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【第10回公募】「蕎麦あとは雨の香り」著者:山口亜紀

晴れた日には深大寺参詣や神代植物公園の観光客で一日中客足が途絶えぬまあまあの人気店(食べログの評価3.12)であるが、雨の日はほどほどでやる気が出る。
「深大寺そば一枚。蕎麦後にわらび餅ね」
雨の日には必ず窓際の定位置に座る日焼けした男が蓮実に手をあげ注文を唱える。
「はい。深大寺そば一人前、食後にわらび餅ですね」
と嫌味のように言い直す。なんだよ蕎麦あとって。蕎麦まえならわかるけど…。
「すみません。深大寺そばってどんなお蕎麦なんですか?」
夫婦であろう年配の女性客の方が聞いてくる。またか…今日で9回目だよ…。
「深大寺そばって言うくらいなんだからここら辺の名物蕎麦なんだろ」
片割れの男性客が知ったかぶりをする。
「いえいえ、普通のね、もりそばの事なんですよ。深大寺辺りではもりそばの事を深大寺そばって言うんですよ。私は産まれてからずっとここなんです。昔、浅草で蕎麦屋に入ったら深大寺そばがなくてびっくりしました。もりそばってその時初めて知りました」
「そうなんですかぁ。洒落た呼び方ですね、深大寺そばって」
 そうですねと笑顔で答えて蓮実はメニューの深大寺そばの文字をじっと見つめる。

 多賀も私も成人式を終えたばかりだったっけ、両家に結婚を反対されて家出したのは。
浅草の蕎麦屋に入ってメニューも見ずに深大寺そばって言ったら多賀がもりそば下さいって訂正しちゃって。なんか都会ぶってて感じ悪かったな。あげくの果てに隣同士の蕎麦屋なんだから「蓮の家」潰して「多賀」に統合して俺が経営するなんて言い出しちゃって、M&Aかって。偏差値40の奴が。何であんな奴にバージン捧げちゃったんだろ、馬鹿なあたし。
 いつの間にか蓮実の手でメニューは握り潰されよれよれになっている。
「お蕎麦あがったよ」の声にふと我に返る。

 雨でじとっと濡れている暖簾を仕舞っていると、隣の店「多賀」から多賀が出てきて目が合う。蓮実から話しかけてみる。
「雨やみませんね」
「そうですね。商売あがったりですよ」
 多賀は逃げるように暖簾を抱えて店に入る。
「けっ、ケツの穴の小さい男!」
 蓮実と別れた後、一年後に高校の後輩と結婚して3人の子持ちになった多賀はあれから蓮実の事を避け続けている。

 定休日の月曜日、近所の神代水生植物園で開催される「植物博士と巡る草花散策」に趣味のカメラ片手に参加した。
 入口で参加者の列に並んでいると職員がやってきて「本日の講師は植物博士の半田広輝さんです」と大声で紹介する方を見たら蕎麦前男だった。げっ、休みの日までお愛想ちゃんしなくちゃなんて、アンラッキーなあたし。
「皆さん、今日は草花を穴があくほどじっくり観察してみて下さい。気になる事があったらどんどん質問して下さいね。では、半日よろしくお願いします」
 参加者は拍手で答える。蓮実は参加者の一番後ろをばれないようにこそこそついて行く。

 東の空が急に暗くなり雨がぽつぽつと降ってきた。園内の東屋に駆け込む一行。蓮実もカメラを庇いながら東屋に走る。
蓮実に気付いた半田が近づき声をかけてくる。
「こんにちは。今日はお店お休みですか?」
「あら、こんにちは。月曜は定休日なんです。それにしても驚きました。植物博士だったとは…」
「ただの植物マニアですよ。そういえば、いつもあなたに会う時は雨ですね」
「雨女なんですよ。実際運動会も遠足もいつも雨ばかりだった」
「僕の場合はあなたのせいではなくて、雨の日を狙って「蓮の家」に行くんです。ここの帰りに」
「ん?何でわざわざ雨の日に?」
「晴れた日は深大寺観光の人でお店混むでしょ。それに雨の日の蕎麦は何とも言えずしっとりしていて格段にうまいんです」
「そんなもんですかね」
「ほら、あそこに白い小さな花が沢山咲いているでしょ。蕎麦の花ですよ」
「ホントだぁ。あ、今日は蕎麦の花をカメラに収めたくて参加したんです。蕎麦屋だけにね」
 蓮実はカメラを持ち上げてみせる。
「ははは。小降りになってきたからそろそろ出発しましょう。蕎麦の花ばっちり撮ってくださいね」
 半田が蓮実の背中をさりげなく押す。薄いTシャツから感じる手の感触にドキっとする。
 やば…久々に男性と接触…うぶなあたし。

