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【第10回公募】「最後の紫陽花」著者:上原久美

6月の雨が煙るように降っている。それがタイヤの滑りを鈍らせているのか、道路が混んでいる。河野大樹はこの30分間で何度目かのため息をつく。いつもなら寺に着いている時間なのに、調布駅界隈を抜け出せない。
「ねえ、今度花屋見つけたら、車停めてよ」
助手席の沼田亜紀が言う。
「さっき買ったじゃないか」
 亜紀はハンドルと大樹の間に仏花の束を差し出し、かしゃかしゃと振った。
「だって、やっぱりちゃちなんだもん。大樹のお義母さん、多分何か言いそう」
半年後の結婚を控え、亜紀は初めて河野の父の墓参りをする。
「大樹の家ってお花に大好きでしょ。庭なんてイギリスの庭園みたい」と言って、亜紀は持参する花を中々決められなかった。店員のアドバイスを聞いて、ランやトルコキキョウでまとめたが、まだ不安らしい。
「その花で十分だよ」と亜紀を宥めれば良いことは、大樹には分かっている。
でも、カーナビの時計が10時40分と表示されているのが目に入ると、アクセルを踏む方に神経がいってしまう。信号が赤になろうとしても、交差点を突っ切る。
「こんな運転する人だったけ?お義母さんとの約束まで余裕あるじゃない」
亜紀が非難するが、大樹は次の交差点も強引に渡った。

休日のためか、駐車場が混んでいた。それでも雀のお宿近くの駐車場の奥に一台空きを見つけ、大樹は車を停めた。
「花屋さん、寄ってくれなかった」
亜紀の頬はちょっと膨れている。
「その花で十分だよ」と言う好機だ。大樹が口を動かそうとしたとき、視界の片隅で紫のものが動いた。そちらに目を向け大樹ははっとした。
淡い紫色の傘を差した女性が深大寺通りを横断し、水生植物園の方に歩いている。傘のため、顔は見えないが、あの後ろ姿は・・・。
「ちょっと急がないと」
大樹が急かすと、
「雨の中、走るの?」
 亜紀は呆れた顔になる。
「うちの母親、待たされるの嫌いなんだよ」
大樹は雨の中、傘もささずに走り出した。
「河野家にとって、お墓参りって凄い行事なのね」
 男一人の一人っ子だからと、亜紀は大樹のことをマザコン認定したがる。今日の行動が決定打になるかもしれない。でも、大樹は走るのをやめなかった。

 待ち合わせ場所の山門前に、母里子の姿は見当たらない。
 「まだ来てないみたいよ。良かったね」
 亜紀は山門前に並ぶ蕎麦屋の建物を珍しげな顔で見ている。バブル期に開発された住宅地で育ったので、深大寺界隈の景色がもの珍しいのだ。「東京じゃないみたい」と弾んだ声をあげ、スマホで写真を撮り始めた。
「墓の方かもしれない」
 大樹はまた山門前の道を深沙大王堂に向かって歩き出した。
「まだ写真撮ってるんだけど」
「墓参りすんでから」
「信じられない」

 こじんまりとした深沙大王堂を右に曲がると、いっそう緑が濃くなる。小さな石段を上がって、深山茶屋の前を通り過ぎると、墓所がある。人の行き来はほとんどなない。
大樹は母が来ていないことを願っていたが、それは叶わなかった。
里子は河野家の墓の前にいた。
「母さん」
大樹が声を掛けると、里子が振り向いた。その手には紫陽花の花束を握りしめている。
遅かった。大樹は臍を噛む。里子の手にある紫陽花は供えてあったものだろう。
里子の足もとには薔薇の花束が落ちていた。自宅の庭から持ってきたと思われる、里子ご自慢の薔薇だった。大樹は薔薇の花束を拾い、
「かあさん・・・父さんの会社の人が来てくれたんじゃないかな」
「命日なんて誰も覚えてないわよ。紫陽花なんて持ってくるのは、あの女に決まってる」
里子は紫陽花を地面に叩きつけた。
遅れて墓所に来た亜紀は、地面に散らばる紫陽花を見て、息を呑む。
「もう10年経っているんじゃないか」
「10年たってね、いきなり墓参りに来たのが嫌なのよ」
 里子の目の淵が赤くなっているのに大樹は気付いた。
「捨てて来てくれる?」
 亜紀は身を屈めて紫陽花を拾い始めた。墓所で起こっている事態がまるで理解できていない。でも、亜紀がこの場で出来ることは他になかった。
「俺がやるからいいよ」
大樹は亜紀を制止し、薔薇の花束を渡す。そして、紫陽花を拾い、周囲に散らばった花弁も集める。

