「捨てる神と拾う神」 著者:加藤 ひなこ
真夏のコンクリートの中、田端春子は風を切って自転車を走らせた。
平凡な住宅地の間を走る、整備された都道121号線。その道路沿いにある深大寺小学校を曲がると、急に旅先のような風景が広がる。薄石が敷かれた歩道のわきには小川が流れ、提灯をぶら下げた昔ながらの造りの蕎麦屋やだんご屋が並ぶ。そしてその奥には深大寺が控えている。
春子は歩道に自転車を止めると、駆け足で本堂へ向かった。休日は参拝客や蕎麦を食べる客で賑わっているが、平日の夕方で人は少ない。
春子は財布を取り出すと、ありったけの小銭を賽銭箱に投げた。大きな音をたてて二度手を叩く。
「彼氏ほしい彼氏ほしい彼氏ほしい!」
春子はぎゅっと瞑っていた目を開き、本堂を睨んだ。
「頼むよ神様」
険しい顔をしたまま、お堂を出てすぐの蕎麦屋中村屋に入る。そして真っすぐ奥の席に向かう。
「天ざる大盛りと蕎麦豆腐!」
厨房の奥から、はーいと威勢のいい声が響いた。
深大寺からそれほど遠くない大通り沿いに、調布病院はある。古くからある大きい総合病院だが、改装したばかりで施設は美しい。春子が21歳でこの病院に看護士として勤め始めてから、もう7年が立っている。
「また天ざる食べたでしょ」
春子がナースステーションに入るなり、同僚の美香が話しかけてきた。
「なんで」
「油浮いてるよ」
美香は春子の唇を指さす。
「ちょっと太ったんじゃない?」
「ほっといてよ、太ってないし」
春子は唇を拭いながら言った。
「そーお?彼氏がいるからって油断しすぎ」
春子は美香を睨んだ。美香はその視線を無視して、カルテを春子に渡す。
「病棟は落ち着いてる。詳しいことは先生から聞いて。じゃ、おつかれ」
説明もそこそこに、美香は病棟を出て行った。春子はその後姿を見つめた。いつもよりも髪型のセットが念入りだ。心なしか化粧も濃かった気がする。デートの予定でもあるのかもしれない。
「とっくに別れたし」
つぶやいて、春子はカルテを捲った
その夜の病棟は平和だった。いつもなら嬉しいことだが、今夜は違った。静けさは春子に余計なことを思い出させる。元彼の康太のことだ。
康太は4年付き合った春子をあっさり振って、春子より2歳年下の女と結婚した。共通の知人からの情報だった。まだ別れて3カ月もたっていない。
二人がうまくいかなかったのは、ただのすれ違いだと思っていた。不規則な勤務時間、会える時間が少ない、その中ですれ違っていっただけだと。だけど違った。春子は負けたのだ、顔も知らない他の女に。選ばれなかったのだ。何がいけなかったんだろう。片付けが苦手な所、めんどくさがりなところ、康太より食べっぷりがいいところだったかもしれない。今となっては思い当たることが多すぎる。
これから先、誰かに選ばれることなんて、あるのだろうか。
春子の視界がふいに滲んだ。頭を振り、春子は懐中電灯を手に取る。
「巡回してきます」
じっとしていると、悪い考えばかりが頭を支配する。
薄暗い病院の廊下を春子はゆっくりと歩いて行く。いつからか、深夜の病院を巡回するのも平気になっていた。就職したての頃は恐ろしかったのに。曲がり角の先に懐中電灯の光を向ける時、何者かがいないかと怯えたものだ。これは成長だろうか。ふと春子は考えた。鈍感になっただけかもしれない。
ナースステーションに戻ると、主任の後藤博美が緑茶を入れた所だった。
「お疲れ様。飲んだら」
「頂きます」
春子は席につき、カップに口をつける。温かいお茶がじんわりと体に広がる。停滞した思考回路が、少しほぐれた気がした。
「なんか最近注意力散漫だね。今日はたまたま平和だけど、忙しい時にそれじゃ困るな」
春子はカップを机に置いた。
「す、すいません…」
博美は少し微笑んだ。
「病院で何かあった?」
「いえ、あの、その何もないんです!」
春子にとって博美は憧れている先輩だ。激務の内科病棟でも、いつも物腰が柔らかで品がある。バタバタした自分とは大違いだ。
「本当に?」
博美が春子を覗き込む。春子は少し怯んだ。いつも涼しい顔をしている博美には、なんだか全て見透かされている気がする。
「あ、いや…。まあちょっとつらいことはあったんですけど」
「ふうん?」
続きは?という風に博美は頷く。
「それからその事思い出してつらくなったり、先のこと考えて不安になったり、そんなことばっかり考えて、自信とかどんどんなくなってきちゃって…」
すみません、と春子は頭を下げた。
「あ~。あるよね、そういうこと」
博美は深く相槌を打つ。春子は驚いて顔を上げた。
「主任でもですか!?」
信じられないという風な調子だ。博美は当然よ、と笑う。
「そういう時は考えすぎないことかな。過去も未来もどうにもできないからね」
そのうちいいことあるよと博美は笑った。
春子は緑茶に沈んだお茶の葉をじっと見つめて、ぼんやりと思った。
この病院に来て経過した7年のうちに、得たものと失ったものはどちらが多いのだろう。
康太に必要とされなかった自分はこのままでいいのだろうか。
春子が目を覚ますと時計は午後3時を過ぎたところだった。夜勤明けでそのまま倒れるように眠っていたのだ。今日は非番で、何の予定もない。
春子はとりあえず出かけることにした。家にいるとまた余計なことを考えてしまう。
