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<第3回応募作品>「梅雨明け」 著者:鶴田 まり子

夫から電話があったのは、夕飯の支度をしている時だった。
「もしもし? ゆう子?」
のどに何かがひっかかっているような秀治の声と、携帯ごしに伝わってくる緊迫した空気に、新妻のゆう子はどきっとした。
「どうしたの? なにかあった?」
「高速で事故った。さっき現場から引き上げてきて、これから警察に事情を聞かれるとこだ。今夜はたぶん帰れないけど、怪我はしてないから心配すんな」
「事故って――」
「大丈夫だよ、何かあったらまた連絡するから。じゃあな」
「ちょっと待ってよ! もしもし、もしもし?」
切れてしまった携帯を無意識にたたんだゆう子は、上の空で台所に戻った。炊飯器の内釜に二合の米を入れ、しゃくしゃくと力をこめて研ぎながら、落ち着け、落ち着け、と胸のうちで繰り返す。
秀治は大型トラックのドライバーだ。怪我は無いと言っていたが、単独事故なんだろうか。それともトラック同士か、もし相手が乗用車だったら、家族連れが乗っていたりしたら……。炊飯器のスイッチに手を伸ばしかけて、ハッとわれに返った。
(秀ちゃん、帰ってこないんだった)
突然わきおこった心細さから逃れるために、ゆう子は小走りに玄関に出た。ミュールをつっかけてドアを開ける。ひんやりした闇の匂いをかいでいると、雨音が耳の奥にしみてきた。アパートの通路に、鉢植えのアジサイが青白く浮かんでいた。

翌朝、疲れきった顔で帰ってきた秀治は『トンネル内でスピードオーバーの車に追突された』とだけ語り、さらに詳しく聞き出そうとするゆう子を『うぜえんだよ』の一言で封じ込めた。こうなると、秀治は頑として口を割らなくなる。
それが男らしいと思ってんの? いつの時代の人間だよ、と心中で悪態をつきながらも、ゆう子はあきらめるほかなかった。

「今日は牛丼だよー。頑張って国産肉買ったんだよ」
ゆう子の声に、のっそりと起き上がった秀治は、どんぶりを取り上げて一口、二口かきこんだが、すぐに眉根を寄せて箸をおいた。
「味つけ、薄かった?」
「いや。なんか最近、腹の調子がおかしくて」
「なんだ、早く言ってよ。今、おかゆ炊くから」
「いいよ、あんまり食いたくない」
「だって、食べなきゃ体がもたないよ。そうだ、素麺買ってあったっけ。素麺なら入るでしょ?」
「食いたくない、って言ってんだろ!」
たたきつけられた語気の荒さに、ゆう子は息を呑んだ。出会ってから二年半、今まで人並みに喧嘩もしたが、秀治のこんなに冷たい声を聞いたのは初めてだった。
「おれ、会社、辞めようと思う。もう、長距離は無理だ」
突然、自分の存在が宙に浮いてしまったような戸惑いと焦りが胸を噛み、ゆう子はその無念さを言葉に出さずにはいられなかった。
「勝手だよ、秀ちゃんは!」
自分でも驚くほどとんがった声が出た。秀治は顔を伏せたまま、食器を片付けるゆう子の手元だけを見ていた。

ゆう子が野川沿いの古い家を訪問するようになってから、そろそろ一年になる。主婦である晴代の家事の手伝いと、その夫・敏夫の介護のためだった。認知症を患っている敏夫も、孫のように若いホームヘルパーが来るのを楽しみにしているらしい。
「ゆうちゃん、ふさいでる? 新婚さんらしくないね」
その日、晴代に穏やかな声で尋ねられて、ゆう子は張り詰めていた気持ちがくにゃりとしなった。悩み事を仕事場に持ち込むつもりはなかったのだが、気心の知れた晴代に対する甘えで、ゆう子はいつか、秀治の交通事故から前夜の口喧嘩に至るまでのいきさつを、洗いざらい打ち明けていた。
「そりゃあ、大変だったね」
話が予想以上に深刻だったせいか、晴代は卓の前でいずまいを正した。敏夫の爪を切っていたゆう子は小さく笑って、
「力になってあげたいのに、結局は何の役にも立てなくて。悔しいけど、私、奥さんの資格がないみたい」
晴代は、パーキンソンでこわばった指をゆう子に預けている夫に視線を向けた。
「私らにもそんな時があったわ……この人ねぇ、友達の借金を肩代わりしちゃったことがあるのよ」
「え、ほんとですか?」
「ほら、連帯保証人、とかってね。借りた本人が夜逃げしちゃって、借金の取立ては毎日来るし、住んでいた家は取られるし。これ以上苦労させたくないから別れてくれ、って平たくなって頭下げられて、そんな勝手な、って思ったわ」
晴代は、目じりの皴を深くした。
「でも、せっかくご縁があって一緒になったんだものね。実はね、私ら、再婚同士なの。今ふうに言えば、ば・つ・い・ち」
ふふっ、と茶目っぽく笑う。
「そういえば、あんたたち、なれそめは深大寺さんだって言ってたね。さすがに縁結びの神様だわ。結婚の時も二人で報告に言ったっていうから、若いのに偉いなぁ、って思ってた」
なれそめまで持ち出されて、ゆう子は照れくさくなった。
――境内は初詣客でごった返していた。次々に人手に渡ってしまう手水の柄杓を取りあぐねているゆうこの肘を誰かがぞんざいにつついた。振り向くと、柄杓を手にした青年が、かけてやる、という身振り。素直に従って手を出すと、凍るような湧き水の冷たさとともに、熱感のあるしびれが指先を走った。小声で礼を言い、ハンカチを差し出したが、青年はすでに、清めた手をジーンズの脇にこすり付けているところだった。ゆう子は耐え切れずにくくっとのどを鳴らし、彼はうっすらと赤くなった――。
「ねぇ、ゆうちゃん。私はね、『ご縁』っていうのは、空気や水みたいなものだと思うんだよ。そういう自然で素直なものほど、大事なのと違う?」
それから、晴代は明るい目で付け加えた。
「あんたも、水が流れるみたいに自然にしてたらいい。相手を思う気持ちが本物なら、『ご縁』は、裏切らないよ」

