【第10回公募】「君と話した、いつかのこと」著者:谷真崇
通勤電車に揺られながら先ほどの出来事を反芻していた。
慌ただしい月曜の朝に僕は玄関先でみっともないほど動揺していた。恐る恐る振り向くと彼女の華奢な肩が震えていた。
「好きな人ができました」
彼女がもう一度宣言した。僕は呆けたように立ち尽くして、ここ数日に感じていた彼女のぎこちなさや違和感の理由を知った。告げたいのに告げられず、それを繰り返すうちに今朝までもつれこんだのだろう。
沈黙が僕らを飲み込んでいた。
耐え切れなくなったように胸元の携帯電話がアラーム音を吐き出した。七時十分。駅に向かう時間を指していた。
ごめん、とりあえず行くよ。彼女は目を伏せたまま頷いた。帰ってきてから、ちゃんと聞くから。彼女は何か言いたそうだったが、卑怯な僕は返事を待たずに逃げ出した。
電車の窓に反射する自分の青い顔を眺める。会社のデスクで雑務に追われながら、思いつめたような彼女の顔を思い出していた。自分の鈍さを呪った。
残業をすっぽかした僕は一人で深大寺に来ていた。夏の夜風と交錯して太鼓や笛の音が聞こえてくる。夜空に浮かびあがった木々の存在感に圧倒されながら、にぎやかな祭囃子と夜店から漂うソースの香りが僕の焦燥を包み込んだ。
盆踊りの輪を掻きわけて浴衣姿の子供たちが駆けていく。紙コップのビールをちびちび飲みながら心地よい喧騒に身を任せた。孤独がそっと僕の隣に寄り添っていた。
祭りを終えると木々たちが静寂を取り戻していた。僕はのろのろと深大寺を後にする。途中で見つけたベンチに体を預けると疲労が押し寄せた。抗うことを諦めて目を閉じる。
出会った頃の君を思い出していた。
三度目のデート場所を君から提案してきたときのことだ。最初は、どうしてお寺で待ち合わせなんだろうと不思議に思った。のちに縁結びで有名なお寺だと知った僕の喜びや浮かれようを君は想像できただろうか。
蕎麦屋や団子屋が華やかに隣接する通りを並んで歩く。艶やかな黒髪が僕の横で小さく跳ねてシャンプーの香りを漂わせた。細い肩に触れて、君の温もりと柔らかさを知った。
手を繋いでみたかったけど言いだせなくて、こっそり君の横顔を盗み見していた。長いまつ毛の瞬きにいつまでも見とれていた。手を合わせて拝む君の体温を隣で感じながら、僕はありったけの願いを込めて君を欲しがった。
「大丈夫ですか? 風邪をひきますよ」
男の声で我に返った。いつのまにか寝過ごしてしまったようだ。携帯電話で時間を確認する。二十三時を回っていた。二時間以上も眠っていたことになる。辺りは静まり返っていた。彼女からの着信がひっきりなしにきていた。
礼を言おうと男を見上げた。年の頃は二十代後半ぐらいだろうか。人懐っこい笑顔を向けている。スマートだが妙に背が高い。逞しい身体を品のいいスーツに包んでいた。立ち上がろうとすると男が口を開いた。
「失礼ですが沢地さんですか?」
どういうことだろう? なぜ、この男は僕の名を知っているのか。黙り込んでいるのを肯定と解釈したらしく男は続けた。
「よかった。探していたんです」
まさか。いや、まさか。律香? リツカ? 彼女の名前を絞り出した。
「ええ、彼女が心配しています。こんな時間になるまで帰らない日はなかったって」
内向的な彼女が自らの悩みを打ち明けたことからして、まちがいなかった。律香が告げようとしていたのは、きっと彼のことだ。
須山と名乗った男は「失礼します」と告げると携帯電話を取り出した。
「見つかったよ。うん、だから心配しないで。電車もないし、タクシーで送るよ。いや場所はちょっと内緒で。男同士で話してみたいし」
電話の相手はおそらく律香だろう。僕は今朝とは比べものにならないぐらい取り乱して「あーうー」という自分の唸り声をまるで他人の声のように聞いていた。
須山に促されるまま深大寺近くの居酒屋に来ていた。怒りが沸々と込み上げていた。律香はどういうつもりで須山をここに寄越したのか。なぜ、こんな惨めな状況に陥らないといけないのか。
「順を追って説明させてください」
敵意を感じたのか須山の声は緊張していた。
「僕が深大寺に来たのはお節介でして。彼女に頼まれたわけではないです」
話のつづきを催促する代わりに無言で睨みつけた。須山は笑顔を引き攣らせた。
