*

「石段のむこうには」 著者:落合 真奈美

怖い。私は両手で車椅子をぎゅっと握りしめる。利き足である右脚のギプスが取れたばかりでは、バランスを取ることもままならない。
 後ろで押す夫の肩には力が入っているのだろう。車輪の動きは、まるで星座を結ぶような直線的なラインを描きながら進んでいる。
「もう少しゆっくり」
 山のような言葉から選んだ、最も押さえた要望がそれだった。
「あ、ごめんな」
 夫は何処を見ているのか、どんな顔をしているのか、私からは伺い知れない。ただ、車椅子を押すという初めてのことに戸惑っている様子は、漂う気配からよくわかった。
 タイヤが拾う振動は、細かく身体を震わせる。私は咄嗟に対処出来るよう身を硬くし、飛び出しそうになる体を支える見えないシートベルトを、何度となく求めてしまう。
 外で車椅子に乗るのは初めてだった。
「まさに薫風とはこのことだな」
 林を吹き抜ける爽やかな風に励まされ、夫は落ち着きを取り戻しつつあるようだった。
 一方私はというと、小学校の遠足以来二十年振りに訪れた神代植物公園を楽しむには、まだ時間がかかりそうだった。
 足置きの下で、アスファルトの小路が勢い良く流れていく。どうやら夫は車椅子を押すコツを掴んできたようだ。それにつられ、私も顔をようやくあげることが出来るようになった。
「葉が擦れる音って、何かに似ていないか」
「わからない」
 素っ気なく答える。恐怖心のかわりにすぐさま別の感情が芽生える。
「六月なのに無患子が落ちているよ」
「……」ムクロジなんて知らない。尋ねる気も起きない。我ながらこの意地の張りかたを持て余すが、今はどうしようもない。
「あとで、深大寺へ行こう。確かあそこに大きなムクロジの木があったはずだ」
 独り言のように、夫は当たり障りのない言葉を次々と繰り出してくる。まるで決して開かない箱をくすぐるかのように。
 車椅子は道の中央から、次第に左に寄ってきた。舗装路の両端は、切り落とされたように落ち込んでいて、アスファルトとの境目には何もない。私は転げ落ちそうな感覚にとらわれながらも、弱みを見せることが夫に隙を与えてしまうようで「怖い」のひとことを言えずにいた。