ゆう子が風呂から上がると、秀治は隣の部屋でテレビを見ていた。アナウンサーの声が、インターチェンジの出口付近で起きた玉突き事故について伝えている。不意にテレビの音が途絶えた。
「もう寝るの?」
暗くなった部屋を覗くと、秀治は抱えた膝に顔を押し付けていた。不審に思い、ゆう子は側に行って、固く盛り上がった肩に手をかけた。
「秀ちゃん、どうかした?」
「……見舞いに行ったら、奥さんと小さい子供がふたり来てた。ベッドの方からずっと、ピッピッっていう音がしててさ。よくわかんねえけど、ほら、血圧とか呼吸とか、そんなの測る機械があるだろ? あの音がずっと耳から離れない。あれがいつか止まっちゃったらって思うと、いてもたってもいられないんだ」
「もしかして、この間の事故のこと? 相手の人、そんなにひどい怪我だったの?」
秀治は深いため息をついた。
「だって、だって、相手はスピードオーバーだったんでしょ? トンネル内でそんなにスピードを出すなんて自殺行為だよ。秀ちゃんのせいじゃないって」
「追突された時、おれ、パニックになって、とにかくトンネルの外に出なくちゃ、って思ったのを覚えてる。相手の車をひきずったまんまだぜ? 警察には、あの場合仕方なかった、むしろ的確な判断だった、って言われたけど、本当にそうだったのかな。おれがもっと冷静だったら、あのおっさんも軽い怪我ですんでたかもしれない。でも、ときどき、何でおれのトラックにぶつかってきたんだよ、って、むかつく気持ちがこみあげてきて――ひどいよな、死にかけてるっていうのに。何ひとつしてあげらんねえくせに……おれ、自分で自分がいやんなる」
ゆう子は思わず秀治の背中に抱きついていた。
「……千羽鶴、折ろうか」
その考えがどこから来たものか自分でもわからないまま、続けた。
「折り方教えてあげるから、ね?」
振り向いた秀治は、不思議なものを見るような深い目になって、頷いた。

二人で毎晩遅くまで折り続けた千羽鶴が、ようやく仕上がった。
「受け取ってくれるかな?」
完成品を前にして秀治は急に弱気になったようだったが、ゆう子は黙っていた。彼の気持ちに任せようと決めていたからだ。
秀治は半日考えた末に、短い手紙を書いた。
――渡すこと、悩んでいました。自分と自分の奥さんとで一緒に折りました。元気になってもらいたいと祈っています。今はその気持ちでいっぱいです――
千羽鶴をダンボールに入れて水色の封筒をのせた。配達伝票には、G県から始まる相手方の住所を書いた。

秀治が黙って見せた手紙の表には、秀治とゆう子の名が並んでいた。差出人は、田代真理とある。目で問いかけるゆう子に秀治は小さく頷いてみせ、緊張した面持ちで封を破った。
――主人の意識がもどりました。一昨日からは人工呼吸器もはずれて、来週には食事ができるようになるそうです。先生も、順調に回復している、とおっしゃってくださいました。お二人に送っていただいた千羽鶴のおかげです――
ゆう子の目に涙が盛り上がり、零れ落ちた。じっと手紙に見入るゆう子を、秀治は無言で抱きしめた。

晴代は深大寺の参道にいた。ゆるい坂だったが、夫を乗せた車椅子を押し上げていくのは、さすがにこたえた。すっかり息が上がってしまい、口の中で、よいしょ、よいしょ、と呟く。
それを背中に聞いた敏夫は、難儀している妻が気の毒になったらしい。健康だった頃と同じ口調で、
「大丈夫か? 無理するな、おれが代わってやるから」
幾重にも皴の寄った、色白の晴代の顔に微笑が広がった。思えば、『おれが代わってやる』は、昔から敏夫の口癖のようなものだった。
『ほら、こっちによこせ』そう言って、いつも重荷を引き受けてくれた。
つくづくやさしい男だと思う。そのやさしさを歯がゆく思った時もあるけれど、振り返ってみれば決して楽な人生ではなかったけれど。今はただ、一日でも長く一緒にいたいという思いだけがある。
「さて、私らも縁結びの神様にご挨拶」
晴代は車椅子の車輪をめぐらした。そろそろ梅雨明けだろうか。雲が切れて光がさしている。その淡い輝きをいとおしむように、深い木立の向こうでヒグラシが鳴き始めた。

鶴田 まり子(東京都多摩市/女性/主婦)

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