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【第10回公募】「坂本先生の恋の話」著者:小林栗奈

先生がご自宅に呼んでくださらなくなって、半年が過ぎる。以前は、還暦を越した絵本作家と編集者におかしなことなど起こりようもないと、書斎で打ち合わせを終えた後は、居間に場を移しコーヒーを入れてくださったのに。今では、お会いするのはいつでも、亀の池の見えるこの店になった。
山菜てんぷら蕎麦を食べながら、麻子は向かいに座る坂本先生に目をやった。ちょうど、とろろ蕎麦の最後の一口がつるりと先生の口の中に消えていくところだった。
 坂本先生は、かなりの蕎麦通だと麻子は睨んでいる。所作の全てが粋なのだ。それでいて、ぜんぜん粋じゃない麻子の食べ方を大らかに許してくれるところが、また粋だ。麻子は正直なところ、蕎麦の味はあまりわからないし、そばつゆに蕎麦をドボンとさせたこともあるけれど、それで先生の機嫌が悪くなったことはない。
「君は、おいしそうに食べますねえ」
 むしろ麻子の食べっぷりには目を細め、小鉢やら甘味やら、あれもこれもと頼んでくれる。
「どんどん食べなさい。今日は打ち上げですからね」
 その言葉に、麻子は慌てて居住まいを正した。
「先生、本当に長い間、お疲れさまでした。素晴らしい作品をありがとうございます」
坂本先生が七年に渡って手がけた絵本「黒猫ジュサブロウ」シリーズが、このたび完結した。正式な慰労の席は、編集長も同席で設けられる予定だが、今日は先生が麻子を誘ってくれたのだ。
「書店には予定通り明後日並びます。ネット書店での予約も好調な滑り出しですよ」
「君や編集部のみなさんのおかげですよ。ずいぶんと熱心にやってくれて」
「私、ジュサブロウのファンですから!」
前任者からシリーズを引き継いでから二年。短い間だったが、麻子は主役のノラ猫ジュサブロウに惚れてしまった。艶やかな黒い毛並みを持った若い雄猫は、詩人で旅人。気難しいところもあるが、とびきりのロマンチストなのだ。
「ですけど、結局、最後までジュサブロウの顔は描いていただけませんでしたね」
 美味しそうにビールを飲む先生に、麻子はポロリと言ってしまった。
 先生の絵本に出てくる猫は、顔を見せてくれない。たいていは背中を向けていて、ごく稀にこちらを向いている時は、巧みに顔が隠れているのだ。隠されると余計に見たくなるのが人情というもの。先生公認で、ジュサブロウのイラストを募ったら、保育園児から八十歳まで、集まった作品は千点を越え、麻子たちは嬉しい悲鳴をあげたものだ。シリーズのファンは、ジュサブロウが素顔を見せる日をドキドキしながら待っていたのだ。
 でも結局、最後の一冊でもジュサブロウは顔を見せてくれなかった。そのことが、麻子は残念でならない。絵本ではミステリアスな存在だとしても、設定資料やラフスケッチで目にすることはあるだろうと編集者特権に期待したのに、それも空ぶりだった。
 先生は珍しく、少し困ったように笑った。
「猫の顔は、上手く描けないんですよ」
「そんな、ご冗談を」
坂本先生は水墨画の大家だ。麻子の前任者が絵本の世界に引き込んだ時には、業界が騒然としたそうだ。先生は輪郭をほとんど取らない、天衣無縫で大胆な画風で知られており、とりわけ生物の躍動感には定評がある。絵本でもその力は遺憾なく発揮されて、背を向けた猫からは充分な表情が伝わってくる。
 そんな坂本先生に描けないもの、苦手なものがあるなんて。
 適度にアルコールも回り、相手が麻子のような小娘と言う気安さもあったのだろう。
「どら、描いてみせましょうか」
 鞄から携帯用の硯を取り出した先生は箸袋にサラサラと小筆を走らせた。
「どうですか?」
 滑らされた箸袋を手に取り、麻子は思わず絶句した。素直な反応に、先生は気分を害したようではなく、むしろ面白そうに笑った。
「ね、驚きでしょう」
「いえ、あの・・・・・・」
 麻子は箸袋に目を落としたまま、口ごもった。確かに、これはない。猫の顔のうち全体は上手く捉えているのに、目だけが人間の物なのだ。これでは人面猫だ。いや、猫娘か。
「そう言えば、猫娘って妖怪がいましたね」
 麻子の考えを読んだように、先生が言った。
「これは、呪いなんですよ」
 筆をしまいながら先生は、苦く笑った。
「呪い?」
「実は若い頃に、悔いが残る恋をしましてね」
 そう言えば、坂本先生は独身で、浮いた話の一つも聞いたことはないと編集長が話していたことがある。
「あれはもう、三十年以上昔になるのかな、初めての個展が成功して、少しばかり浮かれていた夜でした」
出会いは、今も調布駅の側にある老舗のバーだった。カウンターで一人祝杯をあげていた若き坂本先生の隣りには、いつの間にか一人の娘が座っていた。ちょっときつめの顔立ちだが、しなやかな肢体から匂いたつ色気に、先生はクラクラしたと言う。
「誘われて、まあそういう関係になったわけです。一夜で終わらず、逢瀬を繰り返して、でもいざ正式に交際をという話になった時、彼女がいきなり言い出したんです。自分は実は化け猫なんだってね」
 先生の眼差しに麻子をからかう色は微塵もなかった。
「そのことを告げるのは、大変な勇気だったのでしょう。黙っていれば、私も周囲の者も全く気づかなかったのに。でも結局ね、私が種族の違いを乗り越えられず、別れることになりました。彼女が去って、私は猫を描けない自分に気づいたのです。恐らく、彼女がかけた呪いなんでしょう」
「そんなことありません!」
 麻子は思わず声をあげた。鞄を引き寄せて、書店に並ぶばかりの絵本を取り出す。
「こんなに生き生きとした猫が描けるんですから。この絵本を読めば、先生が猫をお好きなことも、猫のことをちゃんとわかっていることも伝わってきます」
 ただ画力があれば描けるものではない。骨格や筋肉のつき方、解剖学的に猫を知り尽くしても、それだけでは足りない。坂本先生の描く猫は、絵本の世界で確かに生きている。こんな猫を描ける人が呪われているわけがない。確かに顔の絵は、まあ、あれだけど。
 麻子の力説に、先生はふふと笑った。
「ありがとう。そう言ってもらうと、少し気持ちが軽くなりますよ」
「生意気を申し上げました。すみません」
「いやいや。こんな法螺話に付き合ってくれて、ありがとう。誰にも話したことはないんですよ」
「もちろん、誰にも言いません」
「君も、恋をしたら、後悔しないようになさい。相手の手を離しちゃ駄目ですよ」
 先生の優しい笑顔が、麻子は好きだった。この気持ちを態度に表わしたことはないけれど、先生はきっと気づいていた。だから、外でしか会ってくれなくなったのだ。
「先生、この絵、いただいていいですか?」
 麻子は箸袋を握りしめた。先生はちょっと渋っていたが、あんな話を聞いてしまった以上、これを渡すわけにはいかない。
「シリーズ完結記念に、ぜひ!」
 断固離さないと言わんばかりの麻子に、根負けしたのは坂本先生だ。
「まあ、そんな物で良ければ。君には色々お世話になったことですし。でも人に見せてはいけませんよ」
 それからは他愛ない話をして、山門が閉まる頃、麻子と先生は店を出た。シリーズも完結したし少し羽を伸ばしますよ。と手を振って、坂本先生は夕暮れの町に消えて行った。

