「スケッチブックを開いたら」 著者:平井 ハヅキ
緑色の楓の葉が木漏れ日でキラキラ輝き、そよ風も心地よく襟元を通り去るそんな一時。そんな中今日もまたあの視線を感じた。錦織悟は自分をじっと見つめるあの熱烈な視線を感じずにはいられなかった・・・。
あれはある日の午後の出来事だった、悟は山門前でスケッチをしていると、誰かが自分をじっと見つめているような気がした。ここ深大寺の山門前では、時々白髪頭の方々が折畳み椅子に腰掛けて、スケッチをする姿を見かける。だが、悟のような美大生は確かに稀な存在ではある。珍しいのかな?悟はそう思い、気にせず鉛筆を動かし続けた。しかし、何分たっても、その視線の主は一向に移動する気配はなく、悟も段々と気になり始めた。
あまり露骨に振り返ると、視線の主を驚かす羽目になるので、悟は肩が凝ったかのように首を左右に動かしつつ、肩を揉む仕草をしつつ、横を見る振りをしつつ後ろをチラ見した。とりあえずボブカットの女の子だということだけは認識できた。一旦それで顔を元の方向に戻してから、次に悟は両手の指を組んで大きく伸びをし、頭を後ろに反らせた。そうしながら後ろに立っている女の子の特徴を再確認した。大きく無邪気な瞳、筋の通った鼻、艶のある豊かな唇、そして透き通った肌。魅力的の女の子ではあるが、どこかまだ幼さが残っている。高校生?まさか中学生?
あの日以来、悟が深大寺界隈でスケッチをしていると、視線の彼女が必ず現れて、悟の事を黙って見つめるのだった。
今日も変わらずご苦労様と思いつつ、可愛いファンの事について知りたいという気持ちは正直ないとは言えない。そんな雑念を追い払うように、悟は消しゴムで気に入らない部分を力いっぱい消し始めたその瞬間、消しゴムが手からこぼれ落ちていった。
「あっ!」悟が拾いそびれたら、消しゴムは地面で一度バウンドしてから、まるでスーパーボールのように勢いよく跳ね上がり、丁度彼女の足元で落ち着いた。
折畳み椅子に座ったまま、悟は彼女の細い脚とその足元にある消しゴムを見つめた。しばらくすると彼女はしゃがみ込んで、白く華奢な手で消しゴムを拾い、口元に消しゴムを運び、「フーフー」と息で消しゴムについた砂を吹き払った。その間悟は彼女のふっくらした唇から目が離せなかった。
「落ちましたよ。」ニッコリしながら、消しゴムを差し出す彼女の歯は、空で呑気に浮かんでいる雲より白かった。
「あぁ、ありがとう。」消しゴムを受け取りながら、悟は思い切って言ってみた。「あれ?きみ、前にも見かけたけど、深大寺にはよく来るの?」消しゴムはまさに話すきっかけを作ってくれた。
彼女の顔は一瞬にしてトマトのように赤くなり、そして彼女はもじもじしながら答えた。 「たまに・・・来るだけですよ。家・・・ここから近いから、たまに散歩にくるだけ・・・。」答えながらどんどん声が小さくなっていった。
「ふ~ん、なるほど・・・。きみって中学生?」悟は一番気になっていた事をわざと関心なさそうに聞いてみた。
彼女は首を横に強く振りながら、「違います、高校二年生です。」と答えた。さっきトマト色に染まった顔は大分落ち着いたが、今度は唇が不服そうにとんがっていた。
「そうか、これは失礼。」悟は笑いながら彼女に向かってペコリと一礼をした。そうしながら彼女の顔をチラッと覗いたら、彼女は手で口を押さえて笑っていた。悟は内心ホッとした。ふざけた態度で彼女を余計怒らせたのではないかと不安だったからだ。
「俺はニシキオリサトル、故郷に錦の錦、織物の織、悟りを開くの悟、美大の二年生だ。時々ここら辺でスケッチしている。よろしく。」なぜか自己紹介し始めている自分に驚きを感じる悟は不自然な笑みを浮かべた。
「私はオサナイアヤネ、小さい山に内側の内で小山内、色彩の彩に音楽の音で彩音です。17歳の高校二年生です。中学生ではありませんよ。」と小山内彩音はいたずらっぽく笑いながら自己紹介をした。
悟も一緒に笑った。そんなお互いの自己紹介で一瞬にして空気は和み、会話も自然と弾んだ。可愛いだけではなく、一緒に居るとホッとできて、しかも人をひきつける魅力を持つ彩音に、悟はトキメキを感じた。
「あの、実は私・・・、高校の美術部に入っていて、大学はやっぱり美大に進学したいと思っているんですよ。」しばらく会話した後、彩音は恥ずかしそうに語った。
「へえ、そうなんだ・・・。だからいつも俺の絵を見てたのか・・・?」悟は納得したと同時にがっかりもした。悟が勝手に自分のファンだと思い込んでいた子が、結局絵が好きで、美大を目指していただけだったから。
