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<第3回応募作品>「カナの160センチメートル」 著者:前田 栄一

「何祈っているの?」という妻の声がきっかけで過去から引き戻された。
「家内安全」と答える。嘘ではない。
「随分熱心に祈ってたね」
「そりゃそうだ。僕は家長だぜ。家の安全を熱心に祈るのは当然だろ」
「そうですね」
「お父さん、カチョーなの?この前係長の試験落っこちたってお母さんが言ってたじゃない」
 小学生一年生の娘のカナが惚けたことを言う。妻が含み笑いをする。

追憶に浸っていたせいで熱心に祈っていたように見えた。家内安全を祈りつつ、高校生の頃のことを思い出していた。あの頃は別のことを祈っていた。
 僕は調布市内の都立高校に通っていた。六大学に入るのが三十人くらいの学校だった。熱心な進学校というわけでもなく、かといって底辺校でもなく、勉強したい生徒はする、そうでない生徒も進路はちゃんと考えるいうところだった。
 三年生の時に彼女が出来た。美園は同じクラスのバスケット部の子で、僕より五、六センチくらいは背が高かった。明るく活発だったけど、上背があるのを気にしてバスケをしている時以外はいつも猫背気味だった。はにかんで笑うのが可愛らしかった。
たまたま席が隣同士になって、よく勉強を教えた。僕は難関のN大を目指していて、そこそこ成績が良かったのだ。それから段々一緒に遊ぶようにもなった。恋人として付き合うようになったのは、夏が過ぎ、美園がバスケットボール部を引退した後だった。美園はようやく女としての自分に気付いたみたいだった。
僕らは受験生で二人一緒に勉強するばかりだったけど、縁結びのご利益のある深大寺にはよく行った。美園も僕もお互いが初めての恋人だったから、なんの疑問もなく「ずっと」とか「永遠」なんて言葉を使って二人の仲を祈った。

 「お父さん、まず何を見ようか?」妻と僕に挟まれてカナが言う。上機嫌で声も弾んでいる。晴れ渡った五月に両親と出掛けるのだから当然だ。
「そうだなぁ。」腕時計に目をやると針は十一時を指していた。「先にバラ園を一回りしようか。その後芝生の上にビニールシートを広げてお弁当を食べよう」
「さんせーい」妻と娘の声が交わる。
「今日のお弁当は何?」カナが訊く。
「何かな~?」妻が焦らす。
「昨日の夕飯の残りの煮物とコンビニ弁当のナイルバーチのフライ、タルタルソース掛けを弁当箱に移し変えたやつ!」僕は面白がって意地悪を言う。
「何それ~!?」カナは聞き慣れない言葉に興味を示し、「ナイルバーチ、ナイルバーチ」と繰り返す。
「変なこと教えないの! カナ、変なことを言うお父さんの手をつねっちゃいなさい!」
カナは面白がって僕の手の甲を抓る。自分の力が弱いのを補うべく爪を立てている。これが存外痛い。
「痛ッ、イタ、タ、タ、タ。何を~、やり返してやる!」
そう言ってカナの頭が僕の腰の辺りにあるのをいいことに、お尻を娘に打ち付ける。カナはよろける。妻が手を握っていなかったら転んでいただろう。
「やったな~!」
 カナはそう言うと僕のお尻を何度も打ち始めた。
「ごめん、ごめん。許してよ」
「許さない!」尻を打ち続けるカナ。こういうときの子供はふざけているのか本気なのか分からない。
「ごめん。どうしたら許してくれる?」
「肩車したらっ!」
――肩車!
 カナの言葉に対して重く鋭く独白する。三〇も半ば過ぎた男にとって、子供を肩車することはその一回一回が挑戦である。
「い、いいよ」
 わ~いと喜ぶカナの声を遠くに聞き、僕はしゃがむ。鼻からゆっくり息を吐きながら腹筋に力を込める。
 双肩にカナの体重を感じると、腹筋にさらに力を溜めて立ち上がる。腰を痛めることのないようにゆっくりと、ゆっくりと。
「たか~い」
 僕の身長はせいぜい一六〇センチメートル。それでもカナはこんな歓声を上げてくれる。
「良かったね~」こう言いながら、妻がそっとカナの背中に手を添え、落ちないようにしているのが分かる。
 こんな時間が永遠に続けば良いと思う。カナは成長し、僕らから離れていくだろう。でも僕らはずっと家族だ。

