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<第3回応募作品>「千年の杜」 著者:松田 亜世

「あんたどこにおるがや?」
「お姐さん、堪忍。心配掛けてしもて…。」
「元気におるがなら、ほんでいいがやけど、金箔屋の旦那さん、あんたの踊りが観たいっちゅうて、ずっと待っておいでるがやぞ。いい加減帰ってきまっし。」
「あっ、明日には金澤…、帰るさけ。」
 志摩子の声は段々と小さくなり、武蔵国の面影を残す千二百年以上続くといわれる深大寺の杜、騒ぐ蝉の声に掻き消されていった。

吉祥寺の百貨店で働いていた志摩子が、初めての一人旅で訪れた金澤の”にし”のお茶屋、格子窓の奥から聞こえる三味の音に心惹かれ、芸の世界に憧れて東京を捨て芸妓の道に入って十年になる。「故郷を捨てる」ということはあっても「東京を捨てる」ということはなかなか人には理解されない。東京に生まれた人間にとっては、本来東京が故郷ということになる筈なのだが、「故郷は東京。」と胸を張って言えない何か不思議な感覚がこの国には存在していた。しかし、志摩子は東京を捨てた。自立した女になるために。
その東京に、十年ぶりに志摩子は戻ってきた。住み慣れた吉祥寺の街からバスに揺られ、ひとり深大寺へと向かった。十年の金澤生活の中で、いつの間にか日本的な美を愛でる感覚が志摩子の心には染み込んでいた。
「廓の紅の壁と、この緑は良く似合うわね。廓という非現実の世界ですら、自然に似合う、それがこの国の文化なのかもしれないわね。」
志摩子はそんなことを考えながら、深緑の参道をゆっくりと歩いた。色白の志摩子のうなじは、藍色の古風な浴衣によく似合う。参道の木々からもれる木漏れ日が、黒に赤の鼻緒のついた志摩子の下駄を優しく、しかし夏の暑さと相まって時にジリジリと痛く照らしていた。

吉祥寺駅から深大寺へ向かう道沿いの風景も、この十年で随分変わってしまった。”若者の街”、”住みたい街ナンバーワン”等と、そこに生まれたものにとってはお門違いのような持て囃され方をし始めたのも、ちょうど志摩子が金澤へと出て行った頃だったろうか。毎月のように入れ替わるテナントはまだしも、平日の昼間からモクモクと煙を吐いていたあの昭和の焼き鳥屋・”いせや”ですら、細長いのっぽビルへと建て替わるという。この街を出て行く、あの傷心だった志摩子を優しく包み込むように見送ってくれた温かなオレンジ色の電車もまた、冷徹なるステンレス製の車両へと移り変わっている。

「あなたに会いたい。」
心に重たい溜息のような想いが募ったのは、バスがようやく井の頭公園の森を過ぎた頃だった。
「『昔の恋を引きずるのは男の人の方』、だなんて云われるけど、そんなの嘘よ。恋をファッションや自己満足の道具にしか考えられない女の強がりもしくは、戯(言)…。」
 と言いかけて、大学を卒業する年、自ら選んだ恋の過ちに顔を赤らめた。
「女って身勝手ね。」
 そうお天道様に呟いたら急に可笑しくなっちゃって、巾着袋をギュッと握り締めて笑いを堪えるのに必死だった。

「幸ちゃんへ
  急に出て行くことになっちゃってごめんね。『なっちゃって』だなんて、誰かに責任押し付ける様な言い方だよね。でも私、自分じゃどうしていいかわからなくて…。鍵は新聞受けに入れておきます。落語家になりたいっていう幸ちゃんの夢、私これからも応援してるから。今は私、まずは私、ひとりで立っていける女になりたいの。『傍にいるだけで幸せだよ。』って幸ちゃんの言葉、あの時反発しちゃったけど、ホントは凄くすごく嬉しかった。そんな言葉が似合う女になったらまた会ってくれる?だなんて、ごめんね、身勝手にも程があるわよね。幸ちゃんを支えてくれる、そんな素敵な女性に出会ってね。
ありがとう、本当にありがとう。志摩子」

