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【第10回公募】「右足の理由」著者:志田サラダ

右足の腫れは、だいぶ良くなった。少しだけ足首の辺りが疼くけど、この程度なら心配はいらない。
わたしは、ベッドから足を下ろして、サンダルにつま先だけ通した。携帯電話で時間を確認する。床頭台から手鏡を取り出して、髪を整えた。もう三ヶ月も美容室に行ってない。伸び放題の前髪は、ピンで留め、あとはお母さんにもらったゴムで後ろに束ねた。
九時二十分。先生は、いつも時間ぴったりに迎えに来る。たまに五分くらい遅い時もあるけれど、その時は寝癖がついてて、ワックスの艶もないから、たぶん寝坊したんだろう。
サンダルからスニーカーに履きかえて、わたしは静かに先生を待った。
「橋本さーん。おはようございます。リハビリ行きますよぉ」
マスク越しのくぐもった声が廊下に響く。
先生だ。どうやら今日は寝坊しなかったらしい。携帯と鏡を片づけ、急いでベッドカーテンを閉めた。耳慣れた足音が、四人部屋の、一番奥のベッドに近づいて来る。押入に隠れてる子供のように息をひそめた。
「橋本さん?」
先生が、ちょっとだけカーテンをめくって、顔をのぞかせた。わたしは今、先生の来室に気づいたふりをする。
「先生、おはよう」
「足の具合はどう?」
「ちょっと痛いけど、大丈夫。歩けると思います」
口元が緩んでしまうのを抑えながら、ベッドの横に立てかけてある松葉杖を手に取った。
「その格好じゃ寒いから、何か上着とかあるかな? 外は、けっこう寒いよ」
「外?」
思わず先生の言葉を聞き返した。
「本日は、屋外歩行練習に行きます!」
先生は手を叩きながらベッドカーテンを全開にした。普段より三割増しの笑顔がある。
「外を歩くの?」
「そうだよ。もう片(・)松葉(・・)でもいけるし、主治医からは、どんどん歩くように言われてる。今日は天気もいいし、ちょっと長い距離を歩いてみましょう!」
やっぱり先生は張り切っている。けれど、松葉杖の練習を始めてまだ二週間も経ってないし、外なんて歩ける自信なんかない。先生の話では、右足の骨はだいぶくっつき始めたらしくて、今週から体重の三分の二を右足にかけていいらしい。体重の三分の二なんていわれてもピンとこない。先生は、今まで両脇に抱えていた松葉杖を、片方とればちょうどそのくらいになる、と教えてくれた。
言われるままに、今まで両方でついていた松葉杖を一本外して、左の脇に抱えた。先生が心配そうに傍に寄り添ってくれる。わたしは慎重に、一歩踏み込んだ。
右足の底がくすぐったい。足の裏にマシュマロがくっついているみたいだ。しっかり踏んだら、それが潰れてしまうような感じがする。わたしは慎重にそぉっと踏み出した。
先生と一緒に病棟の廊下をゆっくり進む。先生はわたしの速度に合わせるように、歩幅を整えてくれた。正面玄関を出る。先生の言ったとおり、頬にあたる空気がひんやり冷たい。先生はいつも着ている半袖の白衣の上に、アディダスのパーカーを羽織った。すらっと伸びた長い手足は白衣がよく似合う。
「外歩くの久しぶりでしょ? どう、気分いいんじゃない?」
マスクを外して先生が笑みをかけたので、わたしも笑顔で肯いた。隠れていた唇が覗いていてかわいい。
「先生、どこまで行くの?」
「病院の敷地から出て、道路も歩いて、そうだなぁ、橋本さんが歩けるとこまで行こうか」
「歩けるところまで? すんごい、歩けるかもしれないし、ぜんぜん歩けないかもしれないよ」
「大丈夫。途中で休めるところもあるから」
先生は大仰に胸を叩いた。「あと、橋本さん。そのさ、先生ってやめようよ。オレは医者じゃなくて、理学療法士だから、先生じゃないよ」
「だってリハビリの先生じゃん」
わたしが言うと、先生はマスクを口に戻して恥ずかしそうにした。先生だってさ、橋本さんっていう呼び方は止めてよ、よそよそしいよ。胸をよぎる言葉は、心臓の奥にしまった。
三車線の大きな道路に出た。二ヶ月ぶりだ。自分の足で外を歩いてる。久しぶりに感じる街のにおいや喧騒が、わたしの皮膚の表と裏を、ひっくり返してくれるようだった。
外を歩いている自分を、お母さんは喜んでくれるだろうか? 昨日ケンカしたばかりだから、駄目かな。お母さんは自分勝手だから、大嫌いだ。先生がいればそれでいい。
