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<第3回応募作品>「グリーン・グリーン・ストリート」 著者:北 由美子

「マジ?」
 昼休みの雑踏の中、僕は友達の言葉にすがりたくなった。
「知らね。でもさ、女子の間で結構流行ってるらしい」
「ここ男子校だしぃ」
 僕は、心の中の得体の知れない塊と、長めの髪で隠した左耳の辺りの腫れを悟られないように、いつもどおりの軽い受け答えをする。三階のベランダからは、校庭の片隅にあるサッカーゴールが小さく見えた。
 男子校、高校二年、サッカー部仲間。僕たちは集まると、女の子の話かエロい話しかしない。受験はまだ先。頭の中に、キルイホッフや微分積分について考える余地はない。
「マサはさ、別に、怪しい都市伝説に頼んなくてもいいじゃん。今朝も遅刻するほど彼女とラブラブなんだろ?」
「朝練ないからって、朝までコースするなって、マサ」
 周りの友達は口々にテンポとノリだけで話を進める。自分に話が振られたのを笑ってやりすごしながらも、ひりひりとした遅刻の原因の痛みを左頬に感じた。
 僕がすがりたくなった言葉は「深大寺で蕎麦を大きな音を立ててすすったカップルは一段階進む」というもの。
 つまり、深大寺で蕎麦を大きな音を立ててすすったカップルは……手をつなぐ程度の者はキスをし、キスまでの者はベロチュウをし、ベロチュウをしたことがある者は胸くらい触れるというのだ。
「いい加減、怪しい」
「つーか、バレンタインとか母の日みたいな感じの企業戦略を感じるけど」
「ばーか。そこまで行ったら王道だろ」
 あまりに陳腐な都市伝説を僕たちは鼻で笑った。校庭ではスプリンクラーが回り始めた。
「でも、ありかもな」
 突然、一番モテル奴が言った。
「例えばさ、デートってったら、渋谷とかじゃん。で、映画観るくらい?キスする脇道とか下手に入るとカツアゲされるしさ。やっぱ寺とか蕎麦とか新鮮じゃん」
 モテル奴の言葉には説得力がある。
 僕はベランダの手すりに顎を乗せ、ところどころ錆始めたサッカーゴールをぼんやりと眺めた。そして、今朝、僕に吐き捨てられた暴言を思い出した。「リナの痛みとか苦しんだこととか、こんなもんじゃないんだからね!」同時に校章入りのカバンで左の頬を殴られ、ミニスカートによるキックを腰に喰い、一瞬後に遠心力付エナメルバッグのボディブロー。一番効いたのは「最テー」という呟くように搾り出された言葉だった。リナの女友達四人は、僕から離れると、朝の駅のホームに消えていった。
 深大寺で蕎麦を大きな音を立ててすすったカップルは一段階進む、のか?
 僕は、ベランダから顎を上げて言った。 
「オレさ、今日、深大寺行く。部活パス」
「えええ?」
 サッカー部仲間が僕の言葉に驚いた。
「マサが部活サボるなんて、宗教変えた?」
「本とは、彼女とキスもまだって?」
「そりゃねぇべ。マサみたいに、足も速いけど手も早そうな奴が」
「とにかく、今日はオレ、深大寺だから」
 僕は、一人教室に戻ってメールを送信した。
 リナと深大寺へ行こう。

