<第3回応募作品>「笹の葉、ささら」 著者:関 佳子
駅ビルのシャッターが開く直前、先輩の今日子が香織にささやいた。
「二人とも早番だから、仕事が上がったら夕飯にお蕎麦でも食べない。おごるわよ。深大寺に親戚がやっている店があるの」
シャッターが大きな音をたてて開き、ランチまでの時間を潰そうとしている買い物客が足早に店の前を通り過ぎて行く。眼鏡などまだまだ必要なさそうな主婦が多い。香織が頭を下げながら横を向くと、今日子はベストからブラウスをはみ出させたまま、通路を入って通り過ぎるだけの客におざなりのお辞儀をしている。
「ブラウスがはみ出ていますよ」
今日子は頭を下げたまま、左手を後ろに回してブラウスをスカートに押し込み、香織に向かって、おでこに指をあてた。お礼のつもりらしい。
眼鏡のショーケースが少しでも曇ったりしていると、店長に嫌味を言われる。新入社員の香織にはガラスとにらめっこするのが目下の重要な仕事だ。これでお給料を戴けるのだ。ひとり、暮らし始めた部屋に、早くベッドや本棚、ボーナスが入ったら、テレビ、電子レンジ。いや、貯金も少しはしないと病気になったら困る。
窓の無い職場からようやく出ると、まだビルの隙間に陽が差していた。仕事で扱っていると、眼鏡をかけた通行人に自然目が行くようになる。今日子も同じらしく、二人で同じ青年を目で追ってから顔を見合わせて笑った。青年は若いのに地味な灰色のスーツを着こなして、フレームの太い赤茶の、見方によっては派手な眼鏡をぴったり合わせている。
「職業病よね」と、今日子が笑いながら言った。
肩を並べて話しながらバスを待つのは、新鮮で楽しかった。この町に就職が決まってからアパートを借り、人の流れに紛れて、毎日馴れない職場に行き、又一人帰る毎日が寂しかったことに、香織は今気づいた。
「深大寺は天台宗、そこに店を出す蕎麦屋の女房は女学生からのクリスチャン。その息子で従兄は無宗教、ときたものよ」
どうでもいいんだけどさ、と、買ったばかりらしい薄い春のジャケットを身体に合わせるように揺すって、今日子が話すうちにバスが来た。のろのろと繁華街を過ぎ、住宅街を右折左折と繰り返していくうちに辺りの風景が沈み出し、乗客もあらかた降りてしまった。山道と錯覚するような景色が現れた。バスの中に暖房が入ったらしく、足元から暖かい空気が立ち上ってくる。ひっぱってもひっぱっても膝上まであがってくるスカートをまたひっぱりながら、香織は顔をしかめた。里親の実子は小柄で、香織より十歳も年上だった。駅ビルの中には若い子向けの安いスーツも売っている。あと少しで最初の給料も出るし、欲しい物はたくさんあるが、このスカートを早く捨ててしまいたかった。
ようやくバスを降りた。ほかには誰も降りない。ここからは乗車する客の方が多く、なかなかバスは発車しなかった。道路を冷たくなった風が吹き始めて、さらら、さららと近くから音がする。
(園の裏山の竹林の音・・・)
想い出に立ち止まる間もなく、動き出したバスの後ろを渡って今日子が歩き出した。暗闇に浮かぶ店はそれほど大きくもなく、こざっぱりしている。やたらに木の彫刻や置物があるような店を想像していた香織には予想外だった。さっきの葉音がまだ耳に残っている。畳の席に座った今日子が障子を少し開けたので、白い灯に被さるようにしなう竹が目に入った。さっきの音はやはり竹の葉音だったのだ。久しぶりに聞くのはやっぱり懐かしい。でも、園を懐かしいとは思いたくない気持ちがそれを邪魔した。
ガラスで隔てた西側で、蕎麦を打っているのが今日子の従兄のようだ。麺棒を握る拳に力が入っているのが遠くからでもわかった。もうそろそろ店じまいらしく、最後の二人連れの客が会計を終えた。
「今月もやっとここに来られたよ。定年になって暇になったのはわしだけで、婆さんは出歩いていてね。毎日留守番だよ」
レジの女性が笑っている。
「あんなこと言って・・・。この人、図書館で時代小説を借りてきてね。読書三昧なんですよ。日が暮れたら洗濯ぐらい取り込んで欲しいのに、全く気がつかないで読みふけっていてね」
仕事の手を休めて、従兄が今日子の隣に座ったのも気づかないほど、香織は初老の夫婦
に気を取られていた。
「毎月来てくれるんだ。感じのいいご夫婦だよね。子供さんは独立して二人で暮らすのには、家が広すぎる。って、先月は話していたっけ」従兄が今日子と香織のどちらともなく話しかけた。