 あれは五ヶ月前の一月半ば。夫の三十五歳の誕生日のことだった。会社から帰宅する時間に合わせ、予約しておいた赤飯を近所の割烹に取りに行った。
 その店は評判が良く、夕どきの忙しさも重なり、十分ばかり待たされた。私は出来立ての赤飯の折を受け取り、心持ち急ぎながら自転車を自宅まで走らせた。暖かい赤飯を冷めぬよう、マントの内側に忍ばせ、坂道を片手運転で登っていた。
 それは出会い頭だった。
 自宅からほんの五十メートルのところにある十字路は、片側が急な登り坂、交差するもう一方の路は曲がりくねり、非常に見通しが悪い。小さな事故は頻繁に起きていた。
 大通りから侵入してきた白いセダンは、十字路に設置されたカーブミラーに映らず、車側もまた、私の姿が見えなかったという。運悪くミラーの付け根が劣化し、あさっての方向を向いていたのだった。
 スピードを緩めたものの、一時停止しなかった車は、走り抜ける自転車を軽々と飛ばし、私は人形のように電柱に叩き付けられてしまっていた。
 それらは一瞬の出来事で、何故、自分が横たわっているのか、冷たい道路に顔を付けているのか、全くわからなかった。痛さも感じなかった。目の前に散らばった赤飯の折を、ああ、どうしようと案じたことだけが記憶の隅にあった。
 誰かが叫ぶ声や、バタバタと近くなってくる幾つもの足音、そしてサイレンが聞こえたような気がしたが、それもすぐに聞こえなくなっていた。
 慌ただしく看護師が出入りする処置室の前で、駆けつけた私の両親に、まさに平身低頭して謝り続けた車の運転手は、夫だった。私はそれを後に父から聞かされた。
 軽い脳しんとうで、命に別状はない。しかし粉砕骨折した右脚の踵は、完全に元に戻らないかもしれない。
 それが医師の診断だった。
「娘の過失もあると警察の方から聞きました。命に別状はないのだし、今はどちらがということより、お互いにあの子の回復を祈りましょう」
 夫は毎日欠かさず見舞いに来た。
 最初の頃こそ、私たちは互いにかばいあった。また、別々の生活が新鮮でもあった。しかし、約一ヶ月の入院を終え、病院に近い実家から通院するようになってからは、少しずつ夫の態度に変化が生じてきた。
 梅が終わり、桜も散り始める頃になると、夫が実家へ顔を出す機会は、めっきり少なくなっていた。リハビリが一番厳しい時期であっただけに、私は脚だけでなく、精神的にも不安定になりがちな日々を送っていた。
 瞬発力はあるが持続力が無く、一旦面倒だと感じると、いきなり放り出してしまう、夫にはそんな傾向があった。前職も趣味もしかり。もう少し頑張ってみたらと、奮起させるようあの手この手を使い励ますのだが、行動パターンは容易く変わるものではなかった。
 まさか今回の場合も……と考えると、眠剤の世話にならずにはいられなかった。
 一方で脚の状態は回復へ向かっていた。
 ケロイド状の傷跡が何本も残っていることと、少し右脚が短くなったことを除いては。理学療法士に支えられ松葉杖なしで歩くと、以前とは明らかに違う歩行をする自分が鏡に映っていた。
 夫は、仕事が忙しくなったことを、言い訳と共に携帯メールで報告してくるようになった。平日ばかりか休日までも、接待ゴルフや休日出勤と、ありきたりな理由で実家へ足を向けなくなっていた。私は返事をしないことで、かろうじて自分を保っていた。小さな画面に並んだ文字では伝えきれないやり切れなさを、無言で訴え続けていた。
「メールじゃなくて、電話くらいくれてもいいのにね」
 心中を察するように母親は言うが、私はさらに心が苦しくなっていくだけだった。
 思いあまって一度だけ、実家の固定電話から非通知設定で自宅へかけてみた。ゴルフに出かけているはずの夫は……電話に出た。彼以外の人間が、複数で騒いでいる声が聞こえ、私は受話器を取り落しそうになりながら、かろうじて静かにおろした。
 新緑が芽吹く頃、私は杖を使い一人で病院まで行けるようになっていた。夫の言動は相変わらずで、私はそのことに慣れつつあった。
 ちょうどその頃、日帰りバス旅行のチラシが実家町内の回覧板で回ってきた。
『深大寺蕎麦ランチツアー&神代植物公園の薔薇ガイド付き』
 しばらく私につきっきりだった母に勧めると、嬉々として出かけて行った。
 その日は快晴。母も久しぶりに羽根を伸ばしてきたようだった。新調したリュックから、みやげ袋を次々と取り出し「日帰りなのに、一泊旅行くらいの充実感だったわ」と、気負い込んだ様子で一気に報告を始める。
「薔薇はね、午前中の香りが強いんですって。朝一番に行けてラッキーだったわ」
 買ってきたローズウオーターを手首に吹きかける。促されるまま私も手首を差し出す。薔薇の香りがふわりと広がった。
「深大寺の参道は、両側に雰囲気のあるお店が軒を連ねていてね、水の流れる音がどこに居ても聞こえてくるのよ。あぁ、外で聞く水の音って本当に気持ちいいわ」
「蕎麦はどうだったんだ?」父が口を挟む。
「もちろん美味しかったわよ。はい、お父さんには蕎麦ボーロ」
「蕎麦じゃないのか」
「お蕎麦は現地で食べた方が、断然、風情があっていいわよ」
 そこで思い立ったように私の方を振り向く。「そうよ、あなたも行ってらっしゃいな。お父さんに車に乗せてもらって、植物園で待ち合わせすればいいのよ」
「迎えに来てもらえばいいじゃないか」
「免停中だもの無理よ。だからそこはドラマチックに盛り上げるの。最近この子たちあまり会えていないでしょう。そういう時こそ、初心に帰るつもりでデート、でえと!」
 そんなもんかね。父は母の多少強引な思い込みを熟知しているのか、とぼけた表情だ。
「調べたら、帰りはバスが駅まで出ていたわ。園内は車椅子を借りれば大丈夫だし。参道散策は……えーっと、あちこちに椅子があるから杖でも平気ね。階段は……うーん、彼におぶってもらいなさいよ」
 おぶう? 絶対無理! 夫の運動神経の無さはよく知っている。それに恥ずかしい。しかし母は私の言い分など聞く隙を与えず、計画はあっけなく実行に移されることになった。
「それからこれは一番大切なおみやげ」
 手渡されたのは、夫婦円満お守り『赤駒』だった。

