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<第3回応募作品>「埋み火」 著者:相原 文生

「さっきの句碑だけど・・」
 弘子が、不意に言った。散歩した深大寺境内には多くの歌碑や句碑がある。その中で、弘子は、草田男や波郷のように著名ではないが、俳壇では重鎮だった、その人物の句碑の前に、暫く佇み、興味深げに読んでいた。
「ああ、皆吉爽雨の句碑のこと・・?」
 「みなよし・そうう。爽やかな雨。白々と明け行く刻の雨。いい俳号だなあ」など考えを巡らしながら、辰彦は目を細め、相変わらず弘子は『マニアックだな』と思った。
 二人は、近くの蕎麦屋で、新蕎麦を楽しみ、名物の蕎麦饅頭とお茶で寛いでいた。
「だけじゃなく、井澤正江との師弟の・・」
 弘子は、意外なことを口にした。
 井澤は、皆吉歿後、皆吉が創刊した俳誌『雪解』を引き継いだと聞いている。
「二人とも、地味だけど、いい句を詠んでいるよね・・」
 それほど爽雨に詳しいわけではないが、俳壇の元締めたる俳人協会の設立に携わり、副会長を務め、第一回「蛇笏賞」を受賞、印象深い句を多く残しているのは知っている。
「爽雨って、私あんまり知らないけど、例えばどんな句・・?」
「僕の好きなのは、〈ふくるると消ゆると秋の雲二つ〉とか、〈新茶くむつひのしずくに力あり〉という句・・」
「なるほど・・。いい句ねえ・・。じゃあ、井澤正江は?」
「有名なのは、〈白繭の翳れば山河はたと暮れ〉という句。師匠と弟子では詠みっぷりがかなり違うよね」
「そうね・・。でも、こんな話、あなたとするの、何年ぶりかしら・・?」
「あれ以来だからね。十年になるかなあ・・」
 辰彦は、ちょっと考え込む風情であった。
「そう・・。あれ以来・・、ねえ」
 弘子も感慨深げに頷いた。
『あれ』というのは、思い出したくもないが、弘子が俳句を捨てるきっかけになり、二人が別れる遠因にもなった出来事である。
 嫌な事件だった。こういう世界にありがち、と言えば言えたかもしれないが、弘子は勿論、辰彦にとっても痛恨事だった。
「こうして君と、再び、ここで会えるなんて、そのときは思いもしなかったけどね」
 待った甲斐があった、と辰彦は思った。
「ホントに待っていてくれたのね。今でも夢じゃないか、と思っているもの」

 十年前、二人は共に二十代後半、俳句結社「逍遥」の若手会員だった。町田の句会で、最初に弘子の句に注目したのは、辰彦だった。
 控えめな女性なのに、斬新で、切れ味の鋭い句を詠む。辰彦は、人柄を含め、次第に弘子に惹かれて行った。
 同じ句会に、師岡八重子という美貌の女流がいて、男の会員のアイドル的存在だった。しかし、句は弘子のほうが遥かに上。八重子にとって、弘子は目の上の瘤だった。
 そして、事件が起きた。弘子が「逍遥」に出した句に、八重子がクレームをつけたのである。この句は主宰から、秀句として評を貰ったのだが、季語を除き、他の結社の主宰の昔の句にソックリだと言うのである。
 八重子は、そのことを、評者である主宰に手紙で書き送った。主宰は、次号で、類想・類句の問題に触れ、「確かに似ているが、句意が全く違う。類想・類句は短詩形文芸の宿命だが、怖れてはならない。むしろ、花開くべき才能が、こういうことによって、萎縮してしまう方を怖れる」と述べた。
 八重子は、納まらない。「女を武器に主宰に取り入っている」など、弘子を誹謗中傷する心無い噂を撒き散らした。弘子は「逍遥」での活動を諦めざるを得ず、更に、現状にも嫌気がさし、俳句の筆を折る結末となった。
 辰彦は、心を痛めた。
この句は、悩んでいた弘子からアドバイスを求められ、「こうした方がいい句になる」と言い、従った結果、騒動に発展したからだった。つまり、責任の一端は辰彦にあった。
〈チョコレート苦きは秋の別れ言〉
 弘子はこの句を残し、辰彦の前から消えた。八重子が密かに辰彦に想いを寄せ、辰彦もまた美貌の八重子に惹かれた結果、自分を排除するため謀事を巡らせた、との疑いを持ったようなのだ。
「こんなことで迷惑をかけてしまうなんて、思いも寄らなかった」
 別れの日、吟行によく訪れた深大寺の寺領を散策しながら、辰彦は心から詫びた。
「いいのよ。これも私に与えられた運命」
 意外にも、さばさばした顔で弘子は頬笑んだ。何かを吹っ切りたいという姿勢が見えた。
「君への想いは変わらない。今回のことで、心に蟠りが無いと言えば嘘になるだろう。しかし、もし、僕への気持ちが残っているのなら、何時までも待っているつもりだ」
「有難いけど、そんなの夢物語に過ぎないわ。もう少し経ったら、きっと、八重子さんが、あなたの傍にいると思うから」
「それは誤解だ。僕は彼女を句友以外の何者とも思っていない」
「そうかしらね・・」
 弘子は、半信半疑のようだった。しかし、辰彦の人生にとって、弘子を失うことは、単なる一つの失恋以上の重みがあった。互いに切磋琢磨し、高めあう、句友であり、いい意味での句仇に他ならなかったからだ。
「それならこうしよう。十年後、もし、僕が今の結社にいたなら、必ず君との思い出の句を発表する。そのとき、僕への心が残っていたら、連絡くれないか」

