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【第10回】「絵馬のみぞ知る」著者:有明月子

 朝7時。雨のしとしと降る早朝の深大寺で、マスクをして丸メガネをかけ、あたりを気にしながら、観光客を装う30代は私だけだ。
 この水原環、30年生きてきてこんなにスリリングな気持ちになったことはほぼない。急がなければ。この辺は8時近くになると通学の小学生たちがこの趣ある蕎麦屋が並ぶ界隈を抜けていく。ここで働いていた4ヶ月前にはまさかこんなことになろうとは思っていなかった。
 雨はいつしか霧雨となり、深大寺の新緑は白い空に照らされて黄緑色に変わっている。  ふと腕時計を見ると、もう7時20分。深沙堂へ急げ。小学生に見られてなるものか。大黒天を抜けて、少し早歩きになる。深沙堂が見えてきた。黄緑色がもっさりと乗っかったその堂は、立て札を見なければわからないほどあっさりしている。縁結びの神様というのはたいてい、お堂の周りにハートのモチーフだとかピンク色の旗だとか、丸文字で書かれた『縁結び』の看板とかついているものではないか。深大寺の深沙堂は「そんなもの興味ないもんね」といったようにたたずんでいる。私は堂の横に申し訳ばかりに立てられている絵馬用の看板に向かう。
 「鈴木くんと結婚して子どもが授かれますように」「木村くんとずっと一緒にいられますように」「片想いが終わって田中くんが私のことを好きになってくれますように」などと書かれた絵馬がちょうどよい程度にぶら下がっている。私は傘を開いたまま置いて、絵馬を探し始めた。3月に書いたあの絵馬を。
 「はい。それでは自己紹介させていただきます。水原環です。この『深大寺冬の花緑祭』のディレクターをさせていただきます。アルバイトのみなさん、会期中はよろしくお願いします」
 私はアルバイトの子たちを見渡した。みんな大学生といったところか。若いな。深大寺の魅力をアピールしようと行われることになった深大寺・冬の花緑祭の担当になったのはいいが、冬の深大寺で花とか緑とかどうしろと言うのだろう。企画の意図がよくわからないが、予算がおり、仕事がある。景気のいいことじゃないか。
「蒼井航平です。22歳です。普段はイラストレーターをしています。花や緑のことはよくわかりませんが、絵を描くことは好きです」
 蒼井航平と名乗った青年は色白でひょろりとしているが、イラストを描くだけあって色彩のセンスが良く、清潔感のある服装をしている。いい子かもしれない。
 私が人を見る目がほとほとない人間だということは、その後すぐにわかった。蒼井航平は基本的には真面目なのだが、目を離すとすぐに絵を描いてしまう。会場ではインカムという無線のようなものをつけて各自が持ち場についている。「〜さんとれますか?」と聞いて用件を話すことになっているのだが、「蒼井さん、とれますか?」と聞いて答えが返ってくる割合はだいたい50パーセント。何をしているのか、と見に行くと、だいたい絵を描いている。堂々とした樹を手前に構図をとって、お堂を奥に描いている。またあるときには、お客様の子どもさんと一緒に絵を描いていることもあった。そんなとき、ディレクターの私がお客様に謝罪をする役目なのだが、たいていお客様には「子どもも喜んでいるし、今日この花緑祭に来てよかった」と逆に誉められるのである。
「そんなに絵を描くのが好きなの?」
 私は蒼井航平に聞いた。
「好きっていうのは、どうかわかりませんよ。ただの暇つぶしなのかもしれない。僕の場合はそれが絵だったというだけで」
 蒼井航平はシシシ、と笑った。この子は賢いのか何なのかわからない。
 会場ではいろいろなハプニングがある。「危ない虫が出たので対応お願いします」だとか、「迷子がいます」とか、「花をむしっているお客様がいます」とか。そんなときにも私は飛んで行ってお客様に「お花は自然のままにしていただけませんか」と頼んだり、危ない虫とやらを自ら捕獲したり、大泣きする迷子をあやしたり、落とし物を探したり。
 そんなある日、蒼井からインカムが入った。
「水原さん、とれますか。蒼井です。歩きたばこのお客様がいらっしゃいます。お子さんも近くを歩いているのでご遠慮いただく予定です」
「蒼井さん、とれますか。対応ありがとうございます。私もそちらへ向かいます」
 現場へ向かうと、強面の男性の前で謝っている蒼井航平が見えた。
「お客様。ディレクターの水原です。大変申し訳ありませんがご協力いただけると嬉しいです」
 私は深々と頭を下げた。
「けっ、女に言われたくねえな」
 男性は吐き捨てるように言い、タバコの吸い殻を私に投げつけた。頭を下げたまましばらく震えが止まらなかった。
