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<第3回応募作品>「雨宿りラプソディー」 著者:四季

 少女は、その細い指先で傘を咲かせた。

 ああ、降るなと思ったら、期待を裏切らず降ってきてくれた雨。まどかは気に入りの水玉の折り畳み傘を広げることで、この難を逃れた。
「入れてあげないこともないけど?」
得意げに言うと、目の前の大人は笑った。
「お願いします。入れてください。」
大人は、まどかに手を合わせた。
まどかはニッと笑った。
 大人のその仕草が、とてもかわいかったので。
「特別だからね。」
入れてあげるわと、まどかは傘を差し出した。相合傘。
(これも深大寺の神様の魔法かしら。)
そう思って、まどかは降りしきる雨空を見上げた。
そして愛しい大人の掌をきゅっと握った。

 季節は、梅雨に入ろうとしていた。
 草木の精気が最も強い季節。
 さつきの花々が咲き乱れ、気の早い紫陽花も顔を出してくる。
 カタツムリも、まもなく姿を見せるだろう。
 まどかは今、彼女がこの世で最も好きな男と、縁結びの神様がおわす深大寺に来ていた。
 理由は簡単で、まどかは外へ出かけたい、男は蕎麦を食べたい、と主張し、利害が合致したのが深大寺だった。
(そして、縁結び。)
 まどかは、この大人に恋をしていた。
14歳のまどかと、それより8歳年上の彼。
 年の離れた幼馴染の関係では、もう満たされない。それが分かってしまった。
(この人に、恋人ができて、結婚して、子供ができるのを、妹のような幼馴染として見守っているだけなんて、拷問だわ。)
神様、縁結びの神様、どうかお願い、と、まどかは思って、男を見上げた。
「冷えてきたね。
 お蕎麦でも食べようか。」
まどかのぐるぐるした気持ちなんて知らず、目の前の大人は優しかった。
そして不思議なことに、さっきまでお腹の中で暴れていたぐるぐるした気持ちは、大人がまどかに優しくしてくれると、とたんに大人しくなる。
これを恋というのだと、少女は知った。
「うんとあったかいのがいいわ。」
そう言って、まどかは口角を上げて花のように微笑む。少しでも、大人っぽく見えるようにと。

兄妹のように育ってきたふたりだった。当然のように、一緒に食事もしてきた。
それでも、こうやってふたりで蕎麦を食べる時間は、まどかには、幸せの象徴のように思えるのだ。
あったかくて優しい。
ほっとして、おいしい。
「やっぱり名物なだけあるよね」
いつ食べてもうまいんだもんなあ、と蕎麦をすすりながらもらす目の前の大人の男が、とっても愛おしいと思う。
(まるで、子どもみたいなのね。)
 雨はざあざあ降っていて、深大寺の緑はむせかえるように青かった。
 世界には、まどかと大人しかいなくなってしまったようで。
 それは幸せな想像だった。
 蕎麦屋の雨どいを水が伝う音が、きゃらきゃらと笑った。
 「今、この時間がずっと続けばいいのに。」
少女が、いつか観た映画の中のセリフだった。映画のヒロイン―現実の大女優のように。少女は、早く大人の女になりたかった。
「幸せなの、今。」
すると彼も、僕もだよ、と言ってうなずいてくれた。
 その言葉が、恋愛とは離れた意味と知ってはいたけれど。
 まどかはすっかり嬉しくなって。
次は土産物屋に行きたいわと青年の手を取った。

 「雨の深大寺もいいね。」
 相合傘で、ふたり石畳の道を歩く。
 身長の高い大人が傘の柄を持って。まどかは、大人の傘を支える腕にしがみついて。
「出店街のね、蕎麦パンがかなりおいしいんだよ。本当に、何個でもいける。」
 彼は、深大寺がとても好きなのだと言った。気が向けば、バスに乗り継いでやってくるのだと。
(でも、確かにこの人にはこの場所が似合う。)
深い緑に、彼の黒い髪はよく映えた。
蕎麦の懐かしくて優しい香りは、彼の存在とひどく似ていた。
まどかが幼稚園から、兄妹のように育ってきた。
けれども、彼が深大寺を好むことを知ったのは、つい最近だ。
(だから、一緒に連れて行ってとだだをこねた…。)
想いは募る一方だった。
 (私はこの人に恋をしている。)
年の差なんて関係ないと思いたい。
 それは、とても難しいことかもしれないのだけれど。
 とくに、兄妹のように育ったふたりにとっては。

 そうしているうちに、土産物屋の並ぶ道へと入っていった。
 雨が降ってきた為か、参拝客もまばらだった。
 雨の日に来てくれたからね、特別にサービスよと言って、出店のおばさんが蕎麦パンを50円おまけしてくれて。目の前の大人は、年甲斐もなく子どもみたいに喜んだ。
 蕎麦パンは懐かしくて甘い味がした。ふたりで傘の中で食べた。
 (今でなくとも。いつか、この想いを伝えることができるだろうか。)

