<第3回応募作品>「ホタルのめぐりあい」 著者:大谷 重司
携帯電話に、高子からのメールが入った。「仕事のトラブルで約束の時間には行けそうもない」と。和也は割烹料理店の竹で編んだ長椅子から腰を上げた。店の大きな幅広の窓ガラスに小雨の滴がわずかについていた。霧雨に時おり雨が降っている。窓ガラスには、にぎわう白髪頭の背中を丸めた姿や、整然と並んだ料理を映していた。にぎやかに談笑する中年女性グループの背後から化粧の匂いが鼻をつく。
初老の落ち着いた女性の店員さんに挨拶して、連れの者が来られなくなった事を告げて外へ出た。夜の七時を過ぎていて、夜風はどんよりしていた。
和也は恋人の高子の誕生日祝いのために割烹料理をご馳走しようと待ち合わせていた。看護士の高子は勤務時間外にアクシデントがあったらしい。よりによって日勤の日を選んだのに、病因で何があったというのだろう。当てもなく和也は傘を広げて足を進めた。歩道には街路樹の枝がはみ出し、大きな葉っぱから深緑の匂いを漂わせている。空腹だ。いきつけの布田駅の居酒屋にでも行くか。
突然何かが和也にぶつかってきた。それは若い女だった。足を滑らせ歩道で横倒しになった。和也はあわてて肩を抱えて起こした。スパッツをはいたお尻から太ももまで濡れ、ノースリーブの腕は冷たい。その手に白い杖が握られていた。
「もしかして、目が……」
彼女は目を開けてはいるが視線が定まっていない。
「アッ、ごめんなさいあわててたもんだから」
高校生ぐらいに見えるが、手足が長く年齢がわからない。
「よかったら、傘に入れてあげようか。どこまでいくの?」
「野草園に行こうと思っていたんです」
「野草園? ここは深大寺三丁目だよ」
よく見ると彼女の目のあたりに何だの跡がある。さっきまで泣いていたようだ。
「調布駅から歩いてきたんですけど、道がわからなくなっちゃって。本とはいっしょに行く人がいたんですけど、電話にも出てくれなくて」
「野草園は三鷹通りから入るんだ。連れていってあげるよ」
和也と盲目の娘は霧に包まれた道を歩いた。一つの傘に腕と肩が触れ合いながら足元を気にして妙な緊張感で歩いた。彼女の名前は鈴木沙耶といい、大学3年だという。
「ホタルを見にきたんです。でも彼が反対してめちゃめちゃになっちゃったんです」
「ホタル? そうか、今夜はホタルの見学会だったのか。昔、行ったことあるよ。でも、目が見えなくてホタルの見学会はどうかな」
「そう、みんなそんなこと言う。でも、行ってみないとわからない。ホタルの光が見えなくても何かを感じられたらって思って一人できちゃったんです。わがままだって言われるかもしれないけど、このチャンスは年に一度しかないし……」
車の行き交う道から住宅地の道に入り、辺りは暗くなり静かになった。どんよりした暑さがある。街灯が遠くで光っているが、雨で辺りがほとんど見えない。
「ほら、そこのホタル荘を左に曲がって坂道を登る「
そう言って彼女の横顔を見た。丸井額に柔らかい髪が乱れている様子は幼い子どものようにも見えた。どんな生活をしているのか、尋ねてみたくなった。初めて盲目の少女に会って好奇心がどうしても先にたつ。
住宅地がなくなり畑と水田が広がってきた。ひんやりと涼しくなり、水田のカエルが盛んに泣いている。その泣き声は周囲を埋め尽くしてうるさいほどだ。
「すごい! どこか遠い地方にでも来たみたい。こんなにたくさんのカエルの合唱を聞いたのはじめて」
沙耶ちゃんは感激して周りをキョロキョロしている。調布駅から歩いて二十分の所にこんなのどかな場所があるとは誰も信じないだろう。それにしても子どもみたいなしぐさで足をバタバタさせて感激している様子を見ていると和也はふきだしそうになった。
「トノサマガエルにツチガエルにアマガエルが喉を膨らませて鳴いてるよ」
「深大寺広場野草園」と看板が門にあった。なだらかな坂道を小川に向かって歩くと、家族連れの人達が何人も集まっていた。ここまで来れば団体に混じって歩いていけばいいだけだ。小学生と母親の組み合わせが何組もあった。大きな石の上を歩いて行くと辺りはいっそう冷気が増してきた。草や樹木が密生している。沙耶ちゃんは傘を持つ右手にすがるようにしっかりつかまっている。石に足を載せるとよろめいていた。
