【第10回】「ほしまつり」著者:竹村沙世
月曜日なのに早起きをしなくていい、というのはだいぶ久しぶりだった。瑞希は布団からはい出ながら、大学に入ってからの四か月を思い返して溜め息をついた。
新しい環境に慣れるだけで終わってしまった四月、サークルの“新入生歓迎合宿”でゴールデンウィークが丸々つぶれた五月、ようやく落ち着いたと思ったら、新人戦の応援やらら高校の同窓会やらで結局ゆっくりできなかった六月、試験に追われて足早に過ぎ去ってしまった七月。
おとといの土曜日からやっと夏休みに入ったお陰で月曜から朝寝坊ができるのだが、高校までの間、大学生に対して抱いていたイメージとは何かが違う、と瑞希は思う。なんというか、大学生はもっと自由で自立しているものだと思っていた。確かに、実家暮らしで両親に生活の一切の面倒を見てもらっていては自立のしようもないかもしれないが。とはいっても、今日のように、父が出張、母が大学の同級会で、家を空けているときに家事をこなすことくらいはできるのだが。
自由、といえば確かに大学生になって自由になることは多くなったかもしれない。制服も校則もない、受けたくもないのに受けなければいけない授業もない。部活やサークルの選択肢も多い。けれど、何かが自由じゃない、と思う。
「なんなんだろう・・・・・・」
Tシャツの袖に腕を通しながら瑞希は呟いた。丸襟から顔をだして、扇風機をつける。さっきまで扇風機なしでも寝ていたはずなのに、起きたとなると暑くてたまらない。枕元のうちわでパタパタとあおぎながら、瑞希はテレビのコンセントを入れた。リモコンを手に取ってチャンネルを回すと、涼しげな木立が映る。見覚えがある、と瑞希がテレビ画面をまじまじと見ると、右上に“調布市・深大寺”と表示が出た。確かに瑞希の家の近くだ。女性アナウンサーの声がそれに続く。
「旧暦で七夕にあたる今日、八月二日ですが、縁結びの寺としても知られるこちらの深大寺には参拝客が訪れています」
七夕。最後に短冊に願いごとを書いて、笹に結びつけたのはいつのことだっただろう。たぶん小学校の低学年のころだろうと瑞希は思った。
深大寺については、小学生のときに何度か家族でそばを食べに行ったのと、中学二年生の元日に友達みんなで除夜の鐘をつきに行った記憶はあるが、それ以来、ご無沙汰している。久しぶりに深大寺に行こう、と瑞希は唐突に思った。
日焼け止めと虫除けを腕と脚にスプレーし、寝起きに着替えたTシャツと短パンのまま、瑞希は玄関のドアを開けた。自分の赤い自転車をだし、前かごにケータイと財布と玄関の鍵をいれたバッグを放り込む。サドルに腰掛けて、左足で地面を蹴った。浮いた右のペダルを踏みつけるようにしてこぎはじめる。最寄駅まで自転車で行って、そこから深大寺に行くバスに乗るつもりだった。
瑞希の家の前の道を左に曲がると、緩やかな下り坂になっている。ゆっくりとペダルをこぎながら、瑞希は頬にあたる風を感じた。もう十一時をまわっているから、爽快な風、とはいかないが、この感覚はだいぶ久しぶりだった。しゃれた洋服を着ることが多くなったので、大学生になってから通学に自転車を使っていないからだ。道にのびた木の陰の下を通りぬけて息をついた。家を出て十分もたたないが、照りつける日差しに、背中を汗がつたいはじめる。
瑞希の家から最寄り駅までは近い。駅前の自転車置き場で自転車に鍵をかける。鍵をバッグの内ポケットに入れながら、瑞希は懐かしさが自分を襲うのを感じた。青いエナメルバックに第一ボタンを開けた学ランが目に浮かぶ。この場所で再会した、岸野を思い出したのだった。
岸野は瑞希の中学の同級生だ。二年のときにクラスが一緒で、割とよく話していたが、高校が別で、卒業と同時に縁が切れた。中学校の同窓会は卒業のときのクラスごとに開かれるので、そのままもう会うこともないだろうと思っていたが、高三の六月にこの場所で再会したのだ。
髪を少し伸ばしていたが、ほとんど中学生のときと変わっていなかったため、瑞希はすぐに岸野に気がついた。自転車をとめながら声をかけるか迷ったが、出口のところで追いついたので、声をかけてみた。
「岸野、だよね?」
「お、戸田じゃん。久しぶり」
振り返った岸野は軽く片手をあげて笑った。戸田は瑞希の名字である。
