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【第10回】「ラッキーカラーは赤」著者:九頭院毬枝

 ラッキーカラーは赤というから交差点で赤信号を待って渡った。行き先を決めずに信号の赴くままに進むのが私の流儀なので、今日はその逆をやってみているということになるのだろう。
 外を走るのはやっぱり気分がいい。第一歩を踏み出した時の高揚感。私はこのまま何処にでも行けるのだと思うと、何でも出来そうな気がしてくる。信号だけが私の道先案内人。今日は何処へ連れて行ってくれるのだろう。
 いつもはノンストップで走り抜ける信号で立ち止まると、普段は見えなかった景色が見えてくる。買い物籠を持ったお婆ちゃんに、自転車に乗った学生さん。ベビーカーを押すお母さんに、日傘を差した女性。普段交わらない色んな人達が混ざり合う交差点。私はどんな風に見えているのだろう。まだダイエットのために走っている人に見えるのだろうか? 赤いランニングウェアは持ってなかったけど、靴は赤を選んだ。赤が映えるように上下は白系。そこまで派手ではないと思う。
 青梅街道には入らずに、千川上水の脇を走ることにした。道を挟んで中央に緑があって楽しい。吉祥寺通りで赤信号に止められたから、今日はそのまま直進。三鷹通りは青信号だったから、赤信号を待って左折した。いつもとは違う何処かへと向かって行く期待感に、何かが起こりそうな気がした。

 そもそも、私はこんな風に走ったりするような人間ではなかった。それどころか、小柄な癖に小太りな体型をしていた。自分に自信もなかったから、なんとなく眼鏡を掛けていた。そんな私にも、憧れの上司が居た。その人は別に人目を惹く容姿をしている訳でもないし、そんなに若くもないのだけど、私に声を掛けてくれた。なんとなく会話ができた。
ある日、行きつけの占いサイトで、その人との相性を占った。結果は微妙だった。名前を平仮名にしたり片仮名にしたり、空白を開けてみたりしたけど、良い結果は出ない。何気なく、その人の名前でインターネットを検索していた。変わった名前だったし、何も出て来ないだろうと思った。以前、自分の名前を入れても何もヒットしなかったからだ。ところが、検索結果八十四件。それも、ほとんど全て、マラソン大会のサイトだった。え、嘘、と思った。こう言ってはなんだけど、とてもマラソンなんて出来るような人には見えなかったから。きっと同年代の同姓同名の別人だろうと思った。それでも尋ねていた。
「あの、部長って四十一才でしたっけ?」
「ああそうだよ」
 そんなストレート過ぎる質問に、部長はあっさりと答えてくれた。
サイトに載っていた年齢とぴったり同じだ。マラソンをやっているのか直接聞けばいいのに、何故か言えなかった。
会社の飲み会の席で、たまたま部長の隣になった。
「勿体ないな」
 部長は酔っていた。
「何がですか?」
 ビールを二杯飲んだだけだったけど、確実に酔っていた。
「絶対見栄えするのにと思って」
「え?」
 不意に、居酒屋の喧噪が聞こえなくなった。私の耳には部長の声しか届かない。部長、何の冗談ですか? ビールたったの二杯ですよね? そういう私はビールを一杯飲んだだけだったけど、耳朶まで真っ赤だったと思う。
「君もランニングを初めてみないか?」
言われたことを反芻してみる。私は別に酔っていなかったから、部長が何を言っているのか分かった。
 翌日、さっそくスポーツ用具店に買い物に出かけた。靴とランニングウェアとパンツを買った。どう走ったらいいかも分からなかったので、ランニング雑誌も買った。その日の夜から走った。夜なら誰にも見られなくて済むと思ったからだ。十五分も走らないうちに、動悸が激しくなり、息が乱れ、苦しくなった。帰りは歩いて帰った。もうやめようと思った。でも、翌日の夜も、同じように走っていた。今度は時間を計って、昨日走った十五分の半分、八分で行けるところまで行って、引き返した。家に戻ると、玄関に倒れ込んだ。そんな風に、毎日走り続けた。
我ながらよく続いたと思う。これまで何かの努力なんてしたこともなかったし、一生そういうのとは無縁だろうと思っていた。
気がつけば、体重は十五キロも減っていた。それだけ減ると自分でも分かる。見た目もさることながら、日常の何気ない所作にまで影響が出る。引っ込み思案な性格は相変わらずだったけれど、何かを頼まれれば、きびきびとした動きで対応することが出来た。
「スリムになったよな」「腰が軽くなった」「恋人でも出来た?」
 主に男性社員の評判が良かった。女性社員からは特に何もなかったけれど、正直どうでも良かった。でも、肝心の部長はもう長いこと出張に出ていた。思えば、部長が戻ってきたらびっくりさせよう。そう思って、この数ヶ月頑張ってこられたのだと思う。
 部長が出張から戻ってきた。私は部長と外回りの仕事に出ることになった。
「ちょっと寄って良い?」
 と部長が言うので、何が良いのかよく分からなかったけど、私は、いいですよと言った。
 そこは大きな木のたくさんあるお寺だった。なんというか東京にこんな場所があるのかと驚いた。木に遮られ夏の日差しが柔らかく、蝉の声が聞こえた。人がちらほら居たけど、私の心臓は高鳴っていた。どうして部長はこんなところに寄ったのだろう。今の私を見てどう思ったのだろう。そんなことを気にしながら。本殿へと向かった。賽銭箱にお金を入れ、部長は手を合わせた。私もそれに倣った。
「行こうか」
 部長は笑った。その額には汗が滲んでいた。
 参道を歩く間、私達の間に会話はなかった。友達でも恋人でもなく、会社同士の付き合いなのだから、会話がなくても不自然ではない。それだけに、悲しかった。
「何でもね」
 と部長は言った。
「え?」
「ここって恋愛祈願の寺としても有名らしいんだよ」
「そうだったんですか?」
 部長の言葉の真意を探ろうとする。
「ついでに寄ってみたんだ。悪かったね」
「いえ」
 と答え、私は消えてしまいたいくらいの失意を覚えた。悪かったね、という言葉を脳内で反芻しながら、どうして、部長の隣に居るのだろうと思った。
「それにしても君、見違えたよ。うん、悪くないよ」
 そう言われ、何故だか涙が出てきた。
 その後すぐに、部長は結婚した。