「女なんかに生まれなきゃよかった。もう女なんか絶滅したい」
 タバコの吸い殻を払いながら言う。
「僕は女性に絶滅してもらっては困ります。女性の描く絵が、世界が、好きです」
 蒼井航平は真面目にそう言った。私は黄緑色の背景に蒼井航平の紺色のカーディガンが反射しているのをただただ見ていた。
 深大寺の自然にはかなり癒され、毎日忙しいながらも全てがうまくいっていた。たった一つの問題を除いては。その問題の解決に乗り出したのは、大成功のうちに終わった深大寺花緑祭の後だった。私は蒼井航平にメールした。「重大な問題が発生したので、今すぐ解決したい」と。その数時間後、私と蒼井航平はチェーンのカフェに向かい合って座っていた。
「で、その問題というのは、、、」
 蒼井航平はお金がないらしく、コーヒーではなく水を飲んでいる。私は手元の水をぐいっと飲んで、言った。
「その、問題というのは、どうやら蒼井くんのことを、好きになってしまったらしくて」
 蒼井航平はコップを持ったまま固まった。
「困りますよね。私も困ります」
 私は、蒼井航平という人間のどこが気に入ったのかわからない、と続けた。
「はっきり言ってしまうと、その気持ちには応えられません」
 蒼井航平は文字通りはっきりと言った。
「そりゃそうですよね。おかしいですよね」
「歳の問題じゃありません。そんなことは関係ない。僕には好きな人がいます。その人のことが本当に好きです」
 「好きです」の響きのあまりの破壊力にその場に倒れ込みそうになった。そして、ふと我に返り、その4文字が私に向けられたものでないことを認識したときにはかなり重傷を負っていた。高校生か、私は。こんなときにも自分で自分にツッコミを入れられるようになったのは大人になったからだろうか。
「で、これ、どうしたらいいんでしょう」
 私は手を口元にあて考え込んでいる蒼井航平に聞いた。しばらくして蒼井航平は言った。
「やめましょう。会うのも連絡するのも」
 私は蒼井航平にふられた。その後も連絡を試みたが、全て無視された。優しい蒼井航平が希望を持たせないために敢えて私を無視しているであろうことも私の恋心を増大させた。傷心の私は毎日、ネットにアップされている蒼井航平の絵を見た。そして、気づいた。彼の絵にはいつも雪が降っていることに。深大寺花緑祭の会期中には雪は降らなかったはずだ。どうしていつも彼の絵には雪が降っているのか。彼のこれまでの絵を辿っているうちに一枚の絵に辿り着いた。「雪子」と題されたその絵には、赤いマフラーを巻いた女の子が描かれている。セーラー服を着たその女の子は肩までの茶色がかった柔らかそうな髪をマフラーに入れ、クロッキー帳を持っている。おそらく高校の同級生だろう。私は直感した。彼女だ、蒼井航平の憧れの君は。もう高校を卒業してから4年は経っているだろう。それなのに、今も雪降る風景を描き続けている蒼井航平はバカだ。本当にバカだ。
 そして、昨日、私は深大寺行きのバスに乗った。バス停に降り立つと、古びた蕎麦屋の提灯が見える。花緑祭が懐かしい。まずは、開山堂へ向かう。堂の中を覗き込み、満功上人様に語りかけた。「蒼井航平が早くイラストレーターとして名をあげられますように。カフェでコーヒーくらい飲めますように」。
 上人様は少し呆れた表情をしたが、「うむ」と言った。お願いします、と強く祈り、深沙堂へ向かう。手には縁結びの絵馬。まさか私がここに絵馬をくくりつけることになろうとは思わなかった。
 その昨日くくりつけた絵馬を今日早速、血眼になって探している。蒼井航平が昨日の深夜にTwitterで「5月ですね。新緑の季節になりました。今日、深大寺にクロッキーに行きます」とつぶやいているのを見てしまったからだ。まずい。非常にまずい。絵馬を見られては困る。取り外すことはできないが、後ろのほうに隠すことはできるだろう。それで始発に飛び乗り、今ここにいる。他人の願いが詰まった絵馬を触ってしまうのは申し訳ないが致し方ない。のっぴきならない事情があるのです、と言い訳をしながら自分の絵馬を探す。あった。
 「蒼井航平が雪子ちゃんと再会してうまくいきますように。水原環」
 その絵馬を奥のほうに隠してから、私は新しい絵馬を取り出して、油性のペンでキュッキュッと願い事を書き始めた。そして、その絵馬をさらに奥にくくりつけた。
 「蒼井航平のことを想うのが今日で最後になりますように。水原環」

有明 月子(東京都港区/33歳/女性/非常勤講師)

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