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<第6回応募作品>「ハルニフルユキ」 著者:青木 太郎

「これまでの我が家の歴史は、深大寺のスノーホワイトとともにあった。これからもずっと……」
それが父の口癖だった……。

 昭和三十九年、東京ではじめてのオリンピックが開催されるまで、あと数ヶ月と迫っていた早春のこと。父と母は出逢った。
 建設ラッシュに沸く東京へ三年前から現場監督として出稼ぎに来ていた父は、当時、調布の深大寺近くの下宿で生活していた。信心深い父は建設現場へ出掛ける前に、必ず深大寺へお参りするのが日課だった。あるとき、いつものように作業着姿で本堂に向かい、そっと手を合わせていると、若い女性が声をかけてきた。それが母だった。
「毎朝、ごくろうさまです」
 その言葉の訛(なま)りで、その女性が沖縄出身だとわかった父は、「沖縄のかたですか?」と訊(たず)ねた。「三月に来たばかりです」母はそう答えた。
「わたしたちの仕事は〝ケガと弁当手前持ち〟と言われていまして……。それで神頼みです」父がそう言うと、母は「このお寺さんは縁結びで有名なんです。お寺さんで縁結びっていうのも何かおかしな気がするんですけどね」と優しく微笑みながら言った。父は頭を掻きむしり、恥ずかしそうに「わたしも沖縄出身の田舎者で、そういうことに疎いものですから」と言い、「それでもありがたい神仏であることには代わりはないですから」と付け加えた。
 あまり良い出逢いではなかったかもしれないが、とにかく父と母は出逢った。
 母は深大寺境内にあるお守りなどを売る店で働いていた。二人が出逢ってしばらく経ったある日、父がその売店に現れた。
「先日はどうも。実は同僚が身体(からだ)を壊して休んでいまして。お見舞い代わりにお守りを持っていこうと思いまして……」そう言って母にお守りを選んでくれるように頼んだ。このとき母は父のことを〝優しい人だ〟と思ったそうだが、きっと母に逢うための口実だったに違いない。
 それから二人は境内で顔を合わせると、よく話をするようになった。父は早朝だけでなく、仕事が終わったあとにも、何かと理由をつけて深大寺を訪れた。「蕎麦を食いに」、「饅頭を買いに」と。そのたびに売店で働く母に話しかけて、そのうちに二人は自然と惹かれ合うようになった。いつしか早朝に本堂を参拝する父のとなりには母がいるようになった。
「何をお願いしたの?」と母が訊ねると、「チサエちゃんとこのまま仲良くいられますようにってね」と父が恥ずかしそうに答え、父が同じことを訊ねると、「ミツノブさんが現場でケガしませんようにって」と母が答えた。それを聞いた父は、「このお寺は縁結びで有名だったはずでしょう?」と言うと、母は「いいんです。それでもありがたい神仏であることに代わりはないですから」と言って微笑んだ。そして、「それともうひとつ。早く雪を見てみたいとお願いしたの。ご存知の通り沖縄には雪が降りませんから」と言った。すると父は境内の隅の大きな樹を見上げた。
「その願いならもうすぐ叶いますよ。この樹の英名は〝スノーフラワー〟。通称ナンジャモンジャと言ってね。学名のチオナンサスはギリシャ語の〝雪〟と〝花〟がその語源だそうです。四月の終わりからほんの短いあいだだけ、プロペラ状の真っ白な花を枝一杯に咲かせます。わたしはもう二回見ましたが、それはもう、本当に雪が積もっているようで、とても不思議な光景です。わたしはこの花が大好きでして……」
 そんな出逢いから二ヶ月も経たない五月のはじめ、スノーフラワーは父の言う通りに、まるで雪が積もっているかのような真っ白な花を、その枝にびっしりと隙間なく咲かせていた。背景の新緑とのコントラストが異次元のようで、母は「あれはまさに幻のようだった」といつも言っていた。そして父は咲き誇るスノーフラワーの花びらが見守る境内で、母にプロポーズをした。
「これからは毎年このスノーフラワーを一緒に見に来よう」それがプロポーズの言葉だった。そして「深大寺さんがくれたこの縁を、ずっと大切にしていこう」と続けた。
二人は、深大寺近くの小さな借家で結婚生活を始めた。深大寺ではスノーフラワー以外にも、四季折々の草花を愛でることができるからだ。都会では忘れてしまいがちな季節を肌で感じることができる深大寺。
それが慣れない都会で暮らす二人にとっては癒しとなった。また東京に来てはじめて食べた日本蕎麦の魅力に取り憑かれた二人にとっては、門前街に数々の蕎麦の名店が立ち並ぶ深大寺周辺は、食の道楽を満たす美味しい街でもあった。そしていつか子供が生まれたときには、子育てに最適な環境も整っている。
