<第3回応募作品>「再びの人生、これから」 著者:芝田 賢一
夜露で、健太のブルゾンは濡れていた。どこかの家の軒下にでも寝ていたのだろう。昨夜遅く、一杯飲み屋で焼酎をストレートで飲んでいたのは覚えているが、そのあとのことは霧に包まれたようで、まるで記憶がない。胃の底に汚物がたまっているような不快感で、吐き気がこみ上げてくる。ふと顔を上げると、目の前にお寺の境内が広がっている。深大寺という由緒あるお寺だ。山門には白梅がかれんな花びらを満開に咲かせている。柔らかな朝日が境内の木々の瑞々しい葉を照らしている。健太は水が飲みたかった。体の五臓六腑が水分を欲しているようだ。喉がひりひりするほど渇いている。お寺なら、水のみ場くらいあるだろうと、アルコールで浸された頭で考えてみた。
森の木立から鳥の鳴き声が聞こえてくる。山門から本堂に向かってよろよろしながら歩いていくと、ピンクのカーディガン姿の女性が両手をすり合わせて熱心にお参りしている。こんな朝早くに境内にいるのは、健太とその女性だけではないか。年の頃は三十代半ばくらいだろう。ロングヘアーを後ろで束ねている。サンダル履きなので、近所に住んでいるのだろうと思った。健太は少し離れた太い大木の影から、その様子を眺めていた。というより、余りの二日酔いのひどさに、木に寄りかかっていたかったのだ。その女性は何か、口をもぐもぐ動かしている。お願いごとでもしているようだ。
本堂の中には、確か阿弥陀如来像が祭られていると記憶している。深大寺からそう遠くない安アパートに住んでいるとはいえ、お寺に足を運ぶことなどまったくない。信仰心がないわけではないが、そういう生活と縁の遠い生き方をしてきた。ましてや、ここ数年の間に、自分の身に降りかかった不幸せを考えると、世の中に本当に神仏がいるのかどうか、疑わしくなってくる。その女性もきっと、何か困りごとがあって 藁にもすがる思いでこのお寺にやって来たのだろうと健太は思った。
女性は十分間くらいも手を合わせていただろうか。ようやくお参りを終えて、踵を返した。そのとき顔がはっきり見えたが、頬が濡れていた。手にしていたハンカチで、そっとまぶたをぬぐっている。顔はいくぶん青白く、髪もほつれている。ひょっとしたら、体が悪いか寝ていないのではないかと、酔った頭で健太は考えた。
女性は石の階段を下りるとき、ふらっと体が揺れたかと思うと、しゃがみこんでしまった。健太はその場に駆け寄って、声をかけた。
「大丈夫ですか?」
女性はびっくりしたような表情で健太を見上げた。濡れた目が朝日に光っている。
「具合が悪いのでしたら、救急車でも呼びましょうか?」
健太は二日酔いで多少、呂律が回らない口調で話しかけた。
「いえ、もう大丈夫です。ちょっとめまいがしたものですから」
女性は鈴の音のような声で答えた。
健太は手を差し出すと、女性は素直に応じて握り締め、ゆっくりと立ち上がった。
境内には緑の木々の葉がかもし出す、むせるような匂いで満たされている。
「深呼吸をすると、いいかもしれませんね」と、健太は自分から大きく息を吸ってからゆっくりと吐き出した。肺の中の細胞ひとつひとつに新鮮な空気が吸い込まれ、体全体にエネルギーが注ぎ込まれるような感じがした。
「僕は二日酔いで具合が悪いんです」と健太が言うと、女性はふふと含み笑いをしてから、同じように深々と息を吸い、吐き出した。女性の顔に赤みがさしてきたようだ。都会の喧騒の中で、深大寺の空気だけはまったく別世界のような新鮮さを健太は感じた。
肩を並べて、ゆっくりと元三大師堂に向かって歩き出した。周りは雑木林が覆い茂り、都会の中で暮らしていることを一瞬、忘れさせてくれる。健太は生まれ育った北国の田舎の風景を思い出していた。
「何かお願いごとがあったんですね。長い時間、神仏に手を合わせていたから」
健太の声は二日酔いを忘れたかのように弾んでいる。
「見てたんですか。身の上にいろいろありまして、もはや自分の力ではどうしようもないところまで、追い込まれてしまって」