 バスが大きなカーブを曲がり、僕とリナを揺らした。付き合い初めの頃、リナの制服の布の端が触れただけで、心臓が壊れそうだったっけ。付き合い初めの二年前は、女の子が自分の隣にいるって大変なことだったんだ。
「部活サボるなんて。いいの?」
 リナはいつもどおり、かわいい顔で僕を覗き込む。
「今日だけ特別」
 僕は、心の中の得体の知れない塊を悟られないよう笑って答えた。
「雨が降っても、サッカーだけはサボらないじゃん。怪我してテーピングしてても」
「オレって、そんなに真面目な印象?」
「塾は平気で遅刻するけどね」
 リナはかわいい顔で、意外と手厳しい。
 緑の木立が続く中、僕はリナとバスを降りた。木々の葉を通った太陽が、柔らかにリナを包んだ。渋谷とは違う。ディズニーランドともぜんぜん違う。
「毛虫いそう」
 リナは、歩道に並ぶ樹を見上げた。
「大丈夫。オレはちゃんと逃げられるから」
いつもの軽い会話を続ける。
「マサったら、ひっどぉい」
 そうさ。僕はひどい。「最テー」の男だ。
 平日の下校時、陽の長い季節でも辺りは少しずつ暗くなっていく。木々のライトグリーンがビリジアンにゆっくりと変化していく。
 リナと指を繋いだまま、深大寺本堂にとりあえず歩を進めた。
 夏を忘れないように鳴く蝉の声が、思考を麻痺させようとする。展開すべき言葉を捜さなければいけないのに。頭に浮かぶのは、今朝、リナの友達から浴びせられた数々の罵倒の言葉ばかりだった。
 夕暮れの境内には、年老いたカップルがちらほらいた。僕達はたった二年しかつきあっていないのに、信じられないくらいリナのことを考える時間が増えた。白髪のおじいさんとおばあさんになるまで一緒にいたカップルは、気が遠くなるくらいお互いのことを思い合ったんだろう。
 ひんやりとした水で手を洗い、僕は、賽銭箱の前まで歩きながら、財布の中から十円玉を取り出した。
「ね、マサは何お願いするの?」
 リナが斜め左下から僕の顔を覗き込んだ。
「ん? 恋愛成就」
 手を合わせている間、左の頬の痛みがよみがえった。
 僕が顔を上げたとき、左では、まだリナが祈っていた。ここ一ヶ月で痩せた指が綺麗に揃えられていた。
「立ったまま寝るなって」
 僕は、リナの耳元で言い、細い指を握った。
「寝てない!」
 笑いながら応えたリナの指を握ったまま、敷き詰められた小石の上を足早に歩いた。
「蕎麦食おうぜ」
 僕が言うと、リナは「私も食べようと思ってた」と言った。
 細い小道、蝉時雨と木々の葉の音をBGMにしてリナを見た。バスから下りたときよりもグリーンと夕暮れが柔らかく溶け合った中、真剣な瞳が僕を見つめていた。
 リナも、怪しい都市伝説を知っているのかもしれない。
 クーラーの効いた蕎麦屋の店内で、一気に水を飲んだ。
「リナ、今朝、リナの友達から聞いたんだ」
 遠回りはやめてストレートに言った。
「赤ちゃんのこと、どうして言ってくれなかった? 一人で病院行ったの?」
 僕の赤ちゃんを妊娠したことでリナは悩み、今朝、友達思いの四人の女の子が、僕にそのことを教えてくれた。駅の片隅で、僕はただ事実に驚いたまま、いつもは清楚な女の子達に罵倒され、ボコられた。
「子宮外妊娠だったから。おろしたんじゃないよ。簡単な手術をしたの」
「オレって、そんな大事なこと相談できないくらい頼りない?」
「きっと困ると思って」
 淡々とした口調。僕は、背筋を伸ばして座っているリナを見た。
「ね、まず、お蕎麦を注文しよ?」
 リナは、まるでテレビ番組の話題のように話を押しやった。その潔さに、僕の喉の奥に熱いものが込み上げてきて、同時に目から涙が出てきた。
 リナは困った顔で僕を見ながら、ざる蕎麦を二つ注文した。
「ね、マサの学校でも、深大寺の話、流行ってる? だから来たんでしょ?」
 僕は二つのげんこつを目に当て、涙を止めようとしていた。リナは続けた。
「終わりにしよっか?」
 その瞬間、心の中にあった得体の知れない塊の正体に気づいた。
僕は、リナが別れの決心をしていたことを、ずっとどこかで感じていたんだ。だから、深大寺で一段階進むという言葉にすがったんだ。
「嫌だ!」
 深大寺中の蝉の鳴き声より大きな声だった。
「嫌だ、嫌だ。絶対嫌」
リナにとって一段階進むって、別れることなのか? 僕にとっては、お互いに気が遠く
なるほど思い合える存在になることなのに。
 沈黙の中、僕は、運ばれてきた蕎麦を鼻水といっしょにすすった。店内に響く下品な音は、営業妨害以外の何ものでもない。蕎麦猪口を左手に持ったまま、念じるように一心に、ずるっずびっと続けた。
 不意に、涙でぼやけた視界に、ハンカチが差し出された。
「マサ、もう少し味わって。美味しいよ」
 音に観念したのか、リナが沈黙を破った。
 目の前のリナは、美しく箸を舞わせ、形のいい唇に蕎麦を運んでいた。

 店を出ると、木の葉の間から月灯りが雫のように一歩前のリナにこぼれた。
「楽しいだけじゃなくなってもいいの?」
 深いビリジアンの木々の葉を風がさわさわと奏でる中、リナの声が心に響いた。
 僕は、差し出された細い指を握り締めた。

北 由美子 (神奈川県横浜市/41歳/女性/主婦)

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