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<第3回応募作品>「無言参り」 著者:前田 直哉

 僕の育ったところには面白い噂があったんだ。近くに縁結びの寺だか何だかがあってね。よく恋人同士がお参りに行ってたんだ。たしか僕が中学生くらいの時だったと思うんだが、友達からその寺のある噂を聞いたんだ。七月一日から七夕まで、毎晩欠かさずにそこへお参りに出かけると意中の人と両思いになれるっていう噂だった。噂が広まったばかりの頃はクラスの女の子がきゃあきゃあ言って話していたな。噂らしく、友達のお姉さんが成功したとか言ってね。
 ただひとつ面倒な決まりごとがあってね、そのお参りを続ける七日間は家からお堂に行くまで誰とも会ったり話したりしてはいけないそうなんだ。つまり、そのお参りをしている姿は誰にも見られてはいけないんだ。そうするとお参りの効果は無くなってしまうんだって。

 ここまで語り終えると、今日子は大きな目を二、三回しばたかせた。
「ロマンチックだね。人魚姫の話みたい」
 そう言って笑った今日子は、実際の年齢よりもずっと幼く見えた。エプロンの端で手を拭うと、僕が食べ終えた蕎麦の食器をゆっくりと片付け始めた。
「ずいぶんとそのおまじないに詳しいみたいだけど、もしかしてやったことあるの?」
 悪戯っぽく、今日子が言った。
「馬鹿言うなよ、そんなことするわけないだろ? 単なる噂さ」
 僕は笑って否定した。今日子はふうんと言って、そんな僕を場違いな真剣な眼差しで見つめた。
「深大寺にも、そんな噂とかないのかな。縁結びの寺なんだろう?」
「聞いたことないわ、ずっとここに住んでいるけど」
 現在大学生の彼女は、深大寺で生まれ育ち、大学もそう遠くない八王子に通っている。生まれてこの方、調布の杜を出たことのない生粋の地元っ子だが、そんな彼女が知らないとなると、やはりそういう噂はないのだろうか。
「深大寺でもできるかも知れないよ。今日子ちゃんもやってみたら?」
「それだけで、好きな人と一緒になれるのなら、やってみてもいいかもね」
 目を逸らすように今日子は天井を見上げて、さも興味がなさそうに言った。
「もうすぐ七月だね」
 店から外の道路が見渡せる大きな窓の方に歩み寄って、今日子が呟いた。昨日からしとしとと降る雨は、今年の梅雨が長引きそうな予感をさせた。もう長いこと晴れの日を見ていない。
「そう、チャンスは一年のうちにたった七日間しかないんだぜ」
「もう…、まだ言ってるの? やらないわ、そんなおまじない」
 すこし怒ったような顔をして、今日子がおどけた。
 日が落ちきり暗くなり始めた頃、僕しか客がいなかった蕎麦屋に、やや年配の夫婦らしき客が訪れた。奥で女将さんが咳払いをすると、今日子はあわてて接客を始めた。僕と女将さんは目配せをして苦笑した。
「そろそろ行くよ」
 荷物を背負って伝票を持つと、接客中の今日子が少し笑って口だけで、また今度と僕に伝えた。
「あと何回来られる?」
 勘定を済ませると今日子が寄って来て僕に聞いた。僕は笑って外を見ながら言った。
「まだ、たくさん」
 今日子のありがとうございましたに見送られて、外に出る。どんよりと曇り、雨の降る道で傘をさすと、世界がひどく狭くなった気がした。
 僕は帰り道、帰郷の日までにあと何回この深大寺の蕎麦屋に来られるのだろうかと、頭の中の暦を数え始めた。

 昼食にしては遅すぎ、かといって夕飯には早過ぎる中途半端な時間に、僕は決まって今日子の働く、その蕎麦屋を訪れた。初めてこの店にやってきた日も、そんな中途半端な時間だった。
 客はまず誰もいないその時間帯に、店内のテレビを見ている女将さんとパートの女の子。初めてその店を訪れた時は、休憩時間だったのか、その女の子は店のカウンター席で蕎麦を頬張っていて、咄嗟に挨拶ができずに、後ろを向いてしばらく口に手を当てていた。どうしたものか店先で困っていると、待った分だけ元気の良い「いらっしゃいませ」と、客を待たせていた割には溢れるような笑顔。気まずい沈黙が嘘のように晴れて、僕は思わず笑った。彼女の紅潮した顔がまぶしく見えた。
 店を気に入り、初めて訪れた日から十日くらいの間に二、三回ほど行き、その時僕は彼女の名前が今日子ということを彼女から聞いて知った。と言うよりは、彼女が自分で言ったようなものだった。
 人当たりのいい子だった。いつも店が暇な時間に行っていたせいか、手持ち無沙汰な彼女は僕によく話しかけてきた。最初は天気がどうとか、他愛のない話だったが、通ううちに彼女は自分の話をするようになり、時に僕の話を聞きたがった。自分の身の上話を聞かれるなど、僕の人生の中では珍しいことだったから、初めは何を話していいか分からなかったが、時折冗談や嘘を交えて語った話を、彼女はいつも笑顔で聞いてくれていた。
 いつしか、僕が話すほうが多くなり、今日子は昔話をせがむ子供のように、僕が来るとテーブルの向かいに座るようになった。これではどっちが客なのか分からない。
 僕も、意識では店と客の関係というよりも、家族に近いものを感じていた。長いこと家族と離れて暮らしている僕にとっては、家族そのものでもあったように思える。
 店に通いだしてからの二年は、本当にあっという間に過ぎてしまった。この二年は、念願叶って上京し、新しい環境と仕事に夢を膨らませ、そして理想とかけ離れた厳しい現実の中で膨らませた夢を急速に萎ませるのにも、十分な時間だった。
 ここ数ヶ月は今日子に喋った話も、故郷のことばかりだった気がする。今日子に故郷がいかに良いところであるかを話すことで、尻尾を巻いて逃げる準備をしていたようで、そんな自分がひどく情けなく思えた。
 盆前には東京を引き払い、実家に戻るつもりだった。