「誤解があるようなので彼女と僕の関係をお話ししておきます」
生ビールが運ばれてきた。須山が乾杯を求めてきたが無視した。
「僕は彼女のことが大好きでした。だから交際を申し込みました」
須山のジョッキを避けて一口飲んだ。須山も諦めてビールを流し込む。
「ついさっき振られましたけどね」
弱々しく呟いた。ふうと息を吐いて生ビールのおかわりを注文している。僕は少し混乱していた。
「お父さんが悲しむなら誰とも付き合えないって泣かれましたから」
須山は僕を見つめ直して力なく笑う。
ちがうんだよ、律香。僕は少し驚いただけなんだ。
帰らない父を案じて律香は僕の行きつけの店を順にあたっていたそうだ。彼女を心配した須山はこうして深大寺を訪ねてきた。
「もしも僕なら行きたくなるかもと思いまして。奥さんとの思い出の場所ですよね? 深大寺は」
僕は黙ってジョッキを傾ける。胸中を見透かされたようで気恥ずかしかった。
君を亡くして十五年が経つ。僕は彼女を守っているつもりで、実は彼女に救われていた。
あの頃の僕は自分をこの世で一番不幸な男だと信じていた。眠りにつくと君は隣にいるのに、慌てて飛び起きると霧のように消えてしまう。それを繰り返すうちに眠るのが怖いのか目覚めるのが怖いのか分からなくなった。涙は枯れることを許さなかった。誰の耳にも届かない僕の断末魔。ひっそりと。でも、けたたましく。
背中をぎゅっと握る小さな手が、かろうじて僕を繋ぎ止めていた。7歳になったばかりの愛娘は僕を存分に困らせた。毎朝のようにランドセルのカバーが気に食わないと口を尖らせた。お泊り会では真夜中にぐずり出し、僕が駆けつけるまで延々と泣き続けた。
服を着せて、お風呂に入れて、並んで床につく。慣れない育児に奔走しているうちに僕は悲しむことを忘れていた。
「やまとなでしこっていうんですか? 彼女ぴったりですよね。清楚でおしとやかで」
須山は目を細めた。頬に赤みが差しているのは酒のせいだけではないだろう。
おてんばだった娘が小学校を卒業するころ、急にしおらしくなったのを思い出した。おそらく僕に負担をかけたくなかったのだろう。
中学に上がると料理も上手になっていた。高校も地元の県立を選び、大学も家の近所に通った。担任は「娘さんなら更に上を狙える学力があるんですけどね」と首を捻っていた。
いま思えば、できるだけ僕のそばにいるためだろう。それだけ幼い日に見た父の背中が弱々しく映ったにちがいない。
贔屓目を抜きにしても美しく成長した年頃の娘がクリスマスイヴも大晦日も毎年のように父と過ごす姿は周囲から奇異に映っていたかもしれない。
君の代わりをしてくれていたのだろうか。
「きっちり振られましたから、どうか帰ってあげてください。それだけお願いに来ました」
須山は頭を下げた。僕は今夜の失態を言い訳しつつ、ありがとうと加えた。
安堵した須山はヤケ酒を急ピッチで再開した。きっと彼は気づいていないだろう。彼女もまた須山と同じ気持ちでいることを、僕が最後に付け加えた「ありがとう」の真意を。
思い返すと、ここ1年ぐらいの律香は楽しそうだった。服を選ぶ時間が長くなった。化粧が丁寧になった。よく笑うようになった。きっと須山のおかげだ。
僕は酔いつぶれている彼のスーツに絵馬を滑り込ませた。律香に渡すつもりで深大寺に着いてすぐに選んだものだ。いつかの君と僕も二人の未来を願いながら綴った絵馬。
寝息をたてはじめた須山をタクシーに押し込む。走りだした夜の景色に君の横顔を探した。あなた、泣きそうよ。そんなふうに笑われている気がした。
すっかり大きくなった娘が僕のために泣いてくれた。もう、それだけで十分だった。僕らの娘は君に似て優しい。
「お父さんのおかげですよ」
須山の声にぎょっとする。隣ですやすや眠っている。「大きな寝言だ」と運転手が笑った。
そういえば我が家に人が泊まるのは何年ぶりだっただろう? 娘は最愛の人が泥酔している姿をどう迎えるのだろう? 想像して僕は笑った。
あの日の君も笑っている。まだ幼い律香が僕の腰にまとわりついて離れない。君はクスクス笑いながら「いつか、この子が彼氏を連れてきたらどうしましょう?」と囁いた。満ち足りた気持ちに水を差された僕は少しだけ不機嫌になった。そんなの、ずっと先の話だろう。
ずっと、ずっと。
谷 真崇(埼玉県蕨市/36歳/男性/会社員)