昭和四十九年春、両親の結婚から十年経ってようやくぼくは生まれた。そのときもちょうどスノーホワイトが咲いていた。そして両親の思惑通り、深大寺はぼくの大切な遊び場になった。
小学生のころには境内を走りまわり、かくれんぼや鬼ごっこをして遊んだ。中学生や高校生のころにはクラスメイトたちと初詣や節分の豆まきやだるま市へ出掛けた。ぼくにとっても深大寺は思い出の詰まった大切な場所になった。
そしてぼくは運良く市内の国立大学に進学することができた。そのころには好きになった女の子との初デートは、決まって深大寺と神代植物公園だった。
さらに社会人になってからも、ぼくはこの街を離れなかった。いくつかの恋も経験し、いつか父のように、このスノーホワイトの樹の下で、好きな女性に想いを告げることができたらいいと思うようになった。
 そのころには父は定年を迎えていたが、趣味が高じて、母と二人で深大寺の近くで小さな蕎麦屋をはじめていた。もともと凝り性だった父の打つ蕎麦は評判が良く、遠くからもお客さんが来てくれるようになっていたが、父は母と過ごす時間を大切にしていたため、営業時間は昼の数時間だけで、それ以外の時間は母と深大寺へ散歩に出掛けたり、庭いじりをして過ごしていた。二人はぼくの理想の夫婦だった。
 平成十六年秋、母はすい臓がんになった。
 余命は六ヶ月と診断され、父は店を閉めて献身的に母の看病をした。朝早く病院へ行き、夜も遅くまで母のそばにいた。母は痛みに耐えて、父のまえではいつも笑顔を絶やさないようにしていたが、激しい痛みが続くときには、ずっと父の手を握って離さなかった。残された時間が二人の愛をより一層に燃え上がらせているようだった。
そのころのぼくは仕事の都合で都心に住んでいたが、週末には調布の実家へ戻っていた。父が母の看病に専念していたために、家の中を片付けるのが、ぼくの役目だった。実家へ戻ると、居間のテーブルにはいつも古いアルバムが開かれたまま置かれていた。昭和三十九年から、毎年同じアングルで撮られてきたスノーホワイトと家族の写真。その前で年齢を重ねていく父、母、そしてぼく。涙が止まらなかった。
半年ほどすると、母は衰弱しきって寝たきりになり、痛みを抑えるために使われたモルヒネの影響で、いつも朦朧として父の話を理解することも、話すことも、ほとんどできなくなってきているようだった。それでも父はいつも優しい口調で母に話しかけていた。
「深大寺の境内の桜が散り始めたよ」その声が母に届いているのかさえ、もうぼくには分からなかった。
 平成十七年四月の終わり。主治医から許可をもらい、母を深大寺へ連れて行った。その日は穏やかな陽気だったので、父はわざと遠回りして、東側の参道から、車椅子に乗せた母をゆっくりと押して歩いた。ぼくはそのうしろを少し離れて歩いた。
石畳の凹凸が車椅子を揺らしていた。小川のせせらぎは優しく、きらめきを散りばめて流れていた。父は茅葺(かやぶき)の山門の前で足を止めると、石段を見上げた。そして少し戻ってスロープになっている道を、車椅子を押し続けた……。
 境内の一番広いところへ出ると、目の前にスノーホワイトの樹が見えた。枝の上には真っ白な花が降りつもった雪のように咲いている。毎年変わることのない純潔の花。
「チサエちゃん、スノーホワイトの花が今年も咲いたぞ。あれからずっと変わらない雪のような白い花だ……」
 母はゆっくりとスノーホワイトを見上げた。
「ゆ……雪……」
母がそう言ったような気がした。そのとき、強い風が吹いてスノーホワイトの枝を大きく揺らした。何千という花びらが散り、父と母の上に降りそそいだ。そして母がかぶっていた麦わら帽子が飛ばされて、くるくるとまわりながら大きなムクロジの樹の下に落ちた。ぼくがその帽子を拾いに行って戻ると、父は母のそばに立ちつくして泣きじゃくっていた……。
 その半年後、父は母のあとを追うようにして亡くなった。くも膜下出血だった。そのときのぼくの心に残ったものは、相次いで両親を失った悲しさよりも、父と母の切ないほどの愛の証だった。ぼくも誰かのことをこれほどまでに真摯に愛し続けることができるだろうか。

あれから数年が経った、今、ぼくは深大寺の境内にいる。今日こそ彼女に愛を伝えるつもりだ……。父が母に永遠の愛を誓った、このスノーホワイトの白い花の下で……。

青木 太郎 (東京都府中市/40歳/男性/自営業)

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