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【第10回】「春の慕情」著者:石田隆

調布駅を降り、天神通りを進むと大寒桜が目に入った。暫く見ないうちに随分と立派に育った木は、すでに花を散らした後だった。子どもの頃に見た満開の桜の姿を頭に浮かべると、少しずつ昔の思い出や土地勘が蘇ってきた。何だか妙になつかしさが高まり成美はこのまま深大寺に立ち寄ることにした。
心地良い陽気に誘われてか深大寺は参拝客で賑わっていた。その傍らには多くの僧侶たちが色とりどりの僧衣を着てお経を唱えている。境内は花で着飾れ、艶やかな着物を着た女性の姿も多く見られた。長い距離を歩いたせいか、喉が渇いたところに都合よく参拝客にお茶がふるまわれていたので、列に並んで順番を待った。黄褐色をしたお茶は見ただけで、いつもの緑茶と違うことはすぐにわかった。一口飲んでみると、ほのかな甘みが口の中に広がり、乾いた喉を癒しながら体の中へしみ込んでいった。喉が渇いていたせいだろうか、一口目では感じなかったが、二口目を口にした時、懐かしい味であることに気がついた。
その時、僧侶の1人がこちらを窺っているのが見てとれた。すると僧侶はゆっくりと近づき、成美の前に立った。禿頭に恰幅の良いその僧侶に成美は見覚えはなかった。
「甘茶の味、懐かしかっただろ成美」
僧侶に名前を呼ばれても暫く誰だか思い出せなかったが、薄ら笑ったその目元を見て思い出した。
「もしかして拓哉」
「ああ。久しぶりだな」
「かれこれ15年振りかしら」
里崎成美はかつて小学生まで東町で暮らしていた。母は成美が6歳の時、不慮の事故で他界し、それ以来父が男手ひとつで成美を育てた。そして父の転勤に伴い二人は深大寺を離れ、大阪で暮らすこととなった。拓哉こと、大崎拓哉はかつて成美が深大寺に住んでいた頃の幼馴染である。
「暫く見ないうちに随分綺麗になったな」
「そんなに茶化さないでよ」
「別に茶化してなんかないよ。ところで今
日は、大阪からここにきたのかい」
「ううん。実は会社の転勤で上京したのよ。
この4月から下北沢に住んでるわ。何だか昔住んでいた深大寺が懐かしくなって足が向いてしまったの」
「そうだったのか。でもわかるよ。深大寺
は本当にいいところだからな」
成美と拓哉はそれから暫く、子どもの頃の思い出を一つひとつ掘り起しては、大切に噛みしめるように話を続けた。二人の会話は深大寺の澄みきった青い空の下、途切れることはなかった。
どのくらいの時間が経っただろうか。これまで夢中になって話していた成美の表情が、拓哉の一言でどことなく硬くなったように見えた。
「ところで渡真利さんにはもう会ったかい」
黙ったままの成美に拓哉は続けて話しかけた。
「ほら。和彦さんだよ。子どもの頃、よく
遊んでくれたじゃないか。俺たちのことを弟妹のように可愛がってくれてさ」
「和彦さんか。懐かしいな」
「訪ねてくるといいよ。武蔵境通り沿いで小さい蕎麦屋をやってるから」
「そうなんだ。ちょうどお腹もすいたことだし、いってみようかな」
拓哉と別れた成美は1人和彦のところへ向かった。黒漆喰の重厚な建物の店頭は、あいかわらずの混みようだ。その建物を右折し更に歩を進める。暫く深大寺を離れていたにもかかわらず、子どもの頃の記憶は案外と身体に刻み込まれているようで、ひとりでに足が動く。深大寺通りにさしかかると満開の桜並木が広がった。時折吹く風に揺られ、花びらがひとつまたひとつと宙を舞う。そのひとつが頬をかすめ、ゆっくり足元に落ちていく。成美は足を止め、今しがた落ちた花びらを見つめると、その視線を静かに上へと向けた。満開の桜のわずかな隙間をぬった光が通りの所々を射す。その光景を見て成美は暫く考え込むように動きを止めた。脳裏には幼き頃の思い出が少しずつ蘇っていた。
成美の父は大学教授という仕事柄、日々研究に追われ、拓哉の母もまた女手1つで生計を立てるため夜遅くまで働いた。家にいても1人ぼっちの2人は、ほぼ毎日のように会ってはいっしょに遊んだ。そんな2人に、近所の人もまた温かく接してくれた。渡真利友里もその1人だった。2人の親が安心して働けたのもたぶん彼女のおかげかもしれない。友里は成美と拓哉のことをまるで自分の子どものようにかわいがってくれた。そして友里の息子の和彦も本当の弟妹のように面倒をみてくれた。高校生だった和彦は勉強を教えてくれたり、色々なことで相談にのってくれるなど、2人にとっても実の兄以上に心強い存在となっていった。