美園との「永遠」は長くは続かなかった。高校卒業後、僕はN大に、美園は体育系の短大に入学した。希望の大学に入ったものの、僕はなかなかそこで居場所を見つけられなかった。難関大学らしく、クラスの連中は聡明で洗練されていた。それに対して中堅都立から歯を食いしばって勉強して合格した僕は、自分が何か野暮ったい感じがして、皆に上手く馴染めなかった。大学で上手くいかなかった分、僕は美園に頼った。美園の前で高校時代の「頭のいい僕」を演じれば、しっくりと自分を保つことが出来た。しかし、美園には美園の生活がある。彼女の短大はカリキュラムが濃密で一週間に一回会えるのがやっとだった。僕はもっと会えないかと迫った。結局、そんな僕の様子に嫌気の指した美園が新しい恋人を作った。
その事実を知った後の後の僕は惨めだった。大学も休みがちになった。代わりに何をやるというわけでもなく、暇つぶしにマスターベーションをし、夜は独りで酒を飲んだ。自分のベッドの上の反吐の冷たさと悪臭で目覚めることもあった。
無為の毎日が続いた。高校時代に二人で歩いた場所を独り巡った。深大寺や神代植物園も歩いた。深夜、美園の家に電話を掛けた。相手が出ると怖くなって切った。酒を飲むと無性に寂しくなって一ヶ月に一遍くらいはそんなことをしてしまう。無言でも何か繋がっている気がしてしまうのだ。一年が過ぎた。ある日受話器の向こうの声が言った。「誰だか分かっているのよ。今、彼氏がいないから、また付き合う?」

三人でバラ園を廻る。人込みの中でカナがはぐれてしまわないようしっかりと手を握る。カナは僕に手を取られあっちのバラこっちのバラを見て歩く。時折花冠に花を突っ込んで「いいにお~い」と言ったり、お気に入りの色の花を見ると「まあ、なんてキレイなんでしょう」などとディズニーアニメで覚えた言葉で嘆賞したりする。
ある時は初めての恋人と、ある時は独りで歩いた場所を今は家族と歩いている。何だか妙な気分だ。

痩せ犬に骨を投げつけるような美園の言葉。携帯電話のなかった時代だ。美園は僕の電話に迷惑し、ああ言えば僕が遠ざかると思ったのだろう。
美しい思い出を自ら壊して、堕ちるところまで堕ちた僕は一つ開き直った。大学に居場所なんてなくていい。僕は単位を取るために大学にせっせと通い、家で音楽を聴き、本を読みながら残りの大学生活を過ごした。

「ご飯にしようか。お父さん、そろそろ疲れちゃったよ。」
 僕が提案すると、妻と娘は「お父さん、男のくせにだらしな~い。」と言いながらも、嬉しそうに芝生の上にビニールシートを敷く。そこへ妻の作った弁当を広げる。
「わぁ」娘が歓声を上げた。
弁当箱の中にはカナの好きなアニメのキャラクターの顔が詰まっていた。赤ピーマンやイチゴ、海苔を使ってよく似せて作っていた。
「昨日の残りなんて入ってないじゃ~ん」
「でしょ~」
 話題は弁当箱の中のアニメキャラクターの話になり、僕も頑張って、ビール片手にその話の輪の中に入る。
 
「お父さん、起きてよ」
カナに揺り起こされた。一緒に走り回った後、ビールを飲みすぎていつの間にか眠ってしまったらしい。日の光が大分やわらかくなっていた。
「お父さん、お友達が出来た。美里ちゃんっていうの。沢山遊んでもらっちゃった」
 カナは自分よりやや年上の女の子と手を繋いでいた。
「ありがとうね」と僕が言うと、女の子は、はにかんだように笑う。その笑みに見覚えがある。ふと二人の向こうに目をやると、妻と長身の女性が談笑しながらこちらを見ている。逆光に女性の顔の輪郭だけがはっきり浮かぶ。
 僕は胸に込み上げるものがあって心の中で叫ぶ。
――おぅぃ、美園。お前にとっても、この場所は特別なのかい?あの時の僕はとてつもなく格好悪かったけど、見てくれ、今はこんなふうにお父さんとして頑張っているよ。カナがいると、小さな僕がとても大きくなるんだよ……。
「じゃぁ私帰るね」美里が言うと、カナは「バイバイ」と答えた。
僕らも家に帰ろう。

前田 栄一(埼玉県志木市/33歳/男性/会社員)

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