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<第3回応募作品>「恋人の種」 著者:吉澤 慎一

       ……永く、永く、眠っていた恋人の種。
                    永い、永い、眠りから目覚めるため、花を咲かせるため、
                    愛しい人の手にふれられるのを、待っていた。

 雨の降る七夕の夜。深大寺近くのアパートに越してきたばかりの美紅(みく)は、窓を伝う雨を見つめ、ため息をついていた。美紅は二十三歳。一ヶ月前に家族から離れ、初めて一人暮らしを始めた。都内の短大を卒業し、社会人生活は二年目だった。特に美人でもなく、可愛くもなく、いたって内気でおとなしい性格で、人と話すのが苦手だ。派遣の仕事をしていて、電話でお客さんのクレームを聞いたり、注文を受けたりしていた。
 会社で電話の対応が悪いからと上司から怒鳴られ、まわりも冷ややかで助けてくれる人もなく、すっかり萎縮し、自信を失くしていた。今日も何を怒鳴られるのだろう、そう思えば思うほどミスばかりを繰り返した。人の顔色ばかりをうかがうようになり、すっかり自信を失っていた。心を開いて相談できるような友達もいなければ、やさしく慰めてくれるような恋人もいない。ふと寂しくなり、美紅はドアの鍵をおろし、傘を差して外に出た。

 午後七時を回っていた。美紅の足が深大寺に向かっていた。この前、仕事帰りに三鷹駅からバスに乗っていた時、小さな子どもが深大寺の七夕が綺麗だと言っていたのを思い出したからだ。この街に越してきてから、美紅は深大寺を一度も訪ねたことがなかった。信心深い方ではないし、神社や寺にはあまり興味がなかった。ただ、寂しい気持ちを救って欲しかった。落ち込んだり、人を憎んだりする、いやな気持ちを清らかに洗い流して欲しかった。
 深大寺の山門はかたく閉ざされていた。美紅の頭の上は、鬱蒼とした樹々の葉並が生い茂っている。薄い膜のような細やかな雨が葉並を伝って石畳の上に落ち、鈍い銀色の光を滲ませていた。山門前の参道に七夕の笹が並んでいた。七夕のあでやかな飾りつけが雨の雫に濡れ、まるで泣いているようだった。蕎麦屋や土産屋も扉をかたく閉ざし、人の気配はまったく感じられない。美紅は心細い気持ちでいっぱいになった。

 美紅は、うつむきがちに雨の音を聞いていた。やがて美紅は、山門前に流れる小さな川に沿って歩いた。道路を渡ると、水生植物園の看板が見えた。だが、そこも扉が閉まっていた。水生植物園の脇には小道があり、美紅は何かに吸い込まれるようにして、その小道を歩いた。小道は上り坂となっていて、濃く茂った樹々のざわめきが、頭の上から聞こえてきた。いつもの臆病な自分なら怖くて進めなかったが、何かの強い不思議な磁場のようなものが美紅を引き寄せていた。
 曲がり角に差しかかった時、傾きかけた看板があった。鏡のようだった。鏡は、街灯に照らされた樹々の一部を映し出していた。
 ――なぜ、こんなところに鏡が。
 美紅は、恐る恐る鏡を覗き込んだ。しかし、鏡は雨に濡れた葉並を映し出すだけで、美紅の姿がどこにも映らない。美紅は、ぞっとして振り返った。その瞬間、突然に白い光に包まれ、美紅は目がくらみ、何も考えられなくなった。

 気がつくと、美紅は大きな岩の上に座っていた。荒れた大地が広がり、それは急な斜面となっていた。ここからそう遠くない上の方に険しい山の頂が見えた。山頂付近には、明け方とも、夕暮れとも言えないような青っぽい紫色の空が淡い色で光っていた。目の下には見渡す限りの雲海が広がっていた。
 ――ここは、どこなんだろう。
 美紅は、ぼんやりした頭でそう思った。目の前に小さな池があった。なぜか、強く心が動いた。美紅は岩から降りて、池に向った。