二人が立ち話をしていると、門前そば屋の店員が店先を掃除しながら、ちらちら二人の方を伺っているのが悟の目に入ってきた。
「さてと、そろそろスケッチに戻るか。」悟は人目が気になり、仕方なくそう言った。「消しゴム、ありがとう。」そう言いながら、再度折畳み椅子に座ろうとした。
「あっ、あの・・・、もし良かったら今度私の絵を見てくれませんか?」座ろうとしている悟の方に向かって、彩音は勇気を振り絞って言った。「スケッチブック持ってきてもいいですか?」そう言いながら彩音の顔はまた段々と鮮やかな赤色に変化していった。
「俺なんか役に立たないと思うけど・・・、でもこんな俺でよければ喜んで。」悟は微笑みながらうなずいた。
彩音は本当に嬉しそうに笑い、両手を合わせて拝むようなポーズをした。「本当にいいんですか?どうもありがとうございます。うれしい!」そんな彩音を見て、悟までウキウキした気分が感染したようで、彩音が次回会う約束をして帰ってからも、鉛筆を持った手はなかなか動かなかった。
鬼太郎茶屋の中の喫茶コーナーで、彩音に手渡されたスケッチブックを開き、悟は自分の作品を描く時以上に真剣な眼差しで彩音のスケッチのタッチを見た。まだまだ光と影の表現は幼稚だが、視点がなかなかユニークで、他の人が描かないアングルや、普段主役になれない物体が描かれている。客観的に見ると自分より才能があるかもしれないと思うと、悟はほんのちょっぴりライバル意識を抱いた。だがすぐにそんな心の狭い男でありたくないと思い直し、悟は素直に自分の感想を述べた。
「うん、なかなかいいんじゃないかな?発想が面白いよ。普段人が描かない物を描いているし、人が描かない角度から描いているし、俺は結構イケてると思うよ。技術面はまだまだだけど、それだって沢山描いていればそのうち上手くなるしね。俺なんかより全然上手くなるよ。」一気に評論家的意見を述べて、悟は彩音にスケッチブックを返した。
彩音はびっくりした様子で、しばらく下を向いて黙り込んでいた。数十秒間同じ姿勢を崩さなかったが、いきなり顔を上げて悟の方を向き、眩しい笑顔を見せた。
「初めて褒められました!美術部の先輩達はみんな首を振るか、肩をすくめるかで、どこがどう悪いか全然言ってくれないんですよ。顧問の先生もとにかく基本が大事とか言って、アドバイスもしてくれないので、困っていたんです。錦織さんって本当に優しい。だってちゃんと批評してくれるんだもん。」言いながら、彩音は目をキラキラ輝かせた。
そんな彩音を見て、悟も嬉しくなった。自分が彩音の唯一の理解者になった気分だったし、彩音と自分の距離がグッと縮まった気もした。浮かれた気分の悟は彩音の手元を何気なく見たら、彩音はスケッチブックとは別に何枚もの画用紙を持っていたが、悟に見えないようにスケッチブックにそっと挟み込んだ。
「あれ?それもきみの作品?さっきは見せてくれなかった分?」と悟は聞いた。
「あっ、これはいいんです、この何枚かは失敗作で、今度描き直そうと思って取ってあるだけなので、気にしないでください。」彩音は慌てて言い訳をしながら、スケッチブックを背後に隠した。
「今日は本当にありがとうございました。これからの道が開けたような気がします。」鬼太郎茶屋を出てから、悟に向かって彩音は極上の笑顔で語った。
「そんな大げさな・・・、ただこれからも俺でよければ相談に乗るよ。それと・・・、よかったら一緒にスケッチでもしないか?」悟はチャンスを逃さず、自分の気持ちを素直に言葉で表した。
「えっ?本当に?いいの?邪魔じゃないですか?」彩音は驚きを隠さず、同時に嬉しくて仕方ない様子で悟を見つめた。それに応えるように悟はニコリ笑い、コクリと頷いた。
丁度その時、参道の方で突風が吹き荒れた。ものすごい勢いで、彩音のスケッチブックも突風にあおられて、中に挟まっていた画用紙が宙に舞い上がった。「きゃっ!」彩音は思わず声を上げ、慌てて画用紙を追った。悟も近くに舞い降りた画用紙を数枚集めて、他のも拾おうと思った瞬間、画用紙に描かれた男の肖像画に釘付けになった。それは悟が良く知っている男だった。そう、全て悟の肖像画ばかりだった。横顔だったり、正面だったりするが、紛れもなく錦織悟の顔だった。
悟はゆっくりと彩音の方を振り向くと、彩音も丁度悟の方を振り向いた。二人の目線が合った瞬間、悟ははっきり分かった気がした。
そう、この恋はもうすでに始まっていたのだ。
平井 ハヅキ(東京都調布市/女性/派遣員)