 そしてそれが、麻子が坂本先生を見た最後となった。先生はそれきり戻ってこなかったのだ。事故か事件に巻き込まれたのではと、編集部でも総出で心当たりにあたったが、どうあっても、先生の行方は知れなかった。
先生の失踪は美術界でこそちょっとしたニュースとなったが、それも一月とたたぬ内に消えた。先生の残したジュサブロウシリーズは安定して売れ続け、今日も編集部にはファンレターが届く。それを整理して保管するのは麻子の仕事だ。
 いつもの蕎麦屋で一人、先生がお好きだったとろろ蕎麦を注文し、麻子は手帖を開いた。カバーの折り返し部分には、あの日もらった箸袋が忍ばせてある。
 恋をした娘が化け猫だったなんて。
 麻子の気持ちをはぐらかす為に、先生はおかしな作り話をしたものだ。
でも、もしかしたら全部本当のことかもしれないと、麻子はふと思う。
坂本先生は恋をした猫の娘と添い遂げる為に、人の世を捨てていったのだ。今でも案外と近くに先生はいて、でも猫の姿をしているから、みんなは気づかない。
 恋人は黒猫に違いなく、対になるなら先生は白猫だけど、落ち着きと渋みを混ぜ込んで、薄いグレーか、象牙色。
「猫の顔は、上手く描けないんですよ」 
 先生の言葉は正しかった。間違いなく下手くそな猫の絵を見ていると、笑いたいような、泣きたいような、おかしな気分になってくる。麻子は慌てて湯飲みを取り上げて、やわらかな湯気に顔を埋めた。 

小林 栗奈(東京都国分寺市/43歳/女性/会社員)

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