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<第3回応募作品>「春雪の咲く木の下で……」 著者:佐々木 淳志

 家から歩いて十五分。春もまだ浅い中、眠るような本堂の左に一本の木が堂々と立っている。
 ヒトツバタゴ。別名、なんじゃもんじゃの木。そう呼ばれる彼が今回の患者だ。
 彼が盛大に花を咲かせられるよう施肥をするだけなのだけど、高校を出てすぐ樹木医として働き出して三年。僕一人だけで治療する初めての患者が彼とは思いもよらなかった。この木は僕に樹木医を目指すきっかけをくれた。そんな彼に恩を返せることは嬉しいことだ。
 まず施肥のため、地面に二つの円を描く。幹を中心に枝の先端を半径にしたものと、それに三十センチほど足したもの。
 そのために一番長い枝を探していた時だ。制服を着た男女が木に近づいて来て、おもむろにカッターを取り出して幹に傷を付け始めた。
「おい! なにしてんだ!」頭で考える前に口が動いていた。「何の権利があってお前らはこの木に傷をつけてんだ! 木だってな、生きてんだぞ!」
「はぁ? なにこのおっさん。気持ちわりんだけど……あぁ、冷めちった。行こうぜ」
二人は悪びれもせずに行ってしまった。
 拭いきれないものを胸に抱きつつ作業に戻り、十分ほど経ったろうか。
幹を挟んだ向こうから、身長が高くすらっとした女性がひとり、さっきの子たちのように幹に近づいてくる。また何かするんじゃないかと横目でチラチラ見ていたら、その女性は幹の横を通り過ぎてきた。
「あの、すいません」
「はひ!?」思ってもいなかったことに声が裏返ってしまった。「……なんですか?」
「よかったら手伝わせてもらえませんか?」
そう言い、爽やかな笑みを浮かべた彼女は真っ白なピーコートを羽織っていて、下はスカート。どう見ても土をいじるには適していない恰好だ。
「えーと、別にいいですけどその恰好じゃ……」
「いいんです。こう見えても私、大学で植物の勉強しているんです。でも文字とばかり向き合って分かるものじゃないでしょう、植物って。だから手伝わせてくれないかなーと。……だめですか?」
 そこまで言われ断る理由のなくなった僕は、承諾のサインとして軍手を差し出す。
「素手じゃさすがに。それとあんまり無理しないでね」それだけ言って仕事に戻ろうとした僕を、彼女は呼び止めた。
「ごめんなさい。えーと、お名前は?」
「名前? ユウキだけど」
「じゃあ、あの、ユウキさん。この地面に書かれた円って何か意味があるんですか?」
「あるよ。この二つの円に挟まれた辺りが、大体だけど根の先がある辺りなんだ。根と枝って対応してるもんでさ、枝の広がり方を見れば根の広がり方が予測できるんだ」
「そうなんですか。なるほど」
「で、他に質問は?」僕の意地が悪い質問に、彼女はばつが悪そうに笑って顔を赤くした。
 ほとんど僕一人の仕事になるかと思っていたら、なかなかどうして、彼女は次々と施肥をするための穴を掘っていった。さすがに僕よりは遅いものの、大学で勉強しているというのはあながち嘘でもなさそうだ。
「へぇ、うまいね」
「そんなことないです」
取れてしまうんじゃないかというくらいにぶんぶんと首を振り回す彼女に、僕は魔法瓶を指し示した。
「休憩にしよう。おかげで思ったより早く終わりそうだし」
スコップをその場に置いて門前通りまで出る。蕎麦屋兼土産屋の向かいにあったベンチに座り、お茶をついで彼女に手渡した。温かいお茶が僕らの空気を溶かしたかのように話が弾んだ。
といっても、僕から話したのは高卒ですぐに樹木医の道に進んだことくらいで、ほとんど彼女の話だった。
樹里という名前だということ。僕と同い年だということ。大企業の社長令嬢だということ。東京大学に通っていること。送り迎えは車で、一人では簡単に家から出してもらえないほど不自由だということ。それが嫌で、ささやかな反抗に一人大学から抜け出し、昔住んでいた頃によく来た深大寺へやってきたということ。
そんな樹里の話を遮るように、最近の曲らしい音楽が鳴り響いた。携帯電話の着メロらしい。携帯の画面を見て樹里はため息を漏らし、一拍置いて通話ボタンを押した。
「もしもし……はい、ごめんなさい。……はい、はい、今から帰ります」
電話を切り、樹里はもう一度ため息を漏らした。
「帰って来なさいって。私、行きますね」
そう言ってバス乗り場の方へ数歩行ってから、思い出したように振り返った。
「ユウキさん、またここに来ますか? もっと色々と教えてもらいたいんですけど」
「うん。今度の日曜には来るよ」
「分かりました!」
樹里はまるで小学生のように、嬉しそうに頭の上で大きく手を振って行ってしまった。
 次の日曜日、予定通り経過を見に深大寺へと出かけると、ヒトツバタゴの下には樹里がいた。
僕を見つけた彼女は眩しそうに笑った。
その顔を見て僕の心はきゅっと縮んだ。