 三鷹駅を通り抜け、私は更に南下していた。今まで来たこともない道だった。既に何処を走っているのか、分からなくなっていたけれど、信号に導かれるままに走った。太陽は高く、とても眩しかった。
高い木が見えてきた。成蹊大学の辺りかとも思ったけれど、もう三鷹駅を通り過ぎている。刹那、心臓がとくんと脈打った。予感めいたものを覚えながら、小学校の横道を抜けて最後の信号を渡った。そこは大きな公園だった。私は立ち止まり、周囲に視線を巡らせると、道案内の看板を見つけた。
“深大寺”
道案内の矢印に従って進むと、すぐに参道が表れた。高い木に、蝉の声。私はその道をゆっくりと歩く。そうあの時と同じように。
ふと、私の脳裏に一年前の光景がまざまざと蘇る。ほろ苦いだけだった夏の思い出。そうか、部長と訪れたのは深大寺だったのか。蝉の声に導かれながら、私は本殿に向かった。
そこは一年前と全く変わりはなかった。変わってしまったことと言えば、部長は結婚し、私はランニングウェアに身を包み、一人でやって来ているということ。私は賽銭箱の方には近寄りもせず、手足を伸ばしながら、場違いな空気を纏わせていた。ふとその時、階段の向こうから赤いランニングウェアを着たランナーが本殿に登ってきた。部長、と思ったけれど、違った。珍しい女性ランナーだ。その人は本殿に着くと、私と同じようにストレッチをしだした。おそらく、ここを一応のゴール、折り返し地点と定めて来たのだろう。女性ランナーは私に気がつくと軽く会釈してきた。ランナー同士の軽いコミュニケーションだった。私は会釈を返しながら、その時には既に、その女性に何かを感じた。
今日のラッキーカラーは赤。
 まさか、と思った。それとも、そうか、と思ったのかも知れない。兎も角、今日のラッキーカラーは赤。青信号を気の向くままに進むのが私の流儀だとするなら、今日はいつもとは逆の赤。私は赤いランニングウェアを着た女性の前まで進むと、赤信号を待つときのように立ち止まった。女性は私を見上げると、明るい笑顔で言った。
「今日は」
 汗が輝き、顔が紅潮している。真っ赤な頬。ラッキーカラーの赤。若く可愛らしい女性だ。
「今日は」
 と私は返した。その時には、互いに互いの運命を感じていたような気がする。
 一年後、私たちは結婚した。恋愛祈願で有名と聞かされたこの場所で、一度は恋に破れた。そして、同じ場所で、私のような者でも普通の女性と結ばれることができた。
 ここには何かあると思う。

九頭院 毬枝(東京都練馬区)

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