<第3回応募作品>「明日のエピソード」 著者:ただの ひろこ
見上げると、淡い水色の空を背景に、生まれたばかりのやわらかな木の葉がざわざわと音をたてて風に揺れていた。優理子は立ち止まって耳を澄ませる。ざわざわと揺れているのは風が森に残していったささやきではなく、もしかしたら自分の胸の奥に吹いていく風のせいではないかしらと優理子は思った。だから昨日、夫の秀幸が、
「ひさしぶりにデートしようよ。」
と言ったとき、迷わず、
「深大寺に行きたいわ。」
と言ったのかも知れなかった。
日曜日だというのに朝から会社に出かけた秀幸の仕事が終わるのを待って、優理子は深大寺の森で秀幸と待ち合わせていた。昼下がりの穏やかな時間を楽しむ人の中で、優理子が見慣れたストライプのシャツを見つけると、秀幸もすぐに優理子に気がついて右手を上げて合図した。ひさしぶりに二人きりのデートだというのに、秀幸は庭で車にワックスをかける時と同じ顔で少し笑った。そして、いつもと同じ質問をするのだった。
「子供達はどうした?」
だから優理子もいつもとかわらぬ顔で、まるで「洗濯物を出してちょうだい」と言う時と同じ声で答えたのだ。
「美悠はバトミントンの練習試合ですって。陽菜は吹奏楽部の自主練習。トランペット持って出かけたわ。」
「そうか。じゃあ、団子でも食うか。」
「うん。でも、その前にお参りよね。」
深大寺の動物霊園には昔一緒に暮らしていた犬のタロウが眠っている。もう十年も前に空の向こうに逝ってしまった。慰霊塔の前で手を合わせると、線香の香りが思い出をつれてやってくるのだった。
それは二十年前の冬の朝、二人で婚姻届を出しに行った時のことだった。先に来た優理子が市役所の広場で待っていると、秀幸は白い息を吐きながらタロウを連れてやって来た。タロウはワンワンと二回ないて秀幸が持つ綱を力いっぱい引っ張って駆けて来ると、優理子に飛びついてペロペロと顔を舐めた。優理子はタロウを抱き寄せて背中や首を撫でながら顔を上げると、タロウの耳の向こうで「おはよう」と笑う秀幸と目が会った。いつになく強くて優しい色を湛えた瞳に出会って、優理子はなぜだか胸がキュッとして、思わずタロウの耳を撫でだ。優理子はタロウの耳のやわらかな感触を指先に感じながら、ああ今日からこの人とずっと一緒に暮らしていくのだな、と思ったのだった。
優理子はその日からつづいていく暮らしの中で幾度となくこの朝のことを思い出すことになる。結婚が人を変えていくのか。それとも恋という病が甘い夢を見せて、結婚という妙薬を得て完治して、そこから積み重ねていく日々が日常という生活だったのか。優理子は最近ため息ばかりついていた。
深大寺の山門につづく石畳の道を下って参道に出ると、道の両側には団子や煎餅や土産の小物を売る店が並んでおり、たくさんの人で賑わっていた。秀幸は草団子を二つ買って店先の椅子に腰掛けた。優理子はセルフサービスのお茶を茶碗に注ぎ、二人並んで団子を食べた。気持ちのいい陽射しにふと顔を上げると、優理子の頭の上で新緑の紅葉がキラキラと光を零して揺れていた。
「紅葉、きれいねえ。」
思わず呟いた優理子の声に、秀幸は、
「ああ。」
と答えたきり、売り子の娘が鉄板で団子を焼く仕草を見ている。芽吹いたばかりの紅葉の葉はつややかな黄緑色をしていて、風に揺れると、まるで赤ちゃんが小さな手を振っているかのように見えた。優理子はまだ小さかった美悠と陽菜を思い出していた。小さな手で母に抱きついて放れなかった二人も、すでに高校生である。子どもを中心に暮らしてきた優理子の生活も、今となっては優理子の手を必要とすることが少なくなってきていた。自分の生活にぽっかりと穴があいたみたいで、なんとなくおちつかない感じがしていた。
「そう言えばあの茶碗、まだあるのか?」
蕎麦屋の隣の焼き物屋に気づいて、秀幸が思い出したように言った。子供達がまだ小学生だった頃、夏休みの宿題の自由製作で茶碗を作りに来たことがあった。美悠は湯飲み茶碗に向日葵の絵を描き、陽菜はご飯茶碗にピンクのウサギを描いた。どちらも上手とは言いづらい絵ではあったけれど、焼き上がった茶碗は味わいのある作品に仕上がっていた。大切に抱えて帰った二人の笑顔を、優理子は今もはっきりと思い出すことができる。
「あの茶碗、しばらく使ってから割れちゃったのよ。でも捨てられなくて接着剤でくっ付けて、食器棚の奥にずっとしまってあったのよ。多分、まだあると思うわ。あっ、これ、二人には内緒ね。割ったの私だから。」
「心配ない。もうすっかり忘れているよ。」
