*

「雨季の花」 著者:蔦川 岬

その日も霧のような雨が降っていた。
連日の雨に加えて、平日の神代植物園は予想通り客足が少なかった。
一眼レフを小脇に抱え、男は白い傘をさして木道を歩いていた。深大寺に隣接する水生植物園には、この時期になると綺麗な花が咲く。
カキツバタ。ハナショウブ。アヤメ。
それらが一番美しいのは、水の滴に打たれしっとりと滑らかな花弁を広げている時だと、男はそう思っている。
水気を含んで滑りやすくなった木道を、丁寧な足取りで歩む。男は紫色の花の傍に腰を下ろした。白い傘をレフ板代わりに、肩に柄を固定してカメラを構えた。
早生(わせ)の花菖蒲がアヤメと共演する、ギリギリのこの時期を狙ってやってきたのだ。
ファインダー越しに映る碧く深く艶やかな花弁。その一枚一枚が、まるで宝石を散りばめたビロードの布のように揺れる。
男はそこを捉えるように、ピントを合わせる瞬間が好きだった。
蜃気楼のような曖昧な幻想の世界から、現実に引き寄せられるかのように、鮮明な色彩がそこに現れるのだ。
男は夢中でシャッターを切った。シャッターを切りながら、視界の片隅に異物を感じた。「あの、すいません」
 ちょうど花盛りの株の中に、青色のくすんだ雨具の背中が見えたのだ。
「ほんの少しだけ、写真を撮らせて貰えませんか」
 あと少しそこから避けて貰えばいい。
 ほんの数歩避けて貰えば、素晴らしい画が撮れる。
 上下していた雨具の動きが止まった。
「お仕事中申し訳ありません、すぐ終わるので」
 申し訳なさそうに男が声をかけた途端、雨具はすっと立ち上がり、男を振り返った。
「何用で?」
 木道に立っている男と同じ目の高さで、雨具を着た人物は男をじっと見た。
「あ、すいません、本当にすいません」
 反射的に男は謝罪した。
「ですから、何の用で撮影されるんですか」
 見れば随分若そうな女性だった。そして背が高い。
「あの、園内を撮影してはいけないという何かありましたか?」
 男は慌てて傘を持ち直した。咄嗟の事で気を取られている間に、カメラが雨に濡れそうになったのに気がついたのだ。
 その様子を不審な目つきで眺めたあと、女はキリッとした口調で答えた。
「園内の撮影はご自由にどうぞ」
「では、そうさせて貰いたくて、あの、お仕事中だというので申し訳ないとは思いましたが」
(少しそこをどけて貰えますか)
 その一言が出ない。その代わり否応なしに悶々とした腹立たしさが男の内部に込みあげてきた。
(確かに作業中に、花の撮影をしたいのでそこをどいてくれとは失礼だったかもしれない)
心の中で反省と苛立ちが交差する。
(いや、だからといって、そういう態度はよくないのではないか。こっちは一応客だ)
 そう言ってやろうと、男が顔をあげた時だった。
 雨具の帽子を取った女の白い手が動く。その手が、フォーカスの掛った映像のように、緩やかに男の目に残像を残した。
 筋のように束なった前髪が顔に掛り、そこから無数の水滴が滴り落ちた。水滴が伝った顔は白く澄んだ肌をしている。目の下のまだらな薄いそばかすが、どこか野生に咲く花びらの紋のようにも思えた。
 男はぞっとした。
 ぞっとしながらも、彼女の顔から視線をそらす事は出来なかった。思わずカメラを持つ手が、彼女を撮らえるべき上がりそうになる。
「そういうご趣味ですか」
 ぶっきらぼうに女は男とカメラを交互に目で追った。
「花菖蒲が好きなんです」
 雨足がいくらか強まってきたような気がして、男は思わず傘を深めに被った。それでも霧のようだった雨は、俄かに水滴に変わっただけで依然として優しく辺りを湿らせているだけだ。
「はなしょうぶ……」
 女が言葉の意味を探るように声を絞った瞬間、その白い肌が紅く彩られた。
 男はまたもその様子に硬直した。
一体何があったのか男は理解していない。
 ただ、白く美しい野生の花のようだと思ったそれが、一瞬にして春先のハナミズキのような紅色に変化したのを、魔法でもかけられたかのように魅入っていたのだ。
「花菖蒲を撮影したかったんですね」
 さっきとは打って変わった、女の柔らかな口調に男はようやく我に返った。
「どうぞ、撮影してください」
「え、ああ、はいありがとうございます」
 言われるまま男はカメラを持ち直した。そして傘を肩にかけ、ファインダーを覗く。
 異物がなくなった花畑は絶好の美しさで男の視野に広がった。
深い色を誇り気に開くアヤメと、揺らめく色とりどりの花菖蒲
まだ早い蕾を空に向けて開花をじっと待つ姿も、全てに美がある。だが、男にはその美しさより気になるものがあった。