「ほら、ゲンジボタルが光ってるよ」
「どんな風に?」
「木の枝に止まって光っているのとか、飛びながら蛇行して光っているのとか、草むらで光っているのとか」
「そんなにいっぱいいるんだね」
彼女の左手をとって指差した。その手をホタルの飛び回る動きに合わせて動かした。
「鬼火みたいに青い光で点滅してるよ。小指の爪ほどの小さな昆虫だけど何も食べずに五日間光って飛び回るんだ。オスだけがお尻を光らせる」
「ふうん、そんなに短い寿命なんだ……もっと長く生きていたいだろうね」
沙耶ちゃんは真剣な表情になって言った。
「ホタルだけじゃなくて、カゲロウもセミも大人になってからよりも幼虫の期間がとても長いからね。パートナーを探すためのパフォーマンスの意味だよね。だから短い期間とも言えないかも知れない」
青白い光の残像が暗い夜空に怪しい線を描いた。それは幻想的で夢の中の幻覚を見ているような不思議な気分になってきた。旋回し螺旋状に青白い光が飛ぶ。音が消え、闇と点滅だけが周りを覆っている。小川の水面に落ちながら淡い光が水に漂っている。
後ろから子供に押されて歩いた。沙耶ちゃんの手を引いてから尋ねた。
「どう? ホタルって何か感じられた?」
沙耶ちゃんの表情は生き生きとして目に力がこもっていた。
「やっぱり来てよかったよ。同じ空気の中でホタルといられたんだもん。空中を飛ぶ様子が見えたような気がした」
小雨が肩を濡らすのも気にせず、二人で砂利の坂道を歩いた。何か話したいと思っていたが、気持ちのいい脱力感で話が途切れた。見えている事をなんとかして伝えようとしていたが、それでよかったのだろうか。確かな感激が伝わってきたが、これが伝えた手ごたえだったのだろう。
三鷹通りまで来てタクシーを拾って沙耶ちゃんを乗せた。
「慈恵までお願いします」
和也は「慈恵」と聞こえたように思えたが聞き間違いだろうとしか思っていなかった。タクシーが甲州街道の信号を超えるまで見送った。
ウシガエルのうめき声と京王線の鉄橋の音を聞きながら、和也は野川沿いのアパートに帰った。木造のアパートの階段を踏むと粘りつくような感触が足の裏に伝わりメリメリ音がした。
京王線の職員をしている和也はこの古めかしいアパートが好きだった。昭和の風情が残っているし、野川のカルガモやウシガエルの声を聞けるのも好きだった。
鞄の中からリボンの結わえてある包装紙の箱を出してちゃぶ台に置いた。高子の誕生日プレゼントに渡すはずだったすずらん模様のエナメルの靴だ。今度はいつ会えるだろう。お互いの仕事の時間帯がなかなかうまく合わないのだ。
冷蔵庫を反射的に開けた。納豆のパックがあるだけだ。冷蔵庫の上に重なっているカップヌードルを食べる事にした。カップヌードルにお湯を注いでいると携帯電話がけたたましく鳴った。
「やっと仕事終わったよ。ねえ、聞いてくれる?」
看護士の高子からの電話だった。
「それがさ、ひどいんだよ。うちの内果病棟の患者がさ、抜け出したのよ。ねえ、ひどいでしょ。私が帰ろうとした直後だよ。みんなして捜索したんだよ。この雨の中をさ、どこ探していいかわかんないよ。パルコにも東急にも行ったよ。ゲーセンとか探したんだよ。それがさ、なんでもなかったみたいにさ帰ってるのよ。全く頭にくるじゃないのさ」
和也は台所で顔をほころばせてカップヌードルをかき混ぜた。
「それで、その人は認知症か何かの年寄だったの?」
「それがね、違うんだ。年寄なら許されるよ、女子大生なんだよ。全然目が見えない子だよ。しかたないかもしれないけどさ、過保護なんだね」
和也の割り箸を持つ手が止まった。
「ネコの子みたいに丸くなって寝てるの。頭きたけどさ、強くも言えなくてさ、なにしろ癌の末期だからさ。ねえ、和也、聞いてるの、ねえ、聞いてるの」
大谷 重司(東京都調布市/49歳/男性/鍼灸師)