10年前、大樹はこうして散らばった紫陽花を集めたことがあった。父の病室でのことだ。そして、母が父を罵倒している間、大樹は病室を抜け出した。病院の外にいた紫陽花の送り主に、父の言葉を伝えた。
「こんなにきれいな紫陽花を見られて、思い残すことはないとのことです」
「もう病院には来るなってことね」
 大樹の肩についた花弁を取りながら、津山絵里子は寂しそうに微笑んだ。

大樹は「捨ててくる」と言って、墓所を出た。そのまま水生植物園に向かう。
雨にもかかわらず、水生植物園に巡らされた木道はかなりの人が行き来している。水芭蕉の季節のためだろう。
津山絵里子は、池に面した木道の一画にぽつんと佇んでいた。大樹の気配に気付いたのか、振り返る。絵里子は、一瞬驚いた顔をしたが、大樹が抱える紫陽花を見て、笑みを浮かべる。
「見つかっちゃった?去年までは大丈夫だったのに」
「去年までね、俺は早く来ては、片付けてた
んだ。母に、花が見つかったら、騒ぎになる
から。なのに、今年は道が混んでて」
絵里子は大樹の頭上に傘を差しだしてきた。だが、大樹は遠慮して傘を押し返す。
「お父さんが亡くなる前に遺言でも残していた?津山絵里子は何をしでかすか分からないから注意しろって」
「違いますよ。最初の命日に、たまたま早く
来たんですよ。そしたら、紫陽花が飾ってあ
って」
「これはまずいって思ったんだ」
 絵里子はまた可笑しそうに笑う。
「紫陽花は鬼門ね。大樹君にとっては」
大樹の父は花好きだったが、春から夏に掛けては特に紫陽花に目がなかった。
でも、母の里子は薔薇の栽培に凝り始め、庭の景観を損ねると言って、紫陽花を抜いてしまった。
「お父さんに花を見せたくって。でも、あなたのお母さん、必ず見破るのね」
「俺が早く来れば、今年も見つからなかった」
「でも、もう迷惑を掛けるのも今年で終わりだから。田舎に帰るの」
 大樹は絵里子の顔を思わず見詰めた。
「結婚するんですか?」
「ううん、そんな華々しい話じゃない。40になると色々ありましてね。親の介護というやつよ」
大樹はすぐには返事が出来なかった。元気だったころの父が絵里子と一緒にいるところを見たことがある。絵里子のいる空間だけ、違う空気が流れているようだった。それほどに華やかなオーラを絵里子は放っていた。介護をする絵里子など大樹は想像出来なかった。
「ここね、河野さんがプチ尾瀬と呼んでるの。おうちの整備された庭園も好きだったけど、自然な感じが大好きなのよね」
「親父は10年も前に死んだのに、まだ現在形で語るんだ」
絵里子は大樹の顔を覗き込んだ。大樹は思わず緊張する。
 10年前、絵里子に触れられた肩が熱くてその晩は眠れなかった。それから毎年、絵里子の紫陽花を捨てたことはない。密かに持ち帰り、枯れるまで部屋に置いておいた。
絵里子は傘を持っていない手で、大樹のほほを撫でた。絵里子の目には、大樹は高校生と映っているのかもしれない。
「紫陽花の始末、よろしくね」
 絵里子はくるっと踵を返すと、水生植物園の入り口へと歩いていく。
 大樹は遠ざかって行く薄紫の傘を見詰めた。
父の愛人だった女性に、近付く勇気は大樹にはなかった。今年ようやく会えたと思ったら、絵里子は東京を去っていく。
このときを逃せば、一生縁がないだろう。
絵里子を追って、大樹が歩き出そうとしたときだった。亜紀から携帯メールが届く。
「どこまで捨てに行ってるの?嶋田家さんに移動。お義母さん、大ちゃん来るの待ってからお蕎麦注文するって。だから早くね」
現実と折り合いをつけるためには、早急に紫陽花を処分しなければならない。今年は家に持ち帰ることが出来ないのだ。
だけど、これは絵里子の最後の紫陽花だ。
雨足が強くなる中、大樹は木道の上にただ立ち続けていた。

上原 久美(東京都世田谷区)