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【第10回公募】「ゆがみ」著者:織倉ひずみ

 ――歪んでいる物が、必ずしも悪い物だとは限らない。だって、端整に整った物は美しいけれど、歪んだ物には味わいがあるから。康成さんはそう思わない?――

 以前、叔母の遠藤佳代子がそんな言葉を語ったことがある。
 どういう意図があって彼女がそんな事を口にしたのかは分からないが、その言葉は俺の心に鋭く響いていた。

        ◆ ◆ ◆

 深大寺界隈の木々も紅く色づいていて、季節は晩秋に向かって歩みを進めている。平安時代の女流作家である紫式部が源氏物語の中で、源氏の君に「四季のうちで春と秋が美しく、甲乙がつけがたい」という内容の事柄を語らせているが、俺が源氏の君の立場ならば間違いなく秋を選ぶことだろう。
 楓の木々が立ち並び、びっしりと朱色に染まった景色は華やかで、思わず目を奪われる美しさがある。しかし、紅葉樹と常緑樹と、紅と緑の木々が入り混じっている有り様も、それはそれで賑わいがあって、やはり日本の自然の美しさというものに感嘆を禁じ得ない。朱色の落ち葉が敷き詰められた小路を歩いていると、どことなく風流さを感じてみたり、もしくは寂びた心持ちになるのは日本人特有の感性なのではないかと俺は思う。またそれが夜の気配が薄く滲み始めている夕刻頃ともなれば、尚のこと情緒的な気持ちにさせられてしまうのも無理からぬことだろう。茜色の黄昏、それは感傷的な美しさ。どうして夕陽の光は人を物寂しい気持ちにさせてしまうのだろうか…………。