 次の雨の日、誰も居ない店内で蓮実は一人窓際の半田がいつも座る席で冷酒を飲んでいる。
「雨だってのに、きやしない」
 小一時間ほど経つと蓮実の前には空の瓶が3本ほど転がっている。
 がらがらと扉が開き半田が入ってくる。
「今日はミーティングが長引いて遅くなってしまいました。あるものでいいので一杯飲めますか?」
「あら、先生、おこんばんわぁ」
「あれ?だいぶん出来上がってますね」
「はい。雨ですからね」
「すごい理由だ」
「客が来なくて早仕舞いってことですよ」
「僕もご相伴に預かっていいですか?」
「いいとも~!ってもう終わっちゃったか」
 半田は笑いながら蓮実の前の椅子に腰かける。
 蓮実は深大寺ビールとグラス、お新香、揚げ蕎麦などをお盆に載せて戻ってくる。
「改めまして、僕は半田広輝と申します」
「こりゃ、丁寧にどうも。私は遠藤蓮実です。蓮の花の蓮に実るで蓮実です」
「かわいい名前ですね」
「もうかわいい年じゃないですよ」
「大丈夫、中年の僕にとったらまだまだかわいい女の子です」
 蓮実はちらっと半田の左手薬指を確認する。指輪はしていないし、日焼けの後もない。
「そういえば、あの日蕎麦の花の写真はうまく撮れましたか?」
 ちょっと待っててと言い残しカメラを取りに行く蓮実。半田はビールを一気飲みする。
 2人でカメラを覗き込み撮影した草花を見る。画像を遡って見ていると去年撮った深大寺鬼燈祭りの写真が表示される。ほうずき市のテントの後ろで隠れるようにキスをするカップルに釘付けになる。拡大してみると日焼けした男はまさに半田だった。女の方にも見覚えがあった。まさか多賀の奥さん…。はっと息をのむ蓮実。
 半田は何も気が付かない様子で冷酒を手酌している。蓮実は絞り出すような声で聞いた。
「多賀にはよく行かれるんですか?」
「ああ、去年はよく行きました。でも今年になってから蕎麦の味が変わってしまって。ご主人が脳梗塞やられたんでしょ?幸い経度だったみたいだけど、それから味が落ちたような気がして…今はもっぱら「蓮の家」一筋ですよ」
「…」
 脳梗塞なんて、知らなかった。去年多賀の奥さんが浮気しているという噂が流れていた事を思い出した。ざまあみろとほくそ笑んだんだっけ、ちっぽけなあたし。
「どうかしましたか?急に静かになって…。よかったら外で飲み直しませんか?」
「だったら多賀に行きませんか?同級生なんですよ、ご主人が」
「だ・か・ら、多賀は美味しくないから…」
「蕎麦屋の女が好きですか?」
「は?」
「研究者ですものね、突き詰めるご性格なんでしょうね」
「言ってる事がよくわからないのですが…」
「3軒先の「秀水庵」の女将さん、元ミス調布ですよ。べっぴんさん」
「あそこは甘味がうまくない」
「やっぱり通ってらっしゃった」
「トータル的に「蓮の家」はバランスが取れてますよ」
「可もなく不可もなくですか…」
「いや、そんな事は言ってない。蕎麦も甘味も蓮実さんもトータルでバランスが取れていると褒めているんですよ」
「私はバランスなんか欲しくない!バランスよりロマンスなんだよ、このエロじじい!」
 蓮実は厨房にあった袋から蕎麦粉を掴んで半田に投げつける。頭から蕎麦粉をかぶった半田は茫然と蓮実を見つめる。更に蕎麦粉を掴んで睨むと半田は慌てて店を出て行った。

 前掛けを粉だらけにした蓮実は店を出て湧水が流れる川沿いを歩き深大寺山門に向かう。
 本堂に行き、前掛けのポケットから一万円札を取り出し、えいっと賽銭箱に投げ入れる。
「今度こそ本物の恋ができますように」
これだけお賽銭あげたんだからお願いしますよ神様、と念には念をいれて5分ほど拝む。
 次に隣にある元三大師堂に向かう。木像のおびんずる様の頭を撫でる。あれ?脳梗塞だから頭撫でればいいのよね。早く良くなれ、多賀。フレーフレー、あたし。

山口 亜紀(東京都中央区/女性/主婦)