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【第10回公募】「黒い種」著者:川森弘子

清太朗は、これまでのお礼ですと志保の前に封筒を置いた。
「いただきませんわ」と志保はうつむいた。
そばが運ばれてきた。志保がじっとしているので、清太朗は封筒を戻した。
 食べている間、二人は黙っていた。清太朗がふと目をやると、志保は、細く流れるような眉をやや顰め、ぽってりした唇を心持ちつきだすようにして、そばをすすっていた。少しやつれたようで肌の白さが目立つが、豊かで柔らかい感じは、以前と変わらなかった。
 志保は、祖父の女である。だが、七十に近い祖父の清は、日盛りに一人で百貨店へ出かけ、帰りに倒れて救急病院に運ばれ、意識のないまま、ひと月ほど入院していた。
十年前、気性の荒い祖父を受けとめていた祖母が他界すると、祖父の癇癪の矛先は清太朗たち家族に向った。身一つで上京して事業を興した人ゆえ、性格にも厳しいところがあるのは家族も承知していた。暮らしも仕事も祖父が築いたものの上に成り立っていたのだが、時折みせる不条理な感情の爆発に、敬意も感謝も薄れていった。入り婿で現社長の父と経理の母の間や専務の清太朗と事務を執る妹の梨香との間に、いさかいが起こるようになった。繊細なところもある祖父は、長年の夢だった一人暮らしをすると言い出し、深大寺界隈に家を借りた。そこへ何人めかの家政婦としてやってきたのが、秋田出身で看護師をしていたという志保だった。
通いから住み込みへ、そして男女の仲へと関係が変わるうちに、祖父の色つやも身なりもよくなり、禁煙にも成功したのをみて、母も梨香も志保を褒め、行き来もしていた。志保のお陰で、家族は祖父を追い出した後ろめたさから解放され、家庭内は平穏だった。
しかし、三年前の志保の妊娠で、状況は変わった。当時、婚約中だった梨香は、相手の一族に知られたら破談ものだ、始末をつけるようあの女に直談判するとわめいた。だが、子どもは流れ、梨香の結婚は続かなかった。
その後も、祖父と志保は一緒に暮らしていたが、祖父が会長を務める自らの空調会社へ顔を出すことも、あまりなくなっていた。
病院には母と梨香が交替で付き添っており、志保が行っても早々に追い返された。そのうち、ごたつく前に、まとまった金を渡して関係を絶とうという話が出るようになった。その役が清太朗にまわってきた。彼は、志保のためには祖父と別れるのがいいと思っていたが、まだ早いと渋った。倒れる前、ふらりと現れた祖父に、志保のことを頼まれていたからでもあった。だが、両親はこういうことは早い方がいいと言い、梨香は次期社長としても長男としても自覚が足りないと非難した。そこで、気が進まないながら、志保の指定した深大寺へやって来たのだった。
清太朗は、そばをすすりながら、以前見た炎天下のそばの花のことを思い出していた。白い可憐な花をいただき、華奢な姿で真夏に立つ姿に、どれほど強いのだろうと驚いたのだった。そんなそばを食したことで、力を得た清太朗は、重い空気を破って、「深大寺にはよく来るんですか?」と訊ねた。
「ええ。毎日。清太朗さんは、初めて?」
「学生時代に、二、三度来ました。縁結びの神様が祀ってあるそうですね。妹はときどき来ているようで、つい先日も、男友達とお参りに来た話を母にして、おじいちゃんがこんな時なのに、とたしなめられていましたよ」
 そうですかと志保の顔が曇った。
「それにしても、涼しくなりましたね」
「ええ。清さんも、暑さによく耐えて、がんばりましたわ。さすがです」
「祖父の所に来ていただいて、八年ですね。長い間、ありがとうございました」
「やめてください。ご存命ですわ」
「しかし、医者から意識が戻る可能性は、極めて低いと言われています」
「生きていてくださることが、支えです」
ふと、清太朗は、志保をいじめたくなった。
「祖父のどこがそんなにいいんですか?」
「失礼な言い方をなさるのね」
「男はいくらだっているじゃありませんか」
「どれだけ男性がいようと、清さんという方は一人です」と、志保はつぶらな瞳に力をこめて言って、「教えてあげるわ。声が素敵なところ、絵も字も上手なところ、優しいところ、男らしいところ、淋しがりやなところ、わがままなところ」と指を折りながら数えた。
「もういいですよ」
「まだだめ。それに、時どき癇癪をおこすところも嫌いじゃないの」
「癇癪もいいんですか?」
「頭の回転が速くて想像力が豊かだから、他の人より反応が素早く大きくでてしまうんだわ。それに、清さんが癇癪をおこせば、ほかの人は癇癪をおこさなくてもすむでしょう」