幸せな場面は優理子の記憶に鮮明に残っているというのに、夫や子供達の記憶の中では、いつの間にか色褪せてしまっているのだろうか。美悠と陽菜が今を生きるのに精一杯で昔作った茶碗のことなど忘れているように、秀幸もあの冬の朝のことなど覚えてはいないのかも知れないと思うと、優理子は少し悲しい気持ちになった。タロウの耳の向こうで目が合った、あの秀幸の瞳の奥にあった確かな感情を、優理子はもう一度確かめたくて秀幸の顔を覗き込んだ。秀幸は唇の端についた餡子を舌で器用に掬い取るように舐めていた。
参拝は最後にとっておいて、二人で散歩してみることにした。参道を突き当たった所に水生植物園があり、紅葉のトンネルをくぐって順路を行くと沼地がある。いくつもの植物が芽を出していたが、名前が言えるものはほとんどなく、道端に咲いているタンポポやハコベの白い花ばかりが目に入った。沼地をひとまわりしてから坂を登って行くと、木造りの看板に城址跡を示す矢印があった。
「お城があったなんて知らなかったわね。」
深い森の中を歩いているような錯覚をおこしてしまいそうなほど、そこはとても静かだった。少し湿った空気が肌によく馴染んで、深く息を吸い込むと土や草の匂いがした。坂の上から若い男女が手をつないで下りて来るのが見えた。二人は互いの指を絡めるように手を握っており、時おり耳元でささやき合っては笑う後ろ姿を見送ると、優理子は胸の奥で何が疼くのを感じた。道の端にはシャガの花が咲いていて、その花びらを彩っている美しい色や形に気を取られて、優理子はついうっかり足を滑らせてしまった。
「あっ、あーっ!」
優理子がバランスを崩して転びそうになったとき、秀幸の手が腕を掴んで引き戻した。
「危ないなあ。」
「助かったあ。」
優理子はこのままどさくさに紛れて秀幸の手をとって歩きたいような気持ちになったが、今さら照れくさくてわざと両手をポケットに突っ込んだ。
坂を登りきると鮮やかな黄色が視界いっぱいに飛び込んできた。菜の花だ。まるで絵本のページをめくったら意外な展開が待っていたかのような景色に、優理子は声を上げた。
「きれいねえ。」
白い蝶がひらひらと舞っていた。
坂を登って来て少し汗ばんだ秀幸が、上着のシャツを脱いで腰に巻きつけた。
「わっ、そのTシャツ着て行ったの!まさか会社で上着脱がなかったでしょうね?」
秀幸が着ていたTシャツは古びて色が褪せ、首の周りが少しほつれていた。
「いや、脱がなかったよ。何で?」
「それ、よれよれだからパジャマのかわりに着てたのに、外で着たらダメでしょう。」
「まあな。だけどお前だってあちこち擦り切れたTシャツ何枚も持っているじゃないか。しかもエプロンの下によく着てるし。」
「だって着ていて気持ちがいいんだもの。」
新しいTシャツは着ていて気分がいいけれど、長い間着込んだものは、色が褪せて形が崩れて首周りもほつれていたりするのだけれど、肌に馴染んでとても気持ちがいいのだ。普段着の下に見えないように着ることもあるが、パジャマのかわりに着ると、なぜだか心地良い眠りに誘ってくれる。だからなかなか捨てられないのだ。
「古いものは馴染みがいいからな。まあ、古女房と同じってもんだな。」
秀幸の背中には、若き日の面影を残して古びた味わいが滲んでおり、二人で過ごす時間にとてもよく馴染んでいた。
深大寺の山門をくぐり、白い花が咲くナンジャモンジャの木の下に来ると、ひと組の老夫婦が手をつないで歩いて来た。背の曲がったおばあさんの足取りを気にしながら歩くおじいさんの仕草は紳士的で、つないだ手と手で互いの体を支え合っているかのように見えた。二人は仏前で両手を合わせ、おばあさんの方が少し長く祈っていた。これから何十年か先に、夫婦という形はどんなふうに変わっていくものだろう。優理子は手を合わせ、穏やかな日常に感謝を込めて、まだ見ぬ明日の日々を祈った。
「植物公園の中を抜けて帰ろうか。」
という秀幸の誘いに二人は神代寺門から植物公園に入った。花がまだひとつも咲いていない薔薇園を優理子は秀幸と並んで歩きながら、これから咲く花のことを考えていた。緑の葉が生き生きと茂る広場にやがて色とりどりの薔薇の花が咲き、甘い香りで満たされていく様を思い浮かべてみるのはとても楽しかった。それは、まだ見ぬ明日にどんなエピソードが生まれるのか、楽しみに思う気持ちに似ていたからだ。優理子は秀幸の腕に自分の腕をそっと絡めてみた。眩しいほどに光降る午後、やわらかな水色の空に鶯の鳴く声がした。
ただの ひろこ(東京都西東京市/43歳/女性/主婦)