【第10回公募】「廻夏」著者:大野晶子
『母がまだ若い頃 僕の手を引いて この坂を登るたび いつも溜息をついた…』
さだまさしの”無縁坂”の歌詞である。
四十年も前の歌らしいが、母がよく歌っていたので、十四歳のわたしでも少し歌える。
毎年母と行っていた深大寺のお祭りは調布駅から歩いて三十分。調布の駅からバスが出ていることを知った時は本当にびっくりした。
それからは、バスに乗りたいよと何度かせがんだが乗せてはもらえず、頑なに母はゆるい坂を登りたがった。
中学に上がってからは友人と行くようになった。深大寺のほおずき市はこのあたりではデートスポットで、昨年はクラスの地味な女の子がテニス部のチャラっとした先輩と歩いているのを見かけ、大盛り上がりした。彼氏と浴衣でデートすることは女子中学生の憧れなのだ。
そして今年のほおずき市。クラスのちょっといいなと思っていた男子に誘われ、一緒に行くことになった。
母に髪を結ってもらっている時、久しぶりにその歌を聞いた。
「ほおずき市っていうと、この歌が出てくるのよね…」
娘には黙っておこう。十七歳の夏、待ち合わせの南門には二十分も前についてしまっていた。
一年生の時から片思いをしていたクラスメイトからほおずき市に誘われたのだ。
背が高くひょろりとした体型の彼は、どこにいてもとても目立った。ハンサムというわけではないが子どものような透明な瞳と無邪気な笑顔に惹かれていた。
ホームルーム中、隣の席でうつらうつらしていた彼に、翌日ある美術の持ち物を書いて渡したのがきっかけだ。
「ありがとう。お礼に日曜日にかき氷でもおごるよ」と言われた時はピンとこなかったのだが、ほおずき市に誘われているということに気づくのにあまり時間はかからなかった。
「ほおずきの花言葉は”私を誘って”なんだよ」
親友の由子は物知りだ。先週おそろいで買ったメモ帳をほおずき柄にしたのは、花言葉の効果があったのかもしれない。
由子に報告し、不思議な力に大騒ぎしたのが二日前だった。
参道は溢れるくらいの人だし見つけてもらえるかな…と思っている所に、バス停から由子がやってきた。そういえば彼女も今日は大学生の彼氏とデートだと言っていた。
「あれ、今日北門で待ち合わせって言ってなかったっけ」
約束した時パニック状態だったからそんな気もする。
「空いてるし見つけやすいよねって言ってたじゃん」
「そうかも。今から行こうかな」
「わたし彼氏と北門で待ち合わせだから、マコトくんに南門に行けって言っとくよ」
今思うと由子と一緒に北門まで行っていれば良かったのだが、その時のわたしは少しでも足を休めたくベンチで座ることを選んだ。
頑張って浴衣を着てきたのだが、慣れない下駄に足はもう限界だった。
そしてマコトくんと会うことなく、ほおずき市は終わった。
翌日由子に電話したところ、マコトくんには会えなかった、とのこと。彼氏としばらく待っていたけど来なかった。南門できっと恵子に会えたんだ、と思ってた、と。
交際が始まるのかな、始まったらいいな…という初期も初期の段階だったのでマコトくんの家に電話することもできず彼からも電話がなかった。
由子も「結局マコトくんっていい加減なヤツだったってことだね。付き合う前でよかったよ」と言っていたし、なんとなく不本意な形でわたしの初恋は始まる前に終わってしまった。
由子とマコトくんが付き合っていると知ったのは冬休みに入るころだった。
「黙っててごめんね。恵子がマコトくんの事好きだって知ってたから言えなかったんだ。」
そうか。マコトくんも由子のことが好きだったんだ。だから由子に近づくために、あの日わたしのこと誘ったんだ。
「何とも思ってないよ」
家に帰って少し泣いたけど、親友の新しい恋を応援しようと誓った。
その後わたしは地方の大学に合格したため実家を離れることになった。それなりに彼氏もでき充実した毎日を送っていたが、たまに入る情報に由子やマコトくんが入っていると心は穏やかとはいかなかった。