「ねえ、康成さん。これ、どう思う?」
 楽焼の茶碗を手にして、意見を求めてきた叔母の声に思索に浸っていた俺はハッと我に返った。
「ええ、良いんじゃないですか?」
「適当に相槌を打ってない?」
「そんなことないですよ」
「本当かしら?」
 俺は取り繕いの苦笑いを浮かべ、叔母はそんな俺を絶対に信じていない訝しむような眼で見ていた。
 遠藤佳代子という女性は家系図的に言って俺の叔母に当たる人なのだが、年齢的には七つしか違いがない。彼女は今年で三十路を迎えてしまったが、未だ独身のままである。
 俺の生家である榊原家と叔母の遠藤家は共に茶道を生業としている家柄で、今年の春に大学を卒業した俺は、修行の名目で遠藤家に預けられている状態だ。『修行』という言葉で語れば少しばかり耳当たり良く聞こえるかもしれないだろうが、実際のところは黒子の如く立ち回っている身分と言った方がニュアンス的には近いような気がする。今日も今日とて、叔母の付き添いとして所用のお供に駆り出されていた。
 その帰り道。深大寺の近くに来ていた俺たちは、叔母の思いつきで、深大寺山門近くの焼き物屋に足を伸ばすこととなった。目的地は木々の中に佇む平屋作りの建物、むさし野深大寺窯。店の前の平台の上には数多の焼き物が所狭しと並べられていた。深大寺焼きの土鈴、信楽焼きの狸の置物。越前焼、美濃焼、京焼、楽焼の陶器類。その内の楽焼一つを取ってみても、絵皿、小皿、中皿、長角皿、四角皿、丼、箸置、杯、花器、抹茶茶碗といった感じに豊富な種類の陶器が陳列されている。その中で叔母のお気に召した物が、どうやら赤楽の半筒茶碗だったらしい。
 楽焼――というのは戦国時代の天正年間に京都で始められた焼き物である。轆轤を使わず、指先だけで陶器の形を作るのが特徴で、陶器を焼く温度としては低めの温度で焼き上げるため、低温焼成ならではの軟質な柔らかさが器に生まれ、繊細な手触り口触りが楽しめる焼き物だ。茶碗を手にした時に、手捏ね作り故の微妙な形の歪み、厚みのある形状がもたらす、程良く自分の手に馴染む感触が楽焼茶碗の魅力の一つであるのは間違いのないところだろう。
「端整に整った物は美しいけれど、歪んだ物には味わいがあるから――でしたっけ?」
「あら……、よく覚えていたわね」
「何となく心に響いた言葉だったので。でも、どういう意図があって佳代子さんがそう言ったのかまでは、今も分かりませんけど」
「意図? 意図と呼べるほど大層な理由なんてないわ。でも、そうね……、仮に人に例えて言うなら、大きな失敗を経験した事のない人間の人生や経歴は綺麗かもしれないけど、大きな失敗や挫折を経験した人間の人生は渋みがあって味わいがある。そんな風に私は考えているの。つまるところ、私自身が捻くれ者だから、綺麗に整った物よりも、歪んでいる物の方が存在が自然に思えて好きなんだと思うわ」
「それじゃ、佳代子さんは何か大きな失敗をした経験があったりするんですか?」
「ふふふっ、そうね……」
 叔母はそこで一旦言葉を区切り、何かを懐かしむような眼をしてから言葉を続けた。
「実は私ね、康成さんくらいの歳の頃に不倫にハマってしまったことがあるの」
「えっ?」
「あまり詳しくは話せないけどね」
「そうなんですか」
 何気ない会話の中に飛び出してきた重い告白に、正直、俺は戸惑いを覚えた。人に歴史あり、とでも言うべきなのだろうか、叔母も三十路という年齢なのだから、今までに色々な人生経験があって然るべきなのは当たり前のことなのだが……。
「だから、今の貴方を見ていると、昔の自分を思い出すと言うか、重なって見えてしまうのだと思うわ」
「それが拒まなかった理由ですか?」
「そうよ。穢れた女で幻滅した?」
 二日前、俺は佳代子さんを押し倒し、強引に身体を重ねた。腕の中にすっぽりと収まるような抱き心地、滑らかで手に馴染む柔らかな肌、魅惑的な肢体に俺は夢中になった。俺は激しく彼女を求め、彼女も俺を受け入れてくれた。しかし一夜明けてみると、彼女はまるで何事も無かったかのように、普段通りの叔母に戻ってしまっていた。それはもう、その夜の出来事は胡蝶の夢か何かだったのかと思えるくらい、俺と佳代子さんの関係に変化は訪れないままだった。
「…………。いえ、幻滅はしていません」
 艶然な笑みを浮かべる叔母に、何とも言いがたい気持ちになった。どうやら俺は叔母の手の平の上で踊らされていただけらしい。
「苦い失敗っていうのは、その人の受け取り方次第で良い人生経験になると思うの」
「俺のこの気持ちは失敗だと?」
「ええ、そうよ」
 返ってきたのは迷いの無い断言。
「康成さんの気持ち自体は純粋なものかもしれない。だけど、社会的に、法的に許されない感情なのも事実だわ」
「だったらどうして俺と――」
「試してみたかったのかもしれない」
 俺の言葉を遮って叔母が端的に答えた。
「自分の失敗を人生の糧として生かせるのか、それとも甘い汁の味が忘れられずに何処までも堕ちていくのか。多くのものを失って、それでも尚、私を求めるだけの覚悟が貴方にはあるのかしら?」
 考えていない訳ではなかったが、改めてリスクというものを意識させられると、足が竦み、気持ちが怯む。俺個人だけの事ではなく、榊原家、遠藤家には多くの門人や、少なからずの関係者、支援者の方々が存在する。その繋がり無くして茶道の家は成り立たない。甥と叔母が肉体関係を持ってしまったことが周囲に知られてしまったらどうなるだろうか。それを考えると胃袋に鈍く重い不快感が広がった。
 頭の中で損得計算が駆け巡る。情けなくも、保身で頭がいっぱいになり、佳代子さんに対する恋慕の気持ちが萎えていく自分に嫌悪感を覚えた。
 見事に嵌められてしまった。もし――佳代子さんと肉体関係を持つことがなかったら、俺は長らく彼女を一人の女性として想い続けていたことだろう。だからこそ、叔母は敢えて自分を抱かせる事で、現実を俺に突きつけようとして謀ったのではないだろうか。
「俺は…………」
 言葉を躊躇う。上手く言葉が出せない。何も言えずに俺は唇を噛み締めた。青二才――という言葉が頭の中に浮かんだ。握った拳に力が籠もる。今のこの気持ちは何と言えばいいだろうか。屈辱という言葉では到底言い表しきれない悔しさ。恥辱でもあるのだろう。舞い上がってしまっていた俺の姿は彼女の瞳にどのように写っていたのだろうか。それを考えると、愚かな自分があまりにも腹立たしい。色々な感情が頭の中で混じり合い黒い渦を巻いているが、その中で一番強い感覚は無力感なのだろうと思う。倦怠感にも似た疲労が心と身体を苛んだ。俺は自分の不甲斐無さに愕然となるよりほかになかった。
「人生経験の差よ」
 まいったな…………。
 俺は今日の出来事を生涯忘れず後悔することになるだろう。なるほど、これが人生の歪みというものか。
 茜色に染まった空を仰ぎ見て、苦い経験を噛み締めた。 

織倉 ひずみ(兵庫県神戸市)

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