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【第10回公募】「十年の雨」著者:山口海斗

変わらないね、と彼は言った。古びた店の、年月で傷んだ木製の柱や壁は、風情があると喩えられる。
「本当ね」
私は相槌を打ってから、彼の言葉の意味を考えた。
大学を卒業して、もう十年が過ぎた。
当時、私は世田谷区の隅の方にアパートを借りていて、そこから近くの大学へ通っていた。最寄り駅はとても縁起のいい名前だったけれど、アパートからは遠く、滅多に利用しなかった。
これ使いなよと言って、折り畳み式の小さな自転車をくれたのは、同じ講義を受けていた彼だった。私達が一緒なのはその講義でだけだったけれど、計ったように隣の席に着き、教授の話を聞き流しながら二人小声で言葉を交わしたり、敷地内のどこかで偶然顔を合わせることもあった。大学に入って初めて話した相手だったから、同性の友人が出来ても彼はどこか特別だった。
そして、彼は本当に特別になった。その瞬間のことはよく覚えていないし、境界線などなかったのかもしれない。彼は口数が少なく、私とよく似ていた。
私は母親に、女の子の友達と一緒に暮らすと嘘をついて、彼のアパートへ転がり込んだ。私のアパートよりも小さな、彼のアパートへと。荷作りは何度も中断させられた。
彼の住んでいたのは、大学から程近い、静かな町だった。季節の移り変わりのよく見える、垢抜けない、貴重な町。自分のアパートを引き払ったのは春だったけれど、年の暮れる前から事実上住み着いていたので、数年振りに積もった雪の町がとても暖かかったのを覚えている。
今でも確かに自由だけれど、あの頃はあまりにも自由だった気がする。罪なほどに。

彼は蕎麦を啜っている。正面からのやや俯いた顔は、私が一番多く見てきた角度だ。長いまつ毛が際立ち、綺麗だなとか羨ましいなとかいった単純な感想よりも、私はどこか懐かしい気持ちになる。
懐かしむのは、近くはない過去のこと。私も彼も歳を取ったのだ。
例えば、大学生は二種類いるとして、何を勉強したのか覚えていない方の部類に、私は入る。卒業してからもまともな職に就かず、だらだらとその日を暮らしてきた。
そして、どちらかといえば彼もそうだった。あまり覇気のある生き方はしていない。気まぐれに職を変え、自己管理もずさんだ。睡眠不足で職場へ行き、居眠りをしてそのまま解雇されたこともある。若さを言い訳にするのも、段々と無理が出てきた。
私がいなければあの人は駄目だと思うから。あの人にもいいところがある。優しいところが。
どこかで聴いた、そんな危険な言い訳に、私もふと共感してしまう時はある。彼は私に良くも悪くも何もしないから、これが恋愛なのかと疑ってしまうのだ。
「ねえ」
蕎麦を飲み込んだ彼が、窓から店外を見ながら言った。参道に人はまばらで、時折ゆっくりとした足取りの人が通る。
「来週のほおずき、近所の人にも頼まれちゃった。だから三つ買うかも」
「そうなんだ」
ほおずき、とはほおずき祭りのことだ。年に一度、週末に充てた数日間に催される。彼は毎年、遠くにいる両親の為にほおずきを一鉢買って届けていた。
「近所の人って、誰」
純粋さを半分だけに、私は訊いた。
「うん。向かいにいるでしょ、おばさん」
彼は肩を自然にすくめた。視線は参道に向いている。道を隔てた向かいにも蕎麦屋があり、店員のおばさんが通行人を呼び込んでいる。
彼は人差し指の付け根を鼻先に当てながら、ふっと笑った。今も二人で住んでいるアパートの向かいに、確かにおばさんはいる。いかにもといった風体の人。すれ違えば挨拶を交わす程度だけれど、彼はいくらか親しい。
そういう、柔らかな物腰と雰囲気を持ってはいるのだ。だからどうしても、彼には何かの才能があるのではないかとか、いつかはプロポーズしてくれるのではないかとか、私は想像してしまう。そんな時、私は少しにやけていて、逆の立場なら「どうしたの」と迷わず問うところを彼は何も言わない。

私は一度、二歳年下の妹に説教されたことがある。妹は大学には通わず、高校を卒業して数年後の若さで結婚した。すぐに男の子を生み、今はお腹に二人目がいる。
「お姉ちゃん、いつまでもそんな生活が続くと思ってたら駄目だよ」
妹ははっきりと私の目を見て言った。久々に帰った、神奈川にある実家でのことだ。
「その彼と結婚する気がないなら別れるべき。第一、向こうに真剣さがあるわけ」
私はリビングの古いソファーに腰を掛け、インスタントのコーヒーを啜っていた。妹が口を開いている間、私はずっとカップを両手で持ち、口元に当てたままにしていた。椅子に座り、私を見下ろす妹の視線は、はっきりと見たわけではなく感じたものだ。
その時はまだ、妹には子供がいなかった。だから何となく、妹にも不幸な予感や雰囲気はあった。ごく平凡でまともな両親の目は、妹のことも私のことも同じように見ていた、まだあの頃は。
子供が出来たらハッピーエンド、というはずはないだろう。だけれど、学生気分の消えない恋愛ごっこを繰り返す人よりはずっとまともな人生を歩めそうではいる。私は意識とは別の、無意識な心の中で自分をそう戒めたりはするけれど、結局のところどうすることも出来ない、暖かく緩やかで、それでいて冷たく無情な波に飲まれ続けているのだ。

「行こうか」
相変わらずのろのろと蕎麦を食べていた私に痺れを切らしたように、彼は言った。私は黙って頷く。汁の中に箸を滑らせると、蕎麦はもう残っていなかった。
会計を済ませ店を出ると、夏の初めの風が吹いた。昨日の雨と、新緑のつんとした匂いが鼻をくすぐる。参道の石畳はまだ少し湿っていて、踏む度に濡れた砂利の音を立てる。私達は共にサンダル履きで、雨が降ってもこの方がいいと考えたのは彼だ。
私は隣にいながら進む方向は決めず、彼はゆらりと前へ歩く。足は深大寺に向かっている気がするから、「お参りするの」と私は訊いてみた。
「うん」
何を願うのかは訊けない。知っているようでもあるし、知りたくないようでもある、私からしたら。
参道を、ずるずると進む。私は彼の手を取った。
変わらないことはあり得ない。彼から貰い、大事に乗っていたはずの自転車も、今はもう壊れて捨ててしまった。一年はあっという間だねという、その時の職場やテレビの中の年配の人がしみじみと言うのに、そうかなと首を傾げることもなくなってしまった。
だからこそ私達の関係は貴重で、周りにとやかく言われることはなく、私達自身が大切に守っている唯一の現実だった。言葉などなくとも、こうして目の前にある。満腹のお腹をさすり、季節の色の空や空気など感じて、ゆっくりとだけれど確実に歳を取っていくのだ。それがいい。それしかない。

願いを叶えたことは、私は一度もなかったけれど、その時ばかりは強く願った。言葉を並べるよりも確実に、単純に、息を吐くように。
私の手をぎゅっと握り返して、彼は私の名前を呼んだ。
「深雪は何を願うの」

山口 海斗(神奈川県川崎市/29歳/男性/フリーター)

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