 東京の暮らし全てが嫌なことであったわけでは勿論無い。現に今日子がいる店は居心地のよい場所だったし、忙しい仕事を共にした同僚たちも、友人として不足の無い人たちだった。
 前から仕事を辞める話はしていたので、そんな僕を気遣ってか、毎週末、違う人が送別会だの、説得会だのを開いてくれた。
 今週もそんな週末の例外に漏れず、金曜日の夜にしこたま飲んだ。終電で帰り、アパートに戻る道すがら、酔い覚ましも兼ねて僕は遠回りをして帰宅していた。
 電車を降りた頃には、長いこと降り続いていた雨も止み、厚い雨雲もところどころ綻び、初夏の濃紺の夜空を覗かせていた。
 遠回りの最中に帰郷のことを考えた。僕は本当に故郷に帰りたいのだろうか?
(あと何回来られる?)
 店を出るときの今日子の顔と声が不意に頭の中に浮かんだ。まだたくさんと言いながら結局あの日以来足を向けなかったのは、悪いことをした気がしていた。
 いつの間にか深大寺の前に来ていた。僕は雨上がりの深大寺が好きだった。森の中のような濃密な空気と深緑、光る玉砂利の絨毯、雨に煙った境内は幻想的な空間だった。
 そんな美しい景色に引かれるように僕は境内へ上った。本当は入ってはいけないのだろうが、愛した町と別れるのだ。今日くらいは大目に見て欲しい。
 僕は緊張した。境内に、人がいた。暗くてよく見えなかったが、小柄で子供か女性のような気がした。終電も無いこんな時間に、何をしているのだろうかと、自分を棚に上げて思った。
 時間が時間なだけに僕は初め、幽霊がいるのだと思った。心臓を鷲掴みにされたような寒気を感じた。だがその幽霊は、深大寺の本尊に向かって手を合わせている。
 そっと暗がりに入ってじっと幽霊を見て、僕は再び驚いた。その幽霊の正体は、今日子だった。ぎゅっと目を瞑り、口は真一文字にきつく閉められ、無言の祈りがこちらに聞こえてしまいそうなほど、真剣な顔だった。
 何をしているのかと、今日子を呼ぼうとした声を僕はあわてて飲み込んだ。ひょっとして、今日子は僕が教えた無言参りをしているのではないだろうか。今日は七月七日、七夕だった。彼女が、僕が教えたとおり忠実に無言参りをしているのなら、今日は最終夜ということになる。そして、ルールで彼女は無言参りを終えるまで誰とも会ってはならない。
 僕は急に、今日子が今想っているかもしれない男に激しい嫉妬を覚えた。こんな噂を容易く信じてしまうほどに、彼女はその男を好きなのだろうか。僕は、あんな噂など言わなければ良かったと後悔した。しかし同時に、彼女が今祈りを込めているのは、もしかして僕なのではないかと考えた。
 ひたすらに祈る彼女を見て、僕はずっと今日子が好きだったのだと、この時初めて気付いた。
 雲が薄くなり、夜空に月が顔を出した。暗くてよく見えなかった彼女の姿が、青白い月明かりに照らされて、きらきらと光った。たった今、彼女の願いが聞き届けられたかのように、伸びた一筋の月光が彼女に手を差し伸べていた。永遠に見ていたい、美しい瞬間だった。
 僕は彼女の想い人が誰であろうと、もうどうでもよかった。ただ、彼女の純粋な想いを壊したくなかった。そっと立ち去るつもりだった。
 雨で濡れた玉砂利が僕の足元で鳴った。静寂の中でその音は、今日子を振り向かせるのに十分な音だった。
 今日子が驚いて、こちらを見た。僕は見つからぬよう暗がりでじっと息を潜めた。
 今日子の顔が無言参りに失敗した悲しみでみるみる歪んだ。大きな瞳から大粒の涙がぽろぽろと落ちるのが遠目でもはっきりと分かった。
 流れる涙を両手で拭いながら、今日子は逃げるように走った。
「待ってくれ! 今日子ちゃん。僕だ!」
 堪え切れず、僕は暗がりから飛び出して今日子を呼び止めようとした。聞こえてか、聞こえずか、今日子は走るのを止めなかった。
 僕は小さくなっていく今日子の背中を、呆然とただ見つめていた。

 今日子の無言参りは、やはり僕のせいで失敗してしまったのだろうか。傍らで微笑んでいる妻に、僕はあの時の無言参りの結果を、未だ聞けずにいる。

前田 直哉(東京都多摩市/23歳/男性/SE)

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