駅から深大寺へのバスはバス停で待たされることもなくすぐに来た。乗り込むと、運転手さんのすぐ後ろの席に座る。周りよりも高くなっているこの席が瑞希は昔から好きだ。バスに揺られながら、岸野と話したことを思い出す。
何部に入っているのか、理系か文系か、中学の同級生がいまどうしているか。大抵は、そんな誰とでもできるような話だった。
志望校の話が出たのは、夏休みが明けてすぐだった。通勤電車の中で、岸野が瑞希に尋ねた。
「戸田ってさ、もう志望校決まってる?」
瑞希は岸野が自分に志望校を尋ねた意図を察しかね、答えあぐねたあと、短く聞き返した。
「岸野は?」
岸野は虚を突かれたようだったが、とある地方の大学の名前を挙げた。
「私も」
瑞希は思わずそう呟いていた。岸野が瑞希に告げた大学は、瑞希の志望校でもあった。
「え?」
聞き返した岸野に、瑞希は言った。
「私も、あの大学、行きたいの」
バスのアナウンスが深大寺が近づいてきたことを知らせる。瑞希はブザーを押した。次、停まります、と機械的な声がして、赤信号にバスが停止した。運転席越しに前方の様子をうかがうと渋滞気味で、深大寺のバス停に着くのはもう少し先になりそうだ、と瑞希は思った。
岸野は元気にしているだろうか、と今でも毎日のように瑞希は思う。そして元気にしているだろう、と自分で勝手に答えをつける。三月に、岸野と瑞希の道は分かたれてしまった。岸野は志望校に受かり、瑞希は落ちたからだ。岸野は一人暮らしをはじめ、瑞希は実家から第二志望だった大学に通っている。第二志望といっても偏差値は第一志望よりも高いくらいで、親は瑞希に下宿をさせずに済んで嬉しがった。受験前に学校がなくなり、会わなくなってメールをするようになっていた岸野にも、そっちの方がすごいじゃん、といわれたが、そういう問題じゃない、と瑞希は思う。岸野には、そんなことないけど、でもありがとう、と返信してそれからメールしていない。大学生活の楽しそうな写真を見るのも気が向かず、岸野のフェイスブックにもアクセスしていなかった。
バスが今度こそバス停に停まり、瑞希はバスのタラップから降りた。それと同時に、また蒸し暑さが襲ってくる。アスファルトの照り返しから逃げ込むように、境内に入った。木々のせいか、落ちついた雰囲気のせいか、だいぶ涼しく感じられる。
瑞希は、ふと後ろに誰か佇んでいる気がして、振り返った。でも、そこには誰もいない。一緒に笑いあえる人は誰も。岸野はまだ帰京すらしていないだろう。いるわけがなかった。つきあっていたわけでもないのに、そんな風に思うのはおかしいけれど、七夕で巡り逢えるのはやっぱり伝説の中の織姫と彦星だけなのだ、と瑞希は思う。
うつむいたまま本堂までゆっくりと歩いて、木のどっしりとしたお堂に手を合わせた。特に何を願うわけではないけれど、威容に自然と頭が下がる。ふと顔を上げると、隣にはおじいさんとおばあさんが脱いだ帽子を手に、参拝していていた。お堂にもう一礼して、踵を返す。
参道をひきかえしながら、瑞希は思う。今、何かが自由じゃない、と感じてしまうのは、楽しむことを強要されている気がするからかもしれない。部活も行事も楽しむのが当り前、自由にしていることを楽しむのが当り前。周りは皆、今が一番楽しい、みたいな顔をしている。
でもきっと、本当は楽しむのが当り前なのだ。受験も終わって、大学生にせっかくなれたのだから。瑞希自身が第一志望に行かれなかったことにこだわって、なんとなく醒めたような気持ちでいるから、楽しむことを強要されているように感じてしまうだけで。楽しくないわけではないのに。
「そっか」
瑞希は呟いた。そして、そろそろ卒業しよう、と思った。落ちたことにこだわる自分からも、大学生活を満喫できない自分からも、岸野からも。忘れられなくても、思い出として胸にしまって、新しい恋もしよう。
受験が終わった二月から、もう半年も経ったのだ。あのとき塾の帰りに見上げた夜空の星々は、見えないけれど、今瑞希が見ている真昼の青空の中にあるはずだった。
また地球が太陽のまわりを半周めぐって冬が来たら、この青空にある星がもう一度夜空に輝くときがくる。頬を刺すような寒さに白い息をはきながら、綺麗な空が見たいと瑞希は思った。
竹村 沙世(東京都)