五年ぶりに帰省し、変わらない調布駅前に降り立つと見たことのある猫背の男性を見つけた。マコトくんだった。
頭の中で整理する間もなく声をかけてしまった。「マコトくん!」
彼は瞬きをし、三秒くらいたった後「あ」と言い近づいてきた。
「由子元気?」
「今妊娠六か月。暑くて大変そうだよ」
できちゃった結婚したと噂で知っていたけど、本人の口からきくとやっぱりちょっと堪える。
「お茶でもどう?」
自分でも驚くくらい自然に喫茶店に誘った。
大学時代の話し、不況で物が売れないという話し、同級生が外人と結婚した話し…。地元にいない間に起こったことを、一生懸命教えてくれるマコトくんを、わたしはずっと頷いて見ていた。高校の時は正面から見ることもできなかったのに、喫茶店でお喋りするなんてやっぱり大人になったんだなと思う。
話しが落ち着いた頃、ちょっと意地悪な気持ちになり言ってみた。
「わたし、少しマコトくんの事好きだったんだよ。」
「俺もだよ」
笑ってしまった。社交辞令だとしても嬉しい。さすが営業職だ。
「ねぇ、聞きたかったことがあるんだけど」
ずっと引っかかっていたあの日の事。
「「どうして来てくれなかったの?」」
二人同時に同じ言葉が出た。そして同時にびっくりした。
「わたしずっと南門で待ってたんだよ」
「俺はずっと北門で待ってたんだよ」
「由子は北門でマコトくん見かけなかったって言ってたよ」
「え?俺由子に北門で待ってろって言われたけど」
「由子は彼氏と一緒だったでしょ」
「いや…ずっと一人だった。」
「え…」
「一時間くらいたったころ由子がやってきて、もう恵子帰っちゃったみたいだから一緒に帰ろうって…」
そういうことか。由子もずっとマコトくんが好きだったんだ。わたしがマコトくんに誘われたのが悔しかったんだ。それであの日二人が会わないようにする嘘を?
驚きと混乱で鞄を落としてしまった。
中から、あの日のほおずき柄のメモ帳が飛び出していた。
「そうそう、思い出した。由子に北門に行けって言われたんだけど面倒くさくて帰っちゃったんだ。ごめんね。それはそうと…」とその後はお腹の子の話しや、新婚旅行の話しを聞き話題をそらした。聞きたくもない話しだったし、マコトくんも話したそうではなかったけど、目の前のコーヒーを飲み終わるまで会話を続ける必要があった。
「今日は久しぶりに会えて嬉しかった。由子によろしくね」
そう言い残し足早に店を出た。
もう会うことはないだろう。由子にもマコトくんにも。マコトくんはわたしのこと好きだったんだ…。でも縁がなかったんだ、ただそれだけだ。
足はゆるい坂の向こうの深大寺に向かっていた。自然にあの歌を口ずさんでしまう。
「運がいいとか悪いとか 人は時々口にするけど…」
ほおずきの花言葉は”私を誘って”だと由子が教えてくれた。
でももう一つ意味があるんだよね。
「そういう事って確かにあると あなたを見てて そう思う」
由子、わたしも今日マコトくんに使ったよ。”いつわり”
急に黙ってしまった母を鏡越しに見つめる。
それに気づいた母は、ふぅ、と少しだけ息を吐き、作り笑顔で仕上げの髪留めを差した。
「ねぇ、一番小さいほおずきでいいから買ってきてくれない?」
「いいけど突然なんで?」
「ほおずきの花言葉って知ってる?”私を誘って”って言うのよ」
「誰に誘われたいのよー」
「パパに決まっているでしょ。近いうちにデートに誘ってもらおうと思って」
「ハイハイ、仲いいわね。行ってきまーす」
母は若い頃にほおずきを誰かに渡したんだろうか。そして誰かに誘われたんだろうか。
ほおずき市と無縁坂がわたしには繋がらないけど何か思い出があるのだろう。でもきっとその昔があって今幸せなんだろうな。きつい草履を履き、ドアを開けた。
彼とはちゃんと会えるだろうか。浴衣を誉めてくれるだろうか。バス停まで歩く途中、つい口ずさんでしまう。
「しのぶ しのばず…」
いけないいけない。わたしは彼と縁がありますように。
大野 晶子(神奈川県川崎市/47歳/女性/パート)