 池には、水面いっぱいに蓮が浮かんでいた。緑の水面の中で、一輪の蓮の花が今まさに咲こうとしていた。ふっくらと蕾を膨らませ、小さくふるえていた。
 次第に空が明るくなってきた。空は青っぽい紫から、赤っぽい紫へと静かに移り変わりゆく。蓮の花は夜明けの光を浴び、淡いピンク色の花びらを静かに開いた。美紅は池の畔にしゃがみ、その蓮の花に手を伸ばし、やわらかな花びらにふれた。
 美紅の前に金色の光の輪があらわれ、その中から人が現れた。背の高い、感じのいい青年だった。青年は切れ長の目で美紅をやさしく見つめ、そして口を開いた。
「僕は、ずっと永い、永い間、眠り続けていたんだ。起こしてくれてありがとう」

「あなたは誰?」
美紅は、ゆっくり立ち上がり、青年の顔を見つめながら言った。
「僕は永い、永い眠りから目を覚ました蓮の花。きみと出逢うために生まれてきたんだ」
 青年は澄んだ声でそう言って、美紅にそっと手を伸ばした。美紅も自然に手が伸びた。青年の手が美紅の手にふれた時、美紅は青年と一緒に蓮の池の上に浮かんでいた。美紅は、青年と手をつないで蓮の池の上を歩いた。隣で青年は会社での悩みごとを聞いてくれたり、励ましてくれたり、慰めてくれたりもした。
青年は、やさしい目で言った。
「まだ、まだ、これからだよ。良い方向に自分を変えてゆけばいいんだよ」
今まで、そんなことを言ってくれた人は、美紅にはいなかった。
「あなたみたいな人に出会ったのは初めて」
美紅は、ゆっくり微笑した。そして、時間が経つのも忘れ、いつまでも彼と一緒にいたい、と思った。

 いつの間にか、日が高くなっていた。青年は微笑むのをやめ、ふと寂しげな顔をした。
「ごめんね。もう、あまり時間がないんだ」青年の顔が悲しそうに曇った。青年は視線を落とした。その先には、命を終えようとしている一輪の蓮の花があった。
 青年は、悲しそうな顔をした。美紅の心は揺れた。
「もう会えないの? どこに行くの?」
 青年は答えなかった。寂しげに微笑するばかりだった。やがて青年は金色の光を放ち、微笑だけを残して消えた。美紅は眩しさのあまり目を細めた。

 雨の静かな音が聞こえた。葉並を濡らす雨の音。美紅は雨の中に立っていた。目の前に鏡があった。寂しそうに立っている自分の姿が映っていた。美紅は目を伏せ、顔を両手で覆い、静かに泣いた。彼がいなくなったことが、寂しくて泣いた。

 翌日、日曜日の朝。美紅は昨日のことを確かめたくて再び深大寺を訪れた。雨はあがり、明るい光が雲の切れ間から差し込んでいた。美紅は、山門前を流れる小さな川の流れに沿って歩き、道路を渡った。水生植物園の門が開いていた。植物園の脇には小道が続いていた。美紅は少しためらったが、昨日の小道ではなく、水生植物園の門に向った。植物園内の湿原を歩き、小川に沿って歩き、小さな池に突き当たった。そこには、一輪の蓮の花が愁いに満ちた淡いピンク色の表情を浮かべて、ひっそり咲いていた。 
 美紅はなんとか蓮の花にふれようと無理な姿勢で身を乗り出した。地面は昨日の雨でぬかるんでいる。美紅は、小さな悲鳴をあげて足をすべらせた。その瞬間、後ろから強い力で抱きとめられた。
「大丈夫ですか」
澄んだ声がした。昨夜、鏡の向こうで出会った青年の声だと、美紅は気づいた。美紅は振り返った。そこには、蓮の花の精ではなく、ひとりの人間の男の人が立っていた。切れ長の目が、美紅をやさしく見つめた。

「もしかして、昨日の夜、ここに来ませんでしたか?」
驚いた顔で青年の方から切り出した。美紅も驚いて目を大きく見開き、ゆっくりうなずいた。
青年の顔に穏やかな微笑が浮かんだ。
「信じてもらえないかもしれないけれど、七夕の夜に、心寂しくなり、清らかな気持ちになりたくて、僕はひとり深大寺を訪れたんだ。不思議な体験をした。永い眠りから覚めると、蓮の池の前に君と似た人が立っていた。その人と別れた後、これが手のひらにあったんだ」
 青年はポケットから何かを取り出し、美紅に見せた。
彼の手のひらに、蓮の種があった。美紅は、その種の上に、自分の手のひらをそっとのせた。それから、ふたり、目をあわせ、薄紅色の微笑みを浮かべた。

吉澤 慎一(千葉県千葉県市/36歳/男性/会社員)

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