 緩やかだが登りの坂道が続いている。夫の息づかいが苦しそうだ。ねえ、大丈夫?
「ん? ああ。……。平気だ……」
 夫の言葉が途切れると、一瞬止まった車椅子が、ゆるゆると後ろへ下がりだした。私は慌てて両脇のブレーキレバーを引いた。
「危ないじゃない!」
 溜めていた想いが必要以上に声を荒げさせる。挑むように振り返った私の目に映ったのは、首を垂れ、肩で息をする彼の姿だった。
 小刻みに震えた細い腕でハンドルを受け止めている。
「ごめん、ちょっと立ちくらみ」
 膨らんで、膨らんで、もうこれ以上耐えられなくなったシャボン玉がパチンとはじけた。
「もう、私の面倒なんてみきれなくなった?」
「……」
「正直に言っていいから」
 無数の楓の葉が波打ち、擦れ合い、川の流れのようにざあざあと音をたてている。二人の張りつめた緊張感は保たれたままだ。
「見舞いに行かなくなったことは謝る。ごめん。ゴルフと嘘をついたのも悪かったと思っている。電話、くれただろう? あの時は、後輩たちとDVDでサッカー鑑賞していた」
 私は彼の次の言葉を辛抱強く待つ。
「俺、駄目なんだよ。自分でもわかってる。お前に何か言われると攻められているようで、どうしていいのかわからなくなるんだ」
 そのつもりがなくとも、言葉の端々にそう思わせる何かが出てしまっていたのだろうか。
「そんなつもりないのに」
「どんなに謝ろうが、見舞おうが、怪我をさせたのは俺だろう。お前の実家に小さくなって行くことは辛かったんだよ」
「うちの両親だってあなたにいろいろと気を使って……」
「でも居心地がいいわけじゃない」
「勝手だよ!」
「その通りだ。お前の言い分は間違ってはいない。俺がいくじなしなんだろう。ただ、誰もがお前の思っているように理想的に動けるわけじゃない」
 私はこみ上げて来るものを喉に感じる。四角四面。昔からそう言われていたことを思い出した。でも、今のこれはそうじゃない。
「俺を長い目でみてくれないか。俺たち、縁あってこうして一緒にいるわけだから」
「その縁から逃げ出そうとしたのはそっちじゃない」
「……」
「永く看て欲しいのは私の方なのよ!」
 私は言い出せなかった言葉を、精一杯の小声に力を込めて返した。夫は「そうだよな」と一言だけ言い、車椅子を押しだした。
「これからどうする?」
「深大寺に連れていって」
 夫のペースでうやむやにしない為に、私には考えていることがあった。
 車椅子を返却してから杖を使い、夫の肩を借りながら歩く。なんとか参道まで出ると、深大寺近くの休憩所に座り一息ついた。水路を流れる水音に混ざり、涼やかな風が盛んに風鈴を鳴らしている。
 そこで私は演技めかして口を開いた。
「神聖な場所へ立ち入るには、着古した自分を脱ぎ捨てることも大切です。あなたは私をおぶって、あそこの階段を昇ること!」
 深大寺の境内へ続く石段を指差す。奥には茅葺きのどっしりとした山門が構え、石段は参拝客が行き来している。
「ええーっ。なんでおんぶなんだよ」
「私だって、恥ずかしいよ。でもこれは、私が自分を壊す儀式でもあるの。だからあなたは、あなたの決意を見せて欲しい!」
 夫はしばらくあたりを見渡していたが、どうにもならないと理解したらしく、私の前に背を見せてかがんだ。
 階段は数えたら十三段あった。その年齢にしては痩せている夫は、杖を持った私を背負っただけで、足元がよろめいている。「もういいよ」という言葉が喉まで上がってくる。
 想像もしなかった軽やかな足取り。うっすらとにじむ首の汗と柔らかい髪がこそばゆく、懐かしい香りすらする。
 信じられないことに、夫は途中で休むことなく一気に昇り切り、一礼までして山門をくぐった。そして境内の玉砂利を踏みしめたとたんに、へなへなとしゃがみ込んだ。と、同時にパラパラと周囲から拍手が聞こえてきた。
 気が付かないうちに、二人は周りの人々に励まされていたのだった。私たちは照れながら、同じように幾度となく頭を下げた。
 これだけやったのだから、きっと大丈夫。深大寺の神様は、私たちの縁をぎゅっと結び直してくれたに違いない。

落合 真奈美(東京都新宿区/女性/自由業)

   - 第6回応募作品