そんな和彦に成美は少しずつ恋心を抱くようになっていった。6年生にもなると思春期を迎える歳だから、けして不思議なことではないかもしれない。成美は和彦と話すだけで意識するようになっていた。鼓動が早くなり、身体が段々熱くなっていく。自分の気持ちをいい出すこともできず、それどころか感情と裏腹になぜか和彦とは距離をとってしまう自分がいた。でも和彦はそんなことを知ってか知らずか、以前と同じように成美にやさしく接してくれた。そんな和彦の態度が成美にとっては逆につらかった。いっそうのこと冷たく突き放してほしかった。どうにもならないことはわかっているのに、なぜか心の整理がつかず、気持ちの晴れない日が続いた。成美の父もいつもと違う娘の様子を見て、声をかけるが、男親には娘が恋心を抱いていることなど頭の片隅にもなかった。父といい争いになった。これまでに1度たりともそんなことはなかったが、父の言葉の1つひとつがなぜか癇に障った。気がつけば成美は家を飛び出し、夜の街を無我夢中で歩いていた。どこをどう歩いたのか、まったく覚えていなかったが、気がつくとひとり植物公園の自由広場にいた。大きな木の根元に腰掛け、膝を抱えて泣いた。夜空を見上げると、霞んだ先に金色の丸いお月さまが見えた。何だかこっちを見て励ましてくれているように感じた。
どのくらい時間が経っただろうか、ふと見上げると成美の前に人が立っていた。暗くてはっきりと見えなかったが、それが誰かはすぐにわかった。
「やっぱりここにいたね。お父さんが心配しているから帰ろう」
和彦がかけてくれた言葉はいつもと変わらないやさしいものだった。差しのべられた彼の手をしっかりと握り締め、2人家路に向かった。不思議なことに何のためらいもなく、素直な気持ちになれた。
緑溢れる武蔵境通りを歩いていると、いかにも蕎麦屋らしい建物が目にとまった。近くまでいくと入口の横はガラス張りとなっていて、中には多くのサンプルが展示してあった。鴨南蛮のサンプルを横目に、視線を上げると、蕎麦処「和田よし」の屋号が掲げられていた。一呼吸整えて、入口に立つと自動扉が静かに開いて、中からひんやりとした空気が漂ってきた。昼が過ぎたにもかかわらず、店内は結構混んでいる様子だった。2人いる店員の1人が案内にやってきた。近づいてくる途中で見覚えがあることに気づき、軽くおじぎをした。店員もおじぎをかえしてきたが、成美の顔を見て、半信半疑な様子でいたので成美の方から声をかけた。
「おばさま、ご無沙汰しております。以前お世話になった里崎成美です」
友里はすぐに思い出し、懐かしそうな顔で話しかけてくれた。
「久しぶりだね、成美ちゃん。元気で暮らしていたかい」
色々なことを心配して聴いてくれるのは、少しも変わっていなかった。友里の人の好さは昔のままだった。
鳥南蛮を注文して、出てきた蕎麦を口に運こぶと、和風出汁と蕎麦のかおりが鼻から抜けていった。これをつくったのが和彦だと思うと、何だかゆっくりと味わうように食べた。
蕎麦を食べ終える頃になると、店内の客も減ったため、友里が横に座って話をはじめた。その際に、もう一人の店員が和彦の嫁の遙香であることを聞いた。遙香のお腹は少し膨らんでいるように見えたが、あえて聞かなかった。和彦に嫁がいることは普通のこととはわかっていても少しだけブルーになった。自分は今さら何を期待しているのだろうと苦笑した。その時、厨房の中から懐かしい声がした。振り向いてその姿を見ると和彦がそこにいた。容姿はやはり昔のままとはいかないようだが、それは成美を見る和彦も同じことだと思った。
「成美ちゃん、別嬪さんになっちゃつて、すごく見違えちゃったね」
成美と和彦は昔を懐かしみながらたくさん話をした。そこには6年生だった成美ではなく、大人に成長した二人の会話があった。
「成美ちゃん、これからもいつでも遠慮なく寄っていってね」
「はい。そうさせていただきます」
成美は見送りに出てくれた家族に深く一礼して立ち去ろうとしたその刹那、和彦が声を発した。
「僕たちはずっと家族だから、成美ちゃんの幸せをいつも祈っているよ」
そこには、満面の笑みを湛えた和彦の姿があった。そう、成美が家を飛び出し、迎えに来てくれた時と同じ和彦の笑みがあった。おもわず涙が出てきて止まらなかった。でもとてもうれしかった。思い出の詰まった深大寺に帰れる場所ができたのだから。

石田 隆(愛知県清須市/48歳/男性/会社員)

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