【第10回公募】「赤い糸」著者:白木真澄
どうして急いでいる時に限って、普段起きないようなことが重なるのだろうか。目覚まし時計を買ってからこの一年間、目覚ましが鳴らなかったことは一度もなかったのに、今朝初めて鳴らなかったし、駅に向かう途中、買ったばかりの靴の底が外れ、家に戻って靴を履き替え、駅まで走って慌てて飛び乗った電車は反対方向に行く電車だった。
おかげで約束の時間の一時間前には着く予定だったのに、三十分も遅刻してしまった。
バスを降りて、走って深大寺の山門をくぐり境内に入るが、それらしき女性の姿は見えなかった。
連絡もせずに三十分も遅れたのだ。怒って帰るのも無理はない。鈴木には申し訳ないと思ったが、これでよかったのかもしれないと、少しだけホッとしたのも事実だった。
大学時代からの親友である鈴木から電話があったのは昨夜遅くのことだった。
「実は明日、取引先の部長からの紹介で女性と会うことになっていたんだ。その部長の先輩のお嬢さんらしいんだけど、いいとこのお嬢さんだけあって男には奥手らしい。それで誰か年頃の男性を紹介してほしいと頼まれて俺が指名されたと言う訳なんだ。部長からは先輩への義理を立てるだけだから、相手を傷つけさえしなければ断っても構わないと言われてるんだ。ところが、明日、今までいくらデートに誘っても応じてくれなかった大本命の女の子がようやくデートしてくれることになったんだ。で、悪いけど、俺の代わりにその女性と会ってほしいんだ。そして、うまい具合に嫌われてほしいんだ。」。
「あまり気乗りしないな。もし、相手の女性が大本命の女の子よりもすごくいい人だったらどうする?案外、赤い糸で結ばれているかもしれないじゃないか。」
僕は鈴木に翻意させようと言ってみた。
「赤い糸なんて言っているから、いつもうまくいかないだよ。頼むよ。こんなことを頼めるのはお前しかいないんだ。」
懇願するように鈴木が言った。
「女性に会うのはともかくとして、どうやって嫌われたらいいんだ?清潔感がなくて、だらしない男が女性に一番嫌われるって週刊誌で読んだことがあるけど・・・。」
「さすがにそれはまずい。そうだな。何かにつけてうんちくを垂れるってのはどうだ?相手が辟易するくらいうんちくを垂れて、自分のペースで物事を進める無神経な男でいこう。
深大寺の山門の前で十一時に会うことになってる。相手の女性の服装は水色のワンピースに白い麦わら帽子だ。こっちはグレイのポロシャツに白いスラックスで行くと言ってる。悪いけど、頼むな。」
鈴木には何度も女の子を紹介してもらっている手前、無下に断るわけにもいかず鈴木の頼みを引き受けたものの、だんだん気が重くなってきて、なかなか寝付けなかった。
せっかくここまで来たのだ。お参りして帰ろう。僕は気を取り直すと、本堂に参拝した。
ふと横を見ると、水色のワンピースに白い麦わら帽子を被った女性がすぐそばに立っているのに気がついた。びっくりするような美人とは言えないまでも、かなりきれいな顔立ちをしている。いいとこのお嬢様だけあって、知的で清楚な雰囲気が漂っていた。
「こんにちは。」
僕は笑顔を作ると女性に挨拶をした。
元々、僕は女性に気軽に声を掛けたりするのが得意じゃない。むしろ、苦手だと言える。これが、僕自身のデートなら、いつものように上がってしまってもじもじしてしまうところだが、嫌われるのが役目だと思うとリラックスして対応できた。
「こんにちは。暑いですね。」
女性が笑顔で挨拶を返した。邪気のまったく感じられない、爽やかな笑顔だった。
「ほんと暑いですね。少し境内を歩きませんか?」
鈴木と昨夜打ち合わせた通り、僕は強引に女性を誘った。
「はい。」
女性は嫌がる素振りも見せず頷いた。
「深大寺は窪地になっているので、冷たい空気が溜まりやすいんです。湧き水と木々の緑の蒸散作用で付近より二度近く気温が低いんですよ。」
僕は歩きながら、昨夜ネットで調べた知識を披露した。
「ここが深沙大王堂です。玄奘三蔵が天竺に行く途中に、砂漠で飲み水がなくなって困っているところを深沙大王が救ったと言われています。縁結びの神様ともされているんですよ。」