先生は車道側になって、わたしの足がつまずかないようにとか、杖の先がひっかからないようにとか、いろいろ注意してくれた。
どのくらい歩いただろうか。次第に、右足は地面をしっかりとらえることができるようになった。先生がいるから心強い。そのかわり、足首と踵が痛み始めた。
「目的地はあそこ。緑がきれいでしょ」
先生の声で、足下に集中していた視線を上げると、周囲の民家は緑のカーテンに変わっていた。舗装された赤いアスファルトがカーブの奥まで続いている。
「到着しました!」
添乗員にでもなったように先生が右手を広げて、わたしを緑の奥の方へ通した。
「公園? ここ、何処?」
「深大寺だよ」
「ジンダイジ?」
深大寺。先生がゆっくり肯いた。わたしに土地鑑なんてない。救急車で運ばれてそのまま病室に缶詰だから、近くにこんな場所があるなんて知らなかった。
何処か懐かしい風情のあるお店を横目に、先生と並んで歩いた。あの階段を昇れば境内があるんだ、と先生は教えてくれた。深大寺は縁結びで有名で、自分も両親とよくお参りに来ていた。先生は身振りを加えながら、めずらしく饒舌に語ってくれた。
連れてくるなら最初に行き先を告げてよ、リップぐらい塗ってきたのに。わたしは気づかれないように、舌で唇を湿らせた。
「この辺で休憩しよっか」
階段のわきにベンチがあった。先生に杖を渡して、ふたり順番に腰掛ける。
「ねぇ。境内の方にも行ってみたい」
「橋本さん、まだ松葉杖で階段を昇る練習してないから無理だよ」
「練習なんて、いらない。昇れるよ!」
小学生みたくだだをこねる。頭を掻く先生の髪毛から、すぅっと甘い香りが漂う。
なんだか、ずっとこうしていたくなった。先生と、先生の横顔と、先生の長い睫毛をしっかり見ていられる。足の痛みも、学校のことも、お母さんのことも何もかも、全部忘れてしまえそうだ。わたしはズボンの裾をまくって足首を撫でた。「先生、足痛いよ」
「大丈夫?」
先生は慌ててベンチを降りると、わたしの前に屈んで足に手を当てた。
「もう歩けないよぉ。ねぇ、もう少しここで休んでいこうよ」
「ほんとに? 少し無理させちゃったかな」
先生は右手にはめた腕時計をみながら、困った顔をしている。「でもこの後外来の患者さんが来るから――」
「嘘だよん」
わたしがニヤリとすると、えっと先生の目が開いた。男の人が慌てたり、驚いたりするのをみるのは面白い。
でも、嘘じゃないから。足が痛いのも、もっとここにいたいのも、本当だから。
わたしは大きく背伸びして、立ち上がった。なんだかこのまま歩けそうだ。痛みも、杖もなくなって、ふつうに、自然に、今までみたいに歩けそう。そんな気がした。
「ちょ、まった! 杖つかないと!」
「嘘だよん。わかってます」
「まだ体重の全部かけちゃいけないんだからね。右足は、三分の二の荷重だよ」
先生は杖を突くまねをしながら、諭すように言った。
「もぉ、わかってるって」
もう一度、さっきよりも大きく背伸びをした。そして窺うように先生を振り返った。「ねぇ、先生。カルテとか見てさ、わたしのこと――そう、体重とか、いろんなこと、全部知ってるんでしょ」
「え?」
先生が真顔になる。病院にいる時の真剣な目だ。「そうだなぁ。患者さん一人ひとりの情報なんて、そんなに細かく把握してないし」
「ほんとぉ?」
先生のパーカーの袖をひっぱってみた。先生は、うん、と頷きながら、松葉杖を渡してくれた。先生は知ってるんだろう。わたしが入院した理由も、足をケガした理由も、全部。
「よし。そろそろ戻ろうか」
先生が歩き出しす。
「うん」
とわたし。
「帰るまでがリハビリだよ」
と先生。
無事に退院できたら、またここに来よう。杖なんかつかずに自分の足だけで歩いて、その時は先生に名前を呼ばせてやろう。ちゃんと髪もメイクも整えて、先生の手を握ってやるんだ。そして、もう自分で自分を傷つけることはしないって、誓ってやろう。
わたしは先生の後ろを歩いた。ゆっくり、丁寧に、慎重に歩幅を合わせる。
右足はもう痛くなかった。

志田 サラダ(千葉県船橋市/34歳/男性/公務員)

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