「参ったな」
「数えきれないわ。でも、どれだけ並べても決定的じゃない気がするの。やっぱり、わからないから恋、ということなのかしら」
 志保は小首をかしげた。
「実は、倒れる前に、祖父からあなたのことを頼まれているんです」
 清太朗は、封筒を再び志保の前に置いた。
「受け取ってもらえませんか。あなただって生活がある。月々のものは決して多くなかったし、金は邪魔になりませんよ」
 志保はまたうつむいて、「哀しいわ。恋がお金に変わってしまうも、それに頼らなければ生きていけないことも」と言った
「しかし、現実問題として、祖父がああいう状態である以上、頼れるものには、頼った方がいい。金はあなたを守りますよ」
志保は、しばらく考えていたが、ありがとうございますと頭を下げた。
「でも、おそばは離れません。勝手ですけれど、家政婦時代の退職金として頂戴します」
 店を出た二人は、水車館の前を歩いて、寺の方へ向った。お参りをするという志保に、清太朗も同行することにした。
「清さんに似てきましたね」と志保は、横に並んだ清太朗に笑いかけた。
「よく言われます」
「耳たぶや爪の形まで。お声も似ているわ。さきほども、清さんに言われているようで、それでいただく気になったんです」
 大黒天と恵比寿尊の前を通ってつきあたりのお堂まで来ると、志保は、「ここが、梨香さんのいらした深沙大王堂ですわ」と言った。
清太朗の脳裏に恋人の顔が浮かんだ。結婚願望の強い彼女は、祖父のことがひと段楽するまで待っていてくれるかわからなかった。自分も、近々お参りに来ようかと思った。
だが、自分や梨香のように、他人の恋路を邪魔しようとする者の恋の願いを、縁結びの神様はききいれてくれるものだろうかとも思った。もちろん、広く等しい神様は、寛大な心をもっているのだろう。だが、人間側の問題として、他人の恋路に口をはさんだり邪魔をしたりする癖に、自分の恋の成就を平然として願うのは、虫がよすぎる気がした。人にはそういうところがあるとわかっていても、釈然としなかった。だが、それが人というものなのだろう。さきほどの恋愛と金の話にしても、志保だけでなく、人の哀しい性質なのだと清太朗には思えてきた。
しかし、そんな思いが深刻になりすぎないのは、この深大寺の自然に抱かれているからかもしれなかった。さまざまな木々の形状や濃淡に身を浸していると、わが身が唯一無二の存在として尊いと思われるが、同時に大きな命の流れにおいては取るに足らない存在だという気もしてきた。祖父たちのことは、成り行きに任せようと清太朗は思った。
深沙大王堂の脇の道を右に曲がって、静かな道を歩いた。前方に赤いのぼりが見えた。
「ここですわ。こちらの延命観音様に、毎日、清さんのことをお願いに来ているんです」
 清太朗は、看板に記された由来を読んだ。秋田の象潟から出土した観音石を深大寺に移築したとのことだった。
「象潟は、実家の近くですの。清さんと一緒に旅行したこともあるんですよ」
「そうでしたか」
「ご縁のある観音様にお願いしているんですから、絶対に大丈夫ですわ」
 二人はまた緑の降るような道を歩き出した。
「さきほどお賽銭をおさめたとき、あなたの財布で何か揺れていましたね」
 志保は、縮緬の蝦蟇口を取り出した。黒い玉の下に、赤や黄色や緑の紐が結んであった。
「ムクロジのお守りですわ。この黒い丸いのは種なんです。本堂の右側に、樹齢が百五十年になるご霊木があるんですが、これはそのご霊木から取れた種だそうです」
「この真ん中の赤い字は、梵字ですか?」
「ええ。種字といって、これはキリクと読むそうです。この一文字で元三大師様を表しているんだそうです。後で、ご案内しますわ」
二人は、乾門から入って、大師堂にお参りをし、本堂の境内へ出た。
「あの木がムクロジですわ」
 志保は、本堂の横の背の高い木を指さした。
常香楼のあたりで、お宮参りの一行が、清太朗に、写真を撮ってほしいと声をかけてきた。若い母親が、赤ん坊を抱いていた。
 清太朗は、ちらりと志保を見て、断わって行き過ぎようとしたが、志保は、「撮ってさしあげたら」とほほえむと、ムクロジへ向ってまっすぐ歩き出した。
 写真を撮った清太朗は、ムクロジの幹をなでている志保のそばに来ると、木を見上げた。
「優しい姿をした木だな」
そして、案内を読むと「ムクロジは、無患子と書くんですね」と言った。
「三年前は泣いたわ」と志保はつぶやいた。「でも、今度は何があっても守るの」
清太朗を見た志保の目に力がこもっていた。

川森 弘子(東京都調布市/47歳/女性/主婦)