 「本堂にお参りしたら、僕らも帰ろうか。」
 ああ、もうこの人との時間が終わっちゃうのか、もったいない。
なんて、名残惜しいんだろう。
 そう、思ってしまって。

 だからつい、口を滑らせてしまった。
「私は、帰らなくてもいいよ。」
 と。
「ずっとこのままでもいいの。」
ひとつ口をついて出た言葉は、せきをきったようにあふれ出した。
「私たち、一緒なら。」
「大好きなこの地で、一生だって暮らしたっていいわ。」
「緑に囲まれて暮らすの。私たち、時々は植物公園まで散歩に行って、手を繋いで花々をめぐるの。」
「雨が降ったら、音楽を止めて水音を聴くの。夜になったら虫の声を。風が通れば、鈴音を。ふたりでお茶を飲みながら、そういうことをいっぱい話すの。」

(お願い、あなたの隣にいたいの。)

『あなたが好きなの。』と。
その一言はどうしても言えなかった。
 だから、一気に口をついて出た言葉たちは雨音に溶けていく。
 横たわるのは沈黙で、降り注ぐのは雨音だった。
ふたりはずっと見つめ合っていた。
少女と、男。
子どもと、大人。
 どこまでも対極な二人だった。
 けれどもふたりはひとつの傘の中にいて、それだけが少女の救いだった。
 伝わればいい。
 そう思った。
 まどかは願った。この雨と、神様に。
 だから、そっと―
 少女が今まで、身のうちに募らせた、思いの丈の深さを思えば、あまりにも些細すぎる所作で。
 大人の傘を支える手に、自分の白い手を重ねた。

 「まどか。…僕は、どうしたらいい?」
 その、困ったように笑う顔が、一番好きかな、と思った。

 

ピンクパールのマニキュアの指先で、傘の花を閉じた。
 涼やかなドアベルが、雨音に混じってその音色を奏でた。
 「ただいま。」
 そう言って帰ってきたのは、僕の奥方だった。
 「おかえり。雨に当たらなかった?」
そう聞くと、彼女は得意げな笑みで、お気に入りの水玉の傘を掲げてみせた。
 どうやら風邪をひく心配はなさそうだ。
 「よかった。」
 僕は安心する。
 この雨に打たれてはと、心配していたところだ。
 「コーヒー豆、頼まれていたのを買ってきたわ。あと、小麦粉とハーブソルト。」
 手際よく、店のカウンターにそれらを並べる。いつ見ても出来た奥方だと、僕は感心してしまう。
「今日は、お客さん来ないわね。」
空っぽの店内を見て、彼女はぽつりとつぶやいた。
 僕らは、夫婦で喫茶店を営んでいる。
 小さな店だが、僕らの誇りだ。
 常連さんも出来たし、味にも定評がある。
 しかし、この天気。
 ―今日は、雨だ―
 集客は見込めないだろう。
「ねえ。」
カウンターに背をあずけ、彼女は僕に語りかける。
「わたしの一世一代の告白を覚えてる?」
僕は、笑ってうなずいた。
「覚えてるよ。僕も、さっき思い出していたんだ。」
「雨が降ってた。」
「8年前も、君の水玉の傘に助けられたね。」
「貴方ってば、食べることばっかりで。」
「君といると、何でもおいしくなるんだよ。」

「私は子どもで、子どもであるということがとても悔しかったの。」
 けれども、その横顔は、14歳のあの日、あの時間のまま。
 きっと何も変わっていない。
 妻は笑って、僕の腕にその細い手を絡めた。
「ねえ、今からお蕎麦食べに行かない?」
今から?と聞くと、そう今からよ、と奥方は言う。
「出掛けるの。水玉の傘で。」
「相合傘で?」
「蕎麦の後は蕎麦パンで。」
「その後はお参りで?」
「いいじゃない、神様にお願いすることも、お礼を言うこともたくさんあるわ。」
 あの頃とちっとも変わらない晴れやかな笑顔に、やっぱり僕は負けてしまう。
「きっとお参りが終わる頃には、雨も上がるわ。
 そしたら、植物公園に行きましょう。
 濡れたってかまわないわ。
 きっと楽しい。」
僕はうなずく。
入り口の、『OPEN』の掛け看板を『CLOUSE』に裏返して。

僕たちは手を取った。
そしてひとつの傘で、深大寺の道を一緒に歩みだした。

草木の精気が最も強い季節。
 さつきの花々が咲き乱れ、気の早い紫陽花も顔を出してくる。
カタツムリも、まもなく姿を見せるだろう。

季節は、梅雨に入ろうとしていて。

緑は深く、雨音はどこまでも優しかった。

四季(東京都調布市/22歳/女性/会社員)

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