 置手紙をコタツの上に、私は二年続いた幸ちゃんとの同棲生活に別れを告げた。大人の女性に憧れていた私は、百貨店の化粧品売り場に就職も決まり、ひとつまたひとつと自分の気持ちに嘘を塗り重ねることを覚えていった。
 …嘘で塗り固められた恋だったのかもしれない。当時流行り始めたインターネットで一儲けした大学時代の先輩と、六本木や青山でデートを重ねたりもした。「自立した君の生き方を僕は尊重するよ。」、眩いばかりの”東京”の夜景を背景にしてかけられる優しい言葉に私は陶酔し、そして捨てられた。
 都会での自立した女の生き方なんて、最後には空虚になるだけ。都会の夜空じゃ、輝ける星も街のネオンに掻き消されてしまう、そう思ったら、遠く離れた金澤の街で芸に生きる決心がついた。
 歴史ある街で、心づくしのもてなしをお姐さん方から学ぶ度に、自分の心が生き返ってくることを実感した。自立した女とは、人の心に触れ合って、そして見つけていくものなのだと、ようやく私の胸に響いてきた。
 そしたら急にあの時幸ちゃんが私にかけてくれた「傍にいるだけで幸せだよ。」って言葉が、たまらなく愛しく迫ってきて、気づけば東京、羽田からのモノレールに乗っていた。それから一週間ほど、今となっては懐かしい”東京”の街をふらついた。同棲時代に幸ちゃんとよく飲みに行った吉祥寺の居酒屋で、二ツ目さんになった幸ちゃんの、深大寺で開かれるという落語会のチラシを見つけて、こうしてバスに飛び乗ったの。

 お寺の緑は心地がよい。金澤という、杜と水に囲まれた街での生活が長くなった志摩子にとって、深大寺の杜はどこか心落ち着き、そして懐かしいものに感じられた。
 本堂の隅に作られた高座に幸ちゃんが座っている。着物の袂からすうっと伸びる細い腕、そしてコマを回す仕草の手の平から青い血管が柔らかく浮き出している。幸ちゃんの手はあの時のまんま。『悋気(りんき)の独楽』という、落語の名作を一人何役もこなしながら演じている。
「旦那さんのコマと女将さんのコマがくっついたら今夜はお帰りになります。そいで、旦那さんのコマとお妾さんのコマがくっついたら今夜は、…お泊りです。さぁ、廻った廻った!」
 志摩子は自分の心をそのコマに託してみたい気持ちになっていた。今も変わらぬ、いや変わらぬと志摩子が信じて止まないまっすぐな幸ちゃん。まっすぐな幸ちゃんにまっすぐ向き合えない自分自身に少々居心地が悪かった。
「幸ちゃんにもし、想う人がいるならば、考えたくはないけれど、もしも奥さんがいらっしゃるのなら、私はお妾さんのコマでいい。だからせめて傍にいさせて…、お願い。」
 コマは「コツン」と乾いた音を立ててぶつかる。
・・・
 悋気とは嫉妬のこと。
「一度は乾いた恋を求めた私だけれど、今の私が求めているのは、”コツン”だなんてそんな乾いた音じゃないみたい。」
 志摩子は湿ったこの国の夏の暑さに、襟元を流れる汗を何度も何度も拭った。
 一方で、見知らぬ土地で暮らし、十年の歳月をかけてようやくその街を”故郷”と呼べそうになったというのに、心残りの過去の恋を追いかけて、一度は捨て去った筈の、冬には空っ風の吹き荒れるこの乾いた”東京”に戻ってきたこの矛盾に、無理に折り合いをつけないでも良いような、そんな気持ちにもなっていた。
「あなたに会いたい。」
 唯それだけが真実なのだと思った。あの頃毎晩のように嬉しそうに語ってた幸ちゃんの夢、その夢をこうして一歩ずつ叶えて生きる幸ちゃんに会えたんだから…。会いたいというその気持ちの答えは、今目の前にいる幸ちゃん、あなたがそこにいるということ。

 高座が終わり、志摩子は落語を聴きに来ていた地元のご老人や、蕎麦を目当ての観光客に交じって、境内の釈迦堂へとゆっくりと歩を進めた。
外の強い日差し、うだる様な暑さとは打って変わって、コンクリート造りのその建物の中は少しひんやりと感じられた。そこに祀られた白鳳時代のお釈迦さま、千年の時を超え、明治時代にこのお寺のお堂の下から発見された仏さまだという。まっすぐに誰かを想い続けたかのような清純な眼差し。千年の暗闇の中から、夏の日差し差し込むこの地上にお出ましになったのだ。
恋とは盲目、お日さまを背に立つあなたの陰を追いかけるようなもの。想いが強まる度に眩くなるばかり。逆光線、そう、私からあなたが見えなくとも恋は恋。

「やっと会えたね。」

 お釈迦さまに対面した志摩子の目には、ただただ涙が流れていた。
 ふと差し出されたハンカチに、この人の傍で生きたいと、心に決めた志摩子がいた。そして夏の湿った風がゆっくりと、ゆっくりと二人の間を撫でていた。

松田 亜世(東京都武蔵野市/28歳/男性/フォークな唄うたい)

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