心ここにあらずの状態で数枚シャッターを切った後、男は女を向き直った。
「あの、もしや」
 そう言いかけた途端、女の顔がまた紅くなった。
「すみません、最近よく写真を撮らせてくれと言われる機会が多くて。あの、私写真に撮られるのが嫌いで……」
 首に回したタオルをむしりとるなり、女はそれをぎゅっと握りしめて俯いた。
(なるほど、勘違いしたのか)
 思えばおかしな対応だったなと、一部始終を振返りながら男は傘を持ち直した。
 野生の強かな花に見えた女が、今度は野に咲く可憐な小花のように見える。
「いや、私の言葉足らずです」
 頭を掻いて男は笑いをこらえた。
「まだお若く綺麗ですから、随分声をかけられているのですね」
 女はその言葉に少し俯いて「いいえ、そんな」と呟いた。
 帽子を脱いだ彼女の髪から、雨の滴が滴る。その数を目で追って、男は傘を持ち直した。
「雨、強くなってきましたね。お仕事今日はまだ続けるんですか?」
「はい、ヨトウムシの被害を探していたんですが、あと少しですから」
 もっと会話をしたい衝動にかられながら、男はじっと彼女の顔を見た。
「お仕事柄、花菖蒲について詳しいですよね」
 男の言葉に、女は黙って首を振って、それから少し遠慮気味にはっきり応えた。
「ここは色々草木がありますので、特別に詳しいという程ではないんですが」
 なるほど、園内全般の管理をしているからといって、必ずしも花菖蒲に詳しいとは限らないのだ。それを知って男は溜息をついた。それでよかったのだと安堵の溜息だ。
 これ以上、彼女と話しが合うとなると、自分の感情に歯止めがかからなくなりそうだったからだ。
 それほど衝撃的な美だった。姿ではない、その雰囲気に男は惹かれた。
「では、私はこれで。お仕事がんばってください」
 そう言って男が立ち去ろうとしたその背中に、女の声が届いた。
「あの、来月の初めに綺麗な品種が咲きます」
「綺麗な品種?」
 驚いて男は振り返った。
「綺麗な水色の背の高い品種です。ほんの数株ですが。ここではなく、あちら」
 湿地帯のやや奥まった場所に、雨の靄に紛れた緑の葉が見える。早くに咲き始めた早生(わせ)に遮られ、誰もその存在は気がつかないだろう場所だ。
「へえ、水色ですか」
「水の光という品種です」
 彼女の言葉の糸をたぐって、男の脳裏でようやく名前と画像が一致した。
水色掛った中輪の三枚花弁だ。そして遅生。雨でなくとも晴天も似合いそうに透き通った水色に近い紫だった。
(そうだな、まるでこの人みたいだ)
 どこか惹かれる人だった。
野生のような強かさと、誰にも愛されるような可憐な花の表情を持っている。
 もっと色々話をしてみたい。素直すぎる純粋な感情が男の中に湧いてきた。
(だけど、こんなオジサンじゃあな)
 などと自嘲して男は目を伏せた。
「教えてくれてありがとうございます」
 男は丁寧に頭を下げた。視線が自分の靴元に行くまでに、心臓が何度高鳴りしたのだろう。顔をあげたらどんな顔をしようか、そんなことばかり男は考えていた。
「いいえ、先ほどの無礼のお詫びにもなりまんが……あの」
 どうにか顔をあげて笑った男を見て、女はバツの悪そうに少し媚びた笑顔を見せた。
「ハナショウブを花菖蒲と言う方はなかなか居ないんです」
「おや」
 意外な発言に男は目を大きくした。
確かに平たく言えばハナショウブもアヤメもカキツバタも似たような時期に咲く花として、ひっくるめてアヤメ呼ばりしている人は多い。
厳密には開花時期や、生育地、葉などで区別されるが、誰もそこまではあまり気にしない。
女も仕事だ。
ハナショウブとの違いを聞いてくる来園者には、丁寧にその違いについて教えていたが、最初からハナショウブをハナショウブと割り切って来る人とは滅多な会話はした事がなかった。
一度話をしてみたいと女は思っていた。花菖蒲を語る人はどんな人なのだろうと。
意外な質問に男の表情がどう揺れたのか、女が安堵した様子で表情を緩めた。
「お好きなんですね、花菖蒲」
 女の柔らかい声。つい先ほどまで聞いた彼女の声でないような穏やかな声色だった。
(もしや、この女性も花菖蒲が好きなのだろうか)
 同類の気配をその可憐な声に感じて、男は頭を掻いた。そしてゆっくりとした口調で応じる。
彼女の声に負けずと、花菖蒲を愛していますと伝わるように。 
「ええ、好きですよ」
 雨の中、二人は微笑みあった。

蔦川 岬(秋田県仙北郡/31歳/女性/無職)

   - 第6回応募作品