自転車にまたがり、ペダルを漕ぎ始めた。アスファルトの先が歪んで見える。まだ日は高く、ジリジリとアスファルトを焦がしていた。
121号線を、深大寺を背に下っていくとほどなく調布駅に出る。深大寺界隈の風情とは違って、駅前は賑やかだ。都心部と比べると都会とは言えないが、不便はないし、街路樹も美しい。春子はこの駅を気に行っていた。
調布駅に来るのは久しぶりだった。康太と別れてから、あまり近寄らないようにしていた。康太の職場があるからだ。電車に乗る時は、わざわざひとつ先の布田まで出ていた。
「馬鹿らし」
春子はつぶやいた。
その時、急に悲鳴があたりに響いた。春子がそちらに注目すると老人が倒れていて、周りに人だかりができている。春子は人をかき分け、老人の側に近寄った。
「大丈夫ですか?!」
春子は老人の頬を叩く。
「聞こえますか?名前は?」
老人はぐったりとして返事がない。春子は慌てて脈と呼吸を確かめた。皮膚は熱く、脈はかなり速い。
「動かさない方がいいんじゃないか?」
不安そうに人ごみの誰かが言った。
「私、看護士ですから。救急車呼んでください」
側の男が慌てて携帯を取り出す。
「誰か日陰に運ぶの手伝ってください」
春子は叫んだ。奥から青年が駆け寄った。
「どこに運びます?」
「あそこ。日陰のベンチに」
ベンチに老人を寝かせると、春子は着衣を緩めた。そして持っていたタオルにペットボトルの水をかけ、手早く老人の首に当てる。
「救急車、すぐ来るから」
電話をかけた男が叫ぶ。
「大丈夫ですかね」
春子は再び老人に呼びかけた。
「おじいさん、大丈夫ですか、聞こえますか?」
頬を一定のリズムで叩く。青年は隣でタオルを煽いでいる。老人はかすかにうめき声をあげ、うっすらと目を開けた。張り詰めていた周りの空気が少しだけ緩む。
「大丈夫ですか?名前、言えますか?」
春子は質問を続ける。
その時、サイレンとともに救急車が到着した。救急隊員の手によって老人は手早く担架に乗せられる。周囲が見守る中、老人は救急車で運ばれて行った。
「大丈夫でしょうか」
青年が不安そうな顔で春子に聞く。
「多分、熱中症だと思います。まあ意識が戻ったので……」
「一安心ですかね」
春子が頷くと青年は安心したように笑った。
「看護士さんて格好いいですね。あんな風にできるなんて……尊敬します」
青年は言う。整った顔立ちをしている。格好も派手ではないが、清潔感があった。大きな目で見つめられたので、春子は照れ臭くなった。
「仕事なので」
春子は思わず目をそらした。そのまま頭を下げて、立ち去ろうする。その時ふいに青年が春子を引き留めた。
「あの、待って下さい」
春子が振り向くと、青年は笑顔を浮かべた。その笑顔を、春子はどこかで見たことがある気がした。
「僕のこと分かりますか?」
急な質問に春子は戸惑った。
「分からないですよね、突然すいません、でもまたすぐ会えると思いますから」
では、といって青年は立ち去った。
春子はあっけにとられてしまい、何も聞くことはできなかった。
また会える?一体どこで。病院関係者かな。変なことを言う人だけど、格好良かった。
帰り道、春子はペダルがいつもより軽い気がした。
その後一週間たっても、青年は現われなかった。
「なんだか取り戻した?集中力」
春子が日誌を書いていると、博美が話しかけてきた。
「考えてても仕方ないですしね」
「彼氏でもできた?」
「そんなんじゃないですけど……」
あの事件の後、春子は康太のことを考える時間が減った。変わりに気がつけば、あの不思議な青年のことを考えている。悪い考えばかりが浮かんで、寝付けない日もいつのまにかなくなった。
出勤してきた美香が開口一番春子に言う。
「なんか化粧、気合入ってない?」
気のせいだよ、と春子は言う。しかしあの日、春子は調布駅で新しいグロスを買っていた。我ながら単純だな、と春子は思う。
「じゃ、お先に」
春子は美香にカルテを渡すと、ナースステーションを後にした。
帰り道、春子は中村屋に立ち寄った。いつもの指定席へ向かう。
「こんにちは」
後ろから声をかけられ、春子は振り向いた。そこにはあの青年が立っていた。中村屋とプリントされたエプロンを巻いている。春子はあっと息をのんだ。
「またお会いできて嬉しいです」
青年は無邪気な顔で笑っている。
春子がいつも座る席からは、厨房がよく見える。この青年を見かけた場所は、中村屋の厨房だったのだ。
「天ざる大盛りと蕎麦豆腐でいいですか?」
春子は顔を赤くして俯いた。
「よく食べる人って素敵ですよね」と言いながら青年が出した天ざるはいつもより2倍にもられていた。
「恋愛対象ってわけじゃないのか」
春子は溜息をついて、出された蕎麦を綺麗に平らげた。
春子がお会計をしていると、厨房の奥から青年が出てきた。
「これおまけです」
青年が差し出したのは神代植物公園のチケットだった。
「なかなかいいですよ、僕よく行くんです」
春子はチケットを受け取り、出口に向かった。
「よければ、今度ご案内します」
春子は立ち止まる。
隣の池で何かがポチャンとはねた。木々がざわざわと揺れている。深大寺の鐘があたりを包み込むように響いた。
加藤 ひなこ(東京都杉並区 /26歳/女性/会社員)