 それからも毎週、木の様子を見に深大寺へ行くと、樹里も必ずと言っていいほど来ていた。彼女は別になにをするわけでもなく、いつも楽しそうに植物や日常の他愛のない話を一時間くらいして帰っていった。そんな樹里の影響か、僕は彼女と会うことが楽しみになってきていた。
会う回数を重ねるごとに樹里への恋心が大きくなっていった。でも、樹里のことを知れば知るだけ、それに比例するように僕の劣等感も膨れ上がっていった。
高卒止まりで、いくら医者と言っても樹木医の僕が、東大通いで社長令嬢の樹里と釣合うのか。
 豊かな森が日々刻々と深緑に色づいていく中、僕の心は少しずつ黒く染まり、石のように重くなり、沈みこんで行った。
そんな一日一日苦しくなって行く気持ちを抱えて迎えた四月。その初めての日曜日を境に、樹里の姿が深大寺から消えた。代わりに一通のメールが携帯に届いていた。
『親に知られました。ずっと見張られています。もう行けないかもしれません』
 それからも毎週深大寺に通ったけれど、メールの通り、先週も、そして今週も樹里の姿はなかった。でも残念な気持ちの反面、これでよかったのかもしれないという気持ちも胸に浮かんできた。
 所詮、僕と樹里とでは釣合わない。
 そう。そう思い込めば、この苦しみからは解放されるものだと思っていた。けれど、ますます樹里への想いが万力のように僕の胸を締め付ける。
 そのあまりの苦しさに山門前の階段に腰を下ろしてしまった。そんな僕の横を通り抜け、本堂へと向かう男女の会話が嫌でも耳に入ってくる。
「……ってる? ここが縁結びで有名なのは昔話から来てるんだって。だから……」
 深大寺に伝わる有名な話だ。湖畔に立ち続ける青年のイメージが嫌でも今の僕と重なる。
 そのイメージを頭から追い出すように首をめぐらした。山門の向こうにヒトツバタゴが見える。まるで雪が積もったような彼。その下に樹里の姿はない。
僕はあの木の下で立ち続けているだけでいいのか?
 ……答えなんて分かりきってる。
 僕は立ち上がり、バスを待つのもわずらわしくて、調布駅へと走った。息を切らしたまま切符を買い、改札を抜け、電車に飛び乗った。
 そうさ。釣合うか釣合わないかなんて、周りが勝手に決めることだ。僕のこの気持ちにそんなことは関係ない。僕は……樹里に会いたい。
 そう気持ちを決めた僕に、一時間の道のりなんて一瞬だった。気付いた時には有名な赤門の前にいた。僕は赤門をくぐって左の、話に聞いていた建物を目指して歩いた。会える保障なんてないのに。それでも、絶対に会える、という奇妙な確信を胸に歩いた。
 そして探し始めてすぐに、建物から出てくる懐かしい人影を見つけた。
 いた!
 樹里はいつかのピーコートのように真っ白なセーターを着ていた。
樹里も僕に気付いた。色々な表情が顔を駆け巡っている彼女のところへと、僕は走り寄った。
「……はぁはぁ」
走ったからだけでなく、胸が苦しい。この苦しさをどう言葉にすればいいだろう?
「……まだ俺が知っていることを全部教えてないぞ!」
 樹里が吹き出した。その目には涙が溜まっていた。
「ばか」そう優しく樹里は言い、僕の存在を確認するようにそっと腕を回した。「会いたかった」
「俺も。……そうだ。あの木、綺麗な花を咲かせたよ」
「そう」と、静かに樹里がうなずく。
 そして僕らは、示し合わせたように歩き出した。声に出さなくても分かり合えた。
樹里に会うため急いで来た道のりを、今度は彼女の手を握りゆっくりと戻る。
 二時間ほどかけて戻ってきた山門をくぐると樹里は小さく感嘆の声を上げた。
「わぁ……綺麗」
 満開のヒトツバタゴが迎えてくれる。
あまりの見事さに、僕らはしばらく声もなく白い花たちを眺めた。
「ねえ樹里。なんで初めて会ったあの時、俺に声をかけてきたの?」
「それは、ね。単純に植物の為に働きたかった。あとユウキさん、この木の為に怒ったでしょ? ほら、高校生ぐらいの子らに。人の為に怒れるって素晴らしいことだと思うの。あの時は木だったけど」
樹里がくすくすと笑う。
「で、その時にね、ユウキさんのことを知りたくなったの。植物を守る人に悪い人はいないっていうのが持論だから」
「何だ、それ」僕もつられて笑う。「俺は樹里が話してきたとき、あまりに白い服装をしてたから、この人はヒトツバタゴの妖精かもと思った」
なにそれ、と樹里も笑い返す。
「……私ね、親に知られて、ここに来られなくなった時、あの絵巻物の話みたいだって思ったの」
「それ、俺も思った」樹里と視線が合う。「……あのさ、樹里の両親は俺を認めてくれないかもしれない。けど、絶対俺自身の力で認めてもらうから。深沙大王や亀の助けなんて待ってられない。俺は樹里のところまで、自分の足できっと辿り着いて見せるから。だから……」
 見つめ合う僕らの間を一陣の風が通り抜けていく。雪と見紛うばかりの花吹雪の中、髪に白い花飾りを着け、目に涙を溜めた樹里の顔が近づいてくる。その姿は本当に妖精みたいだ。
 白く染まる世界、僕らの心が出会った。

佐々木 淳志(埼玉県さいたま市/23歳/男性/運送業勤務)

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