【第10回公募】「野良猫」著者:狐里内明子
私は野良猫である。人間でいえば38歳と9ヶ月。名前は坂田真弓。親と同居する野良猫である。その証拠に私の母は
「誰かもらってくれる人はいないかしら」
と寝言のようにつぶやいては、私の嫁ぎ先を探している。私は立派な野良猫である。
「そうだ、お姉ちゃん! 深大寺行けば?」
どこにでも首を突っ込みたがる紗香が腹話術のように出っ張った子持ちの腹を揺らし、野良猫を台所に追い立てた。
「私の友達、あそこにお参りしてすぐに彼が
できたんだって」
台所にまで届く大声で紗香は野良猫に叫ぶ。
…そうだね、いっそそのまま仏門にでも入ろうかな…
私は飲まないお茶の湯がわくのを待ちながら、言わない言葉を飲み込んだ。
四十の門番に首根っこをつかまれると冗談にも悲哀がまじり、私は今まで以上に言葉を選ぶようになっていた。野良猫にはとかく生きづらい世の中である。
…深大寺…
その言葉に忘れかけていた記憶がよみがえる。
「ねえ、聞いてる?」
深大寺の山門にほど近い喫茶店で、外見は昭和なのに、中身だけ「今どき」の正明が私を覗き込んだ。
そうだ、こういう話は縁結びの神様に参拝してからにすれば良かった……急に怪しくなった雲行きにあわてて飛び込んだ喫茶店で、私はアイスコーヒーをたのみながらそんな事を考えていた。
「別に結婚とか、そういうのこだわるタイプじゃないと思ってた」
…分別ゴミにだってこだわるのに?…
まるで結婚にこだわるなんてかっこわるいよ、とでも言いたげな正明の態度に私は口ごもるしかなく、ただ「ふーん」とストローを包む薄い紙を指先でもてあそんだ。私がもてあそべるのはこの紙が精一杯、そう思うと正明の話など耳には入ってこなかったが、正明は話を変えたいのか昨日の深夜番組を大笑いしながら話しだした。私は指先のストローの袋をクルクルと丸めて爆弾にすると、正明にぶつけた。正明の周囲50キロは一面の焼け野原だ。
「なんだよ?」
わかっているくせに、笑ってその場を誤摩化そうとする、そんな魂胆の見え透いた明るい笑顔で正明が笑い、私もまた情けない弱者の笑顔を向けた。
希望なのかすらわからなくなった太陽でも沈めば暗い。それでも黄昏れに生きるより野良猫には暗がりがお似合いだ。3年も続いた正明との、半年前の話である。
この日を境にプイと消えた正明もまた、野良猫だったのかもしれない。
そういえばあの時、結局お参りしなかったなあ…西日を浴びながら、神保町の一角のオフィスビルでパソコンの電源を落とした金曜日、ふいにそんな思いが頭をよぎった。
……縁結びの神様……
神頼みで願い事が叶うなら、私はとっくに家猫だ、そう思いながらも、このひん曲がった「へそ」を持つ野良猫は参拝を決めた。
正明に対しての未練などはもうない。
だけども違う誰かに出会う気配もない。
その時の私は、大勢に囲まれながら誰とも目をあわすことのない車内で、次々にくる「毎日」に止まり、やがて終点にたどりつく、それが私という野良猫の人生なのだと、どこかでそう思い始めていた。
そして同時に、そんな人生になんとか風穴をあけたい、と息苦しさにもがいていた。
土曜日の朝、私は誰にも言わない精一杯の本気で新しい白いスカートと白いシャツで深大寺に向かった。
おろしたてのスカートは歩くと布がこすれてシュッと音をたてる。
それはまるでリズミカルに私を導く歓迎の音色で、一層参拝気分を盛り上げた。
シュッ、シュッ、シュッ。
昨夜、一時ふった雨は深大寺周辺の緑を際立たせ、蝉達も気持ちのよい波を奏でていた。あの喫茶店の店先は、今にも歌いだしそうな赤い陽気な花々がまぶしく光っている。
シュッ、シュッ、シュッ。
厳かさも相まった澄んだ空気に、スカートの音が響いた。
「どうかどうか神様、この野良めにも、縁をおむすびくださいませ」
あわせた手は汗ばみ、お腹の底からの願いはもしかしたら口を通じて境内に響いているのではないかと思う切実さで、私から溢れ出た。
「いつでもいい、今でもいい、帰り道でも」
その時、背後で男性の声がした。
「慌てない!」
神様の声が?!
振り返るとそこには、正明……とは似ても似つかぬさわやかな男性が、前を走るおぼつかない足取りの子供の手をつかもうとしていた。
……私だって、慌ててるのに……
私はもう一度神様に向き直ると、誰もつかむ事のない手を合わせ、念入りに、念入りに願いを重ねて、今度は静かに目をあけた。
……野良猫だけど、頑張ります……
縁結びの神様はこの野良猫に、そんな前向きな気持ちをも呼び起こさせたようだった。
山門に回ろうと私が歩き出すと、先ほどの神様の声の主の親子とすれ違った。
男性の背後には白い日傘をさした女性が歩いている。どこからみても家族である女性がまぶしいのは、日傘が白いからだけじゃないはず…野良猫根性が痛んだのか、私はすれ違ってふと立ち止まった。
シュッ、シュッ、シュッ。
ところが立ち止まったはずの私のスカートから布がこすれる音がする。
シュッ、シュッ、シュッ。
シュッ、シュッ、シュッ。
スカート……、あの人のスカート。
すれ違った女性のまぶしさが、私と同じこのスカートの白さだと気がついて私は慌てて振り向いたのだが、もうそこには誰の姿も、今すれ違ったはずの家族連れの姿すらなく、そこにはただ静かな境内が広がっていた。
…神様、あれは…
私はその場でもう一度神様に手をあわせると、日傘を一つ買って帰った。
真っ白でシミ一つない、あの日傘を……。
狐里内 明子(東京都豊島区/29歳/女性/会社員)