「アタシは、年取ったら孫とかに囲まれて、いい婆ちゃんをしたいな」
「今日子がいい婆さんになるかなあ。意地悪婆さんなら向いてると思うけど、ねえ、そう思わないかい」従兄は、今度ははっきり香織に目を合わせている。返事に困るけど、香織もそんな気がして笑顔が出た。
職人という誇りや奢りがあったり、この従兄のようなちょっと年上の世代は、難しい人が多いと感じていたが、そうは見えない。香織が育った環境にはこういう青年は見当たらなかった。一見さばさばしているようで気配りのききそうなところは今日子と似ているようだ。穏やかな青年の印象がこの深大寺という土地としっくり合うように思った。
五月連休が過ぎ、梅雨が明ける頃には、今日子の都合がつかない時でも、香織は深大寺の店に足を運ぶようになっていた。泰斗の仕事が一段落するのを待ちながら、無意識に座敷の円卓を台拭きで拭いていく。
もっと年が近くて、同じようにぎりぎりの生活をしている男の子のほうが自分にふさわしい。食事も映画も割り勘で、お互いのアパートを見せ合っても引け目を感じないで済むような・・・。頭ではわかっていた。心の中でさららさららと竹がざわめく。いつか終わりが来るような不安がある。
暖簾を引込めて、香織の前にようやく座ると、泰斗はさっきからの昔行った家族旅行の話を続けた。
「で、蕎麦の花だよってじいちゃんが電車の窓から指差す、その先にはさ・・・」
言いかけると、最初にこの店に今日子と来た時、会計をしていた女性が湯のみを手にして、香織の横に腰をおろしながら話を取ってしまった。
「蕎麦の花じゃなく、ヒメジョオンの雑草が辺り一面生えてたのよ」
「母さん、話を取るなよ」
「ようするにじいちゃんがボケて大変だったって話でしょ。だから父さんは早くあんたに跡をつがせたがったのよ。おれもボケたら誰がこの蕎麦の味を継ぐんだって言ってね」
さりげなく香織は泰斗の母に観察されているのを知っていた。学校で友達ができて遊びに行くとたいていは、おやつを出しながら母親がそばに来る。きちんと挨拶をして相手の話をよく聞くこと、香織は今、育った背景にとらわれずに評価されようとしている。
また、風に竹が葉をならしている。どうしても過去という背景が香織を押さえつける。
聞いているうちに音がどんどん大きくこだまして胸が苦しくなる。
香織を送るために、泰斗はワゴン車を出しに出て行ってしまった。どうしようもなくうつむいて、香織は台拭きを何度も折りたたんだ。
「今晩も風が強くなってきたわね。あなたには、竹の葉はどんな音をたてているのかしら」
泰斗の母はそう聞きながら返事を待たなかった。
「変なこと聞いちゃったかしら。実はね、泰斗には笑われそうで言ったことなかったけど、ここに嫁いでからそりゃあいろいろあったけど、泰斗を生んでからは、どこか根性が据わったのかしら、何か屈託があるとき、聞こえるの。竹がささら、ささら、って言ってるように聞こえるのよ・・・。そんなのどうにでもなるさ、そんなのどうにでもなるさ、そう言ってるように」
そんなのどうにでもなるさ・・・。香織は、泰斗の母の言葉を噛み締めるように、胸でつぶやいた。ボーナスで買ったばかりの淡い緑のスーツは安物だけど、膝にたっぷりフレアーが入って、香織の若さを引き立てている。泰斗の母の視線が柔らかく香織をとらえた。
「若いときは、どんなことでもそれが自分にとっては、どうしようもないくらい、深刻に思えるの。本当はね、そんなのどうにでもなるさ、ってことでも・・・」
野川のサイクリングロードで泰斗はワゴン車を止めた。香織もこの辺りの地理に明るくなった。野川には小さな橋が幾つもかかっていて、それぞれに名前がついている。ここの橋は中耕地橋、といい、中央自動車道が近い。
泰斗が顔を寄せてくると恥ずかしさで胸が早い動悸を打っているのに、顔は自然に上を向いた。確かな気持ちがそこにあって二人を結び付けようとしている。
「男ってホント、大雑把で面倒臭がりだからね。おふくろにも今日子にも言われたよ。おまえが動け、捕まえろ、逃がすな、離すな」
100キロは出ているだろう自動車のライトが視界の先で走っている。中央高速でいつか長野へ行ってみたい。泰斗の広い背におずおずと腕を回していきながら香織はそう思った。ささら、ささら。声に出さずに何度も繰り返し、自分を励ました。
関 佳子 (東京都東村山市/45歳/女性/主婦)