だからこの先も、ずっと大切にしようと決めたのだ。当然の様になされるさり気ない気遣いと、それにありがとうと返せる関係。こんな風になら、きっとずっと一緒に生きていけると思った。
「俺はまだ秘密の行き先があるのかとも思ったけど」
「・・・ないよ。今日の目的地は深大寺だけ」
それきり気まずそうに黙った彼女を見やると、口を噤んでいる。
「なに?」
歯切れの悪さに先を促すと、んーと唸り声が答える。目的を達成したなら、もうそろそろ意図を教えてくれてもいいはずだ。俺にしても、流石にもう我慢の限界だ。
「あのね、修ちゃん」
彼女が不意に立ち止まる。
「深大寺って、お寺にしては珍しい縁結びの神様なの」
俺は深く息をついた。なんだそういうことだったのか、と思うと同時に緊張が解けて肩の荷が下りた。安心した。
「お寺は神様を祭る所じゃないよ」
地に足が着けば、余裕も出来る。俺の突っ込みに「そうでした」と彼女は照れたように笑った。
「それにここの名産が蕎麦だなんて知らなかった。一人で来たら、危うく死に掛けてたかも」
「しかも帰りは三鷹駅じゃなくて、つつじヶ丘駅に着いちゃってたかもしれないし?」
「方向音痴はなかなか治らないものだよ」
「一生だめかもな」
「うん。だめかもね」
彼女はまた笑った。
「・・・迷ってた。二十五、なんてまだ早いんじゃないかとも思った。プロポーズ、嬉しかったのも本当だけど、正直、修平よりいい人が他にいるかもしれないとも、考えた」
「・・・うん」
有紀子のこと、俺より幸せにできる男は居るのかもしれないと、俺自身思う。だけどそういうことじゃない。
それになにより「幸せにする」なんて言い方は有紀子自身が怒る。やって貰ってるばっかりなんて、自分の人生を人に預けちゃうのなんて、絶対に嫌だ、とか何とか言うに決まってる。
「でも修ちゃんがあたしのこと良く見てくれてるのも分かった」
そう言葉を続けて有紀子ははにかんだ。可愛いな。間抜けだけど。
「結婚しようか」
それが、二週間前の俺の申し出への、彼女の返事だった。
「・・・良かった。ここでプロポーズを断られたら、それこそ深大寺に引き返して絵馬を描きに行かなきゃなくなるところだった」
代わりに厄除けの護摩でも焚いてもらおうかと言い合って笑った。
「修ちゃんの厄年の時にでもさ」
「いや、まずはお礼参りだろ」
「お礼参り?」
「さっき。祈ったんだよ。有紀子とまだ縁が続きますようにって。俺はプロポーズ断られた上に、そのまま振られるんじゃないかって一日ひやひやしてた」
今度こそ、三鷹駅行きのバス停が見えた。お揃いのマグカップは来週末に、有紀子と一緒に買いにいこうと思う。
壱尋(東京都青梅市/20歳/女性/学生)