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<第3回応募作品>「年が明ける」 著者:中川 慶介

 お寺、おそば、そのふたつだけでは足らず、右隣で熱心にそばを食べる男、という状況までが加わって、私はようやく佑太君のことを思いだした。そして、あの日私に訪れた痛みの記憶と、あの日からずいぶん遠くにきてしまったのだという実感、そのふたつがあいまって、私は泣きだしそうになってしまった。
「中学生のときのこと、今急に思いだしたわ」
 涙がでてきてしまう事態をさけるために、私は浩平に話しかけた。
「中三のとき、塾の同じクラスの生徒で初詣に行って、その帰りにそばを食べたの」
 そばをほおばったまま、浩平は私の方を向いてうなずいた。
 浩平の実家で開かれた咲ちゃん――彼のお姉さんの娘で、今日で四歳になった――の誕生会の後、私たちはバスで深大寺に来た。植物公園のアジサイが今きれいだからと、浩平のお母さんにすすめられたのだ。くもり空の下、私たちは植物公園をじっくりまわり、それから深大寺に参拝し、おみくじを買ったり湧水を飲んだりしているうちに夕方になった。運動不足の私たちふたりは歩きまわったことでくたくたになり、それで、せっかくだしおそばを食べて休んで帰ろうという話になったのだ。
「それ、俺もときどきあるなあ」
 自分のそばをきれいに片づけてから、浩平は言った。
「昔の思い出って、ふいによみがえってくるよな。何かをきっかけに」
 今度は私がそばをすすりつつうなずく番だった。
「なんでこんなことまでおぼえてるんだよ、って自分に突っ込みたくなるくらい、細かいところまで思い出せるんだよな。いつも大事なことおぼえてなくて困っているのに」
 私たちは笑みを交わし、それからしばらくそれぞれの思いにふけった。浩平はそば湯を飲みながら、私は残りのそばをすすりながら。

中三のときの元旦の朝、私たち四人は塾の前に集合してから、地元のお寺に合格祈願の初詣に行った。冬らしい乾いた日で、太陽は顔を隠し、空気はきんきんに冷えていた。
部活を引退したあと、私は定年退職したおじいさんが開いている小さな塾――英数だけを教える個人塾で、狭い教室はいつもこもったにおいがした――に通いはじめた。私が入ったのは地元トップの県立高校を目指すクラスで、私の他には女の子二人と男の子一人、全員が違う中学に通っていたのだが、私たちは妙に気が合って、集まると親密な家族のような空気がうまれた。授業前と授業後、小さな教室は笑い声で満ち、私は塾に夜遅くまで残りすぎて母にたびたび叱られた。
女三人の中に溶けこめるだけあって、佑太君は変わった男の子だった。床屋で短く刈った髪の毛には、いつも寝ぐせがついている。自転車に乗っているときは、川本真琴の歌を低い声で口ずさむ。グリコの健康ヨーグルトが大好物で、よく口の端を白くしたまま塾に来てしまって――途中で買い食いしてくるのだ――笑われていた。
私は、いつのまにかその彼を好きになっていた。裏のない自然な親切さとか、うしろ首に浮き出るまっすぐな骨のかたちとか(授業中、たまに目が離せなくなった)、英単語の小テストの前に、突然ぐわっと集中して単語帳に向かう時の締まった横顔とか。
けれど私は、自分のその気持ちを最後まで隠し通した。その頃の私は今より輪をかけて内気だったし、そのことが発覚してしまうと四人の親密な輪が壊れてしまう気がしたからだ。
当時の私にとって、その輪は何よりも大切だった。
初詣を終えた帰り道、年中無休のそば屋の前を通りがかったときに、食べていこうと提案したのは佑太君だった。俺年越しそば食べそこなったんだ、と。他の女の子二人も食べていないと言い、私は前の夜に食べていたが嘘をついた。参拝の行列に並んだせいで体が冷えていたし、すこしでも長く四人でいたかったからだ。
でも、そばを食べはじめてすぐに、私はそのことを後悔した。
四人そろって志望校に合格しないかぎりこの輪は失われてしまう、と私は考えていた。だが、志望校の人気と私たちの成績とを分析すると、その可能性はゼロに近い。つまり、年が明けたということは、大切な輪を失う年になったということを意味していた。参拝の間は、ただお寺に遊びにきたというふうに思うことで現実をごまかしたのだが、そばを食べているうちに、年が明けたという事実も一緒に私の中に入り込んできたようにふと感じ、一度そう感じてしまうと、もう自分をごまかせなくなったのだ。
 三分の一ほど食べたところで、私はついに箸を置き、
「みんな、受かるのかな?」
 と言ってしまった。心の中でふくらんだ不安を、抑えきれなくなったのだ。
それまで私たちの中で、その話はタブーだった。向かいに座っていた女の子二人の顔に戸惑いの色が広がった。
「そりゃそうだよ」
 横に座っていた佑太君が、食べる手を止めずに言った。
「受かるって、全員」
 私の好きな例の真剣な横顔で、さも当然のように。
 力強いその言葉に女の子二人は安心し、再びそばをすすりはじめた。一方、私は自分が恥ずかしくなって、その場から逃げだしたいと思い、その気持ちと同じだけ強く、佑太君にがっしり捕まりたいと思った。
 だが、そのどちらもできるわけがない。
途方にくれた私は、彼の椅子に無造作にかけられていたジャンパー(ふかふかした黒のナイロンジャンパーで、一枚で防寒できるその道具はいかにも彼らしかった)の袖をこっそりと掴み、かろうじてその席にとどまっていた。
「食べないんだったらもらってもいい?」
 佑太君に笑顔で訊かれて、私は思いきり動揺しながらうなずいた。そしてうなずいたのとちょうど同時に、信じると決めた。信じて力を尽くす以外、方法はないのだから……。