女性の声は消え入りそうだった。話によると、次のようなものだった。女性は三十五歳で、百合子という名前だった。夫が血液のガンで半年前に急死し、幼い子供を二人かかえて、途方に暮れているという。収入がなくなったため、ビル会社の清掃のパートに出ているが、親子が暮らしてゆくにはほど遠い収入の少なさ。将来を考えると、胸が押しつぶされそうで、毎日死にたいと思っているというのだ。
健太も正直に身の上を話した。「僕もね、会社をリストラされ、収入が途絶えました。そのとき、妻は子供連れて実家に帰ってしまいました。それから、僕は毎日、真剣に職を探しましたが、四十も半ばだと再就職はとても難しく、履歴書の段階ではねられてしまうのです。面接さえ、受けられないのですからね」
健太の口調は自嘲めいていた。
「昨夜も安酒場で飲んで、べろべろに酔い、どうやら野宿したようです」と、健太は冗談めかした口調で言い、伸びたひげをなぞった。女性は無言で、健太の話を聞いている。
森の木立の隙間から、絵の具を塗ったような青い空がのぞいている。小鳥たちのさえずりが耳に心地よい。
「人生、七転び八起きというではありませんか。一生懸命、生きている人間を神仏は見捨てることはないはずです。真剣に願い、できる限りの努力をしていれば、きっと良い方向にゆくと思いますよ。ぜったいにそうに違いありません。夢と希望を捨てないことです。神様は奇跡を起こすのですから」
健太は自分でも不思議なほどに饒舌に話した。それは百合子のためというより、自分に言い聞かせようと熱弁を振るっているのかもしれなかった。これまで神仏など信じてはいなかった。しかし、これでもか、これでもかと身に降りかかる災難を思うと、最後は神仏しか頼るものはないのではないかと思えるようになった。
「今日はよかったわ、健太さんに会えて。何か生きる勇気みたいなものを与えてくれて、ありがとう。私は両親が早くに亡くなっていて、兄弟はだれもいないものだから、相談する人がいなくて・・・。夫の親とはソリが合わないし、毎日死ぬことばかりを考えていたの。どうしようもなくて、自然と神様に手を合わせていた」
百合子は途切れ途切れに言った。
時計を見ると、午前十一時を回っていた。かなりの時間を境内で過ごしたが、清澄な空気に包まれて、人生を見つめ直していると、あっというまに時間が経った。二人は山門を出た。その前の通りには門前町の雰囲気が漂い、名物の深大寺そばやお土産屋が軒を連ねている。赤や青の幟もそよ風に吹かれて揺れている。
「お腹すいてませんか? そばでも食べましょう」
健太は百合子を誘った。
「そうですね。久しぶりにお腹がすいちゃいました」と、百合子の顔は笑っている。
二人はこぢんまりした蕎麦屋に入り、ざる蕎麦を注文した。
「私、男性の人と二人だけで食事するのは、すごい久しぶりなんですよ」
「それは光栄です。もしよかったら、これからもときどき会って食事をしましょう」
健太は百合子の目を見ながらいった。その言葉に、百合子はこくんと頷いて、柔らかな笑みを浮かべた。開け放たれた店の玄関からは、深大寺を訪れる参拝者の姿がよく見える。うららかな日差しを浴びて歩く人たちの背中には、それぞれの人生が張り付いている。中には思い荷物を背負って、喘いでいる人も少なくないのだろうと健太は思った。ならば、困った者同士が手を取り合って生きてゆくのも悪くはない。いや、人は一人では生きてはゆけないものだから、困った者どうしが助け合ってゆくのが人生ではないかと、つくづく健太は思う。そのことを百合子に伝えたくて喉まで言葉が出かかったが、もう少し自分の身辺を整理してからでも遅くはないと考え直した。
「深刻そうな顔をして、なにを考え込んでいるの?」と、百合子は笑みをたたえながら尋ねた。
「いや、なんでもないんだよ」と健太はあわて気味に、蕎麦湯をごくりと飲み干した。
芝田 賢一(北海道札幌市/52歳/男性/自由業)