深沙大王堂の前で、深沙大王について昨夜仕入れた情報を説明した。
「右手に行くと神代植物公園があるんですが、
バラ園がきれいですよ。行ってみましょう。」
僕は女性の意向を確かめもせず、神代植物公園へと歩を進めた。
「ここは都立唯一の植物園で、四千五百種、十万本の植物があるんですよ。」
僕はネットで調べた情報を次から次へと繰り出した。
彼女は僕の過剰とも思える説明に嫌そうな顔も見せず、にこやかに笑って頷いていた。男性が喋っている時には反論せずに黙って聞くようにと言われて育ったのかもしれない。
ふと、腕時計に目を落とすと午後二時を回っていた。喋ることに夢中だったが、さすがにお腹が減った。彼女もお腹が減っただろう。
「そばを食べませんか?深大寺そばって有名なんですよ。」
「ぜひ。一度、食べてみたかったんです。」
目を輝かせて彼女が言った。
「二八そばもうまいですが、九割がお勧めです。」
僕は食べたこともないのに、昨夜読んだブログでお勧めの九割そばを彼女に勧めてみた。
「じゃあ、それでお願いします。植物のこととか、おそばとかいろいろお詳しいんですね。」
彼女が感心したように言った。
「いえ、それほどでもないです。」
言いながら、気恥ずかしさを覚えた。
おいしそうにもりそばを食べる彼女を前に、いくら嫌われるためとは言え、一方的に振り回しているようで、彼女に対して申し訳なさを感じていた。彼女とはまだ数時間しか一緒にいないが、それでも彼女の人柄の良さはよくわかる。鈴木の大本命の彼女がどんな女性かは知らないが、今、僕の目の前にいる女性が、滅多に出会うことのできない素晴らしい女性であることは疑いようがない。鈴木は大きな間違いを犯したのかもしれなかった。
スラックスのポケットに入れておいた携帯電話が振動している。無視していたが、何度も振動する。
「すみません。ちょっと急用みたいです。」
僕は携帯電話を彼女に掲げてみせると席を外した。鈴木からだった。うまくいっているか、気になっているのだろう。
「ごめん。連絡しようと思ったんだけど、こっちもいろいろあって。今、どこにいる?」
「深大寺そばを食べてるよ。」
「そうだよな。せっかくそこまで行ったんだから、そばくらい食べないとな。今度、食事奢るよ。相手の都合が急に悪くなったらしくて。連絡が遅くなってすまん。」
鈴木が謝った。
「都合が悪くなった?」
「ああ。それで今日はそっちに行けなくなったらしい。また、電話するよ。じゃあ。」
それじゃあ、今、そばを食べている女性は誰なんだ?鈴木の相手じゃないのか?僕は携帯電話を握りしめたまま、しばらくの間、動けなかった。
「すみません。たいした用事じゃなかったみたいです。」
僕は席に戻ると、おずおずと言った。
「急用じゃなくてよかったですね。」
笑顔で彼女が言った。
「ええ。」
何か話さなくてはいけないと思うものの、言葉が続かない。
「亡くなった祖母からいつも言われていたんです。深大寺さんにお参りするといいことがあるよって。でも、なかなかお参りする機会がなくて。
今日が祖母の命日だったんです。祖母のお墓参りの帰りに深大寺さんまで脚を伸ばしたおかげで、いろいろ案内してもらって、祖母が好きだった深大寺そばまで食べることができました。ありがとうございました。」
頭を下げて彼女が言った。
「こちらこそ。ご一緒できて楽しかったです。」
気の利いた言葉のひとつでも言おうと思うのだが、焦れば焦るほど何も思い浮かばない。喉がすごく渇く。
「こうやってお会いできたのも、何かのご縁のような気がしますね。」
僕の顔を覗き込むように、彼女が言った。
「ええ、僕もそう思います。赤い糸で繋がっているのかもしれませんね。」
言って、顔が赤くなった。
「私もそう思います。また、お会いできますか?」
にこやかに彼女が言った。
「ぜひ、お願いします。」
クールに決めたかったが、声は完全に裏返っていた。
白木 真澄(福岡県北九州市/56歳/男性/会社員)