〈薔薇散って残り香淡き寝覚めかな〉
 十年後、辰彦は弘子との思い出の句を他の二句とともに、『逍遥』に発表した。この間、辰彦は同人に推挙され、主宰の選を経ない、同人欄に載せたのである。
 暫く何の反応もなかった。以前の電話番号に連絡したが、「この番号は、現在使われておりません」という声が聞こえるばかり。
 弘子が『逍遥』を取り続けている保証はなく、仮に取っていても、その気がなければ読むことはないだろう、とも考えた。焦った。
 待つこと一月。漸く弘子から手紙が届いた。かなりの葛藤があったようだった。
「本当に待っていて下さったのですね。あなたらしいけど、馬鹿みたい」
 そう書いてあった。嬉しかった。あのまま人生を送っていたら、恐らく大きな悔いを残すに違いない。たとえ弘子が待っていてくれなくても、もう一度会い、現在の心境を聞くだけでもいい、とも思っていた。

「さっきの二つの句だけど・・」
「皆吉爽雨と井澤正江の・・?」
「そう・・、あれは一種の相聞歌というか、相聞句と取れないかしら・・」
 また予想外の言葉を弘子は口にした。心の内が読める言葉だった。暫く、俳句の世界から離れたことが、物事を客観的に見て、新しい発見に結びつくということはよくある。
「相聞句・・?まあ、主宰と会員、特に異性間の場合は一種の疑似恋愛みたいなところがあるからね。例えば、君も知っている、高浜虚子と森田愛子なんかはそうだよね」
「虚子の〈虹立ちて忽ち君の在る如し〉と愛子の〈虹消えてすでに無けれどある如し〉という句。互いを想い合う気持ちが凄いわね」
「虚子の『虹』と言う小説のモデルになって、愛子は有名になったけど・・。
〈春惜しむ深大寺そば一すすり〉という爽雨に対し、〈そのひまの空はまぼろし辛夷咲く〉という井澤正江の句は、受ける形になっているよね・・。疑似恋愛は別にしても、辛夷の花言葉は『信頼』、師への深い想い入れが読み取れる句だよな。師匠が蕎麦を一啜りする間の空が幻、というのだから・・。
 だけど、どうして相聞句だと思ったの?」
「ううん・・、別に。ただ、そう思っただけ・・」
「そう・・。でも何となく分かる気がする・・」
「会おうと決心するには勇気が要ったけど、この慌しいご時世に、十年も待つなんて。
 まるで平安時代の恋物語だわ。
 あなたがそこまで馬鹿正直だとは思わなかった。私の見込み違い」
 弘子は何が可笑しいのか、ホホホと笑った。
「馬鹿で、見込み違いで悪かったかな?」
 辰彦も笑いながら言った。空白の十年が忽ち埋め尽くされる感触があった。勿論、現実に、二人の距離を埋めるのは、それほど簡単なことではない、と分かってはいるが・・。
「そんな・・。でも嬉しかった。さっきあなたが、蕎麦を食べている姿を見て、本当に夢なら覚めないで、と思ったもの・・」
 それは辰彦も同じだ。目の前に弘子がいること自体奇蹟としか思えない。
「ありがとう・・。ただ、お互いもうそんなに若くはない。これからは、それぞれに、そして二人の間も、どうなるか分からないけど、前向きに、大切に生きて行きたい」
「賛成・・。ところで、八重子さんはその後どうなさったの?」
「僕に脈が無いと分かると、サッサと辞めて、別の結社に行ったよ。以後音信不通。今どうしているか知らない」
「そう。でも俳句を再開するにしても、あなたとは、別の結社に行く。もう嫉妬はコリゴリだから」
「それは賛成だな」
 二人は、顔を見合わせて笑った。
 辰彦は、来年の新蕎麦の時期、弘子とどう過ごしているだろうか、と想像した。そして、何故か、囲炉裏の灰の中から掻き出される、一片の埋み火を思い浮かべたのだった。

相原 文生(神奈川県相模原市/68歳/男性/無職)

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