「初詣っていえば、俺、大学に入った年からずっとこの深大寺に初詣に来てるんだ。必ず元旦に」
 そば屋を出たときに、浩平が言った。
「すごいね。縁起かつぎ?」
「うん。浪人した年、俺ひとり家に残って勉強しながら年越していたんだけど、除夜の鐘が耳に入ってくると、前の年はきちんと初詣に行かなかったせいで受験に失敗した気がしてきてさ。一度そう思っちゃうと、なんだかそわそわしちゃって」
「その気持ち、わかる」
「だろ? それで夜中の寒い中、自転車で一時間近くかけてこの寺に来て、缶コーヒー持って行列を並んでお祈りしたんだ。それですっきりして家に戻る途中、雨が降りだしてさ。おそろしく冷たい雨が。そのせいで風邪ひいて、正月中寝込んじゃったよ」
 私は笑った。浩平は、職場で思われているとおり律儀で、しかし職場で思われているより間が抜けていて、私は彼のそういう所を気に入っている。
 浩平の話は、久々に私に訪れた思い出が残していったかなしさを、雨のあとの風みたいに遠くへ運んでいってくれた。
 結局、私たち四人のうち目標校に合格できたのは女の子一人だけで、私たちは別々の高校に入った。また四人で集まろうと言ってはいたが、一度も実現しなかった。私はその流れを、避けられないものとして、自分でも不思議なくらい自然に受けいれることができた。私なりに精いっぱい努力したという自負のおかげだと思う。たとえ奇跡がおきて全員が志望校に受かっていても、いずれは同じ結果になったはずだ。あの小さな輪は、限定された世界でしか成立しえない性質のものだったから。
私は自分の入った高校で新しい輪を築き、佑太君への想いが時の流れの中で溶けてうすまったころに、新しい恋をした。それからくりかえし新しい世界で新しい恋をして、今、すぐ疲れるくせに歩くことが好きな浩平に恋をしている。無理して話題を探す必要はなく、ただ並んで歩くだけで幸福になれることを、私は彼に教わった。
日が沈み、涼しくなった参道は心地良く、左右の雑木林のたくましい木々――中には私の頭上におおいかぶさるくらいまでに生い茂っているものもある――を眺めながらぼんやり歩いていると、エネルギーをもらっているような気持ちになる。
でも冬には、これらの木々は葉を失っているだろうし、同じように私も、失いたくないものを失わないために力を尽くし、でもやはり多くを失って、新しい年を迎えることだろう。
年が明けるとき、初詣の人々でにぎわうこの参道に、私も立っているだろうか?
信じて、力を尽くそう。
そう決めてから、私は浩平のごっつりした手をにぎり、自分が失うかわりに得てきたもの――彼自身と、すこしは成長したはずの私自身――を確かめた。あいかわらず内気なままの私ではあるけれど、それでも。

中川 慶介(埼玉県所沢市/26歳/男性/会社員)

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