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【第10回公募】「永遠の終わった後で」著者:凛子

 空が薄暗くなり、土産物店の明かりが黄色く灯り始める。真知子は足早に店の間を抜けていく。
「あら、真知子ちゃん」
 まんじゅうを売っている女性に声をかけられ、真知子は振り返った。
「戻ってたの」
「そうなんですよー」
 けれど立ち止まらず、そのまま急ぐような素振りをして頭を下げる。この辺りは知り合いが多い。いちいち離婚のことを説明させられるのは真っ平だが、こそこそ避けたくもなかった。
 真知子は深大寺の境内に足を踏み入れた。空間が広く、すっと空気が透き通る。暮れかけた空に、巨木の豊かな葉のシルエットが揺れている。
 昔、境内で遊ぶなとよく親に叱られた。だけど、待ち合わせはいつもここだった。色んな遊びもした。鬼ごっこ、けいどろ、かくれんぼ……。
 一番仲が良かったのは、昇というふたつ年下の男の子だった。真知子は子どもたちのリーダーで、昇にはいつもジュースを買ってこさせていた。
“俺じゃだめなの?”
 五年前、結婚を告げた地元の飲み会の帰り道で、二人きりになった。昇はまだ大学院生だった。
“ばっか、何言ってんの、あんた”
 酔っていた真知子は笑った。
 関西で就職した真知子が昇と会うのは、久しぶりのことだった。大人だから、背格好は変らない。けれど、再会した昇は確かに以前とは変わっていて、真知子は彼と目を合わせるのを避けた。
 変わった彼がなんだかこそばゆかったからだけではなく、彼の自分に対する気持ちを知っていたからでもあった。
 子供の頃、冗談みたいに好きだと何度も言われた。真知子は笑って取り合わなかった。真知子にとって、いつになっても昇は小さな昇のままだった。
“なんでその人と結婚するの?”
 結婚相手は、社に入って知り合った同期だった。慣れない暮らしを助けてもらっているうちに、親しくなって付き合い、結婚を申し込まれた。
“なんでって……”
 真知子は口ごもった。どんな言葉を返しても、昇は納得してくれないような気がした。
 しばらく沈黙が続いたあと、昇は長い息を吐いた。
“久しぶりに、神社の中、通り抜けてこうか”
“……行かないよ”
 真夜中の歩道で見る幼馴染の顔は、まるで見知らぬ大人の男のそれで、不穏な感じに胸がざわめいた。
“私は行かない”
 生暖かい夏の空気がじっとりと絡みつく。
“そっか”
 それきり二人とも話さなかった。家までは五分もない道のりだったのに、じりじりと長く感じられた。
 結果として、真知子の結婚は五年も持たなかった。長いのか短いのかよくわからない。永遠を誓った。彼だけを愛するのだと思った。だけど、あっけなく終わった。
 待ち人はなかなか来なかった。真知子は一人、すっかり夜になった境内に立ち尽くしていた。
 大人になってから、ここが縁結びの神社だと言われていることを知った。縁なんて結んでくれなかったくせに。そよそよと葉ずれの音がする。
「悪い、遅くなった」
 影が近づいてきて手を上げた。
「おかえり」
 穏やかな声が懐かしくて、真知子は微笑んだ。
「……ただいま」
 連絡を取るかは、ずいぶん迷った。どうせ地元に戻ってきたことはすぐに伝わるだろうし、それならば直接会ったほうがいいと思った。
 いや……本当は会いたかっただけだ。
 結婚生活が崩壊していくにつれ、真知子はよく考えた。もし、昇を選んでいたら……。都合のいい夢想だとわかっていた。それでも考えることをやめられなかった。
 夫を愛し続けられると思った。昇のことは、選ばなかった。プロポーズを受けた時、自分の道は決まったのだと思った。
「久しぶり」
 真知子の言葉に、昇はああと短い返事を返しただけだった。沈黙が落ちる。現実の昇は、真知子の記憶の中よりも無愛想で、痩せていた。
「……それで?」
「あ、しばらく、こっちにいるから。またあっちゃんとか陽くんとか、みんなで飲んだりしようよ」
「亜津子はお母さんの介護で大変だし、陽は浮気がばれて離婚調停中」
「え……」
 昇は真知子の見たことのない顔をしていた。化かされたような思いで、急に真知子は境内から逃げ出したくなる。
「パパ」
 真知子ははっとして振り返った。小さな女の子が、昇を目指して駆けてくる。
「おいしかったか」
「うん」
 昇はぱっと笑顔を浮かべ、しゃがんで少女の頭を撫でる。真知子は動けなかった。少女は、自分をじっと見る真知子を、不思議そうな目で見上げた。
「俺だっていつまでも、あんたを待ったりしないよ」
 昇は皮肉っぽく笑った。今更、昇とすぐにどうこうなんて、そこまで虫のいいことを考えていたわけではない。
「……かわいいね、何歳?」
 真知子はしゃがんで少女と目線を合わせる。彼女はいぶかしそうな目で真知子を見、それから昇を見、おずおずと指を四本立てた。
「四歳か」
 ただボロボロになった心を、昇なら癒してくれるのではないかと思った。それこそ勝手な一人よがりじゃないかと、真知子は自分を責める。
「そっか……よかったね」
「元気出しなよ」
「あんたに言われるまでもないよ」
 真知子は笑ってみせた。大丈夫だ。ショックを受けたりなんかしてない。永遠に続く恋はない。一人で生きていかないといけない。
「じゃあ、またな」
 昇は子どもの手を取って、背を向けた。境内の木々を大きく風が揺らしている。
「……待って」
「なに」
 昇は淡々と振り返る。
「……昇、私のこと、好きだった?」
「何でそんなこと、今更聞くんだよ。最低だな」
 昇にこんな風に強い口調でものを言われたのは初めてだった。
「いつだって俺は手下で駄目なやつで、自分の思い通りになるって思ってるんだろ?」
「違う、ごめん、変なこと聞いて」
「離婚して戻ってきて寂しいから、俺を呼び出したんだろ? 変わんないな。ほんと、卑怯なやつ」
 真知子は何も言い返せなかった。
「俺は、あんたの思ってるような、下僕でも純情な男でもない」
「ごめん……忘れて。聞かなかったことにして」
 真知子はうつむき、顔を覆った。元夫は優しい人だと思っていた。だけど、結婚生活は衝突が多く、やがて暴力が始まった。もう選んでしまって、道は決まったのだと思った。この生活に自分は耐えなければいけないのだと言い聞かせた。痛む傷口を抑えながら、思い出していたのは昇のことだった。
 会いたかった。勝手な幻想で、甘えに過ぎないのだとしても。昇のことばかり考えた。彼と過ごした暖かい記憶が、真知子をかろうじて支え
てくれていた。
 真知子はふと、昇の左手を見た。当然あると思った指輪はそこにない。そのまま視線を昇の顔に向けると、彼は困ったような苦々しげな表情を浮かべていた。
「なんであんたみたいな奴、俺はいまだに好きなんだろうな」
「え?」
 昇はそのまま、子どもの手を引いて歩いていく。
「待って」

凛子(東京都)