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<第6回応募作品>「冬の桜」 著者: 藤原 尚

 あと一月程で咲き始めるだろう桜の木の下で、私は涙を流している。時折り微笑みながら。
 私が実家を出てからもう二十年になる。とにかく早く家を出たかった私は、高校卒業と同時に一人暮らしを始めた。私が家を出ると打ち明けたとき、父はしぶしぶ認め、数年前に父が再婚した義理の母は「寂しくなるわね」と言いながらも嬉しそうだった。同居していた祖母はとても悲しんでいた。
 父が再婚したい人がいると家にまりこという人を連れてきた時、私と祖母の安穏な生活は終わった。記憶の中でかすかに残っている優しい母の雰囲気と全くかけ離れていたまりこという人は、派手な化粧に派手な服装でいきなり台所に入ってお茶を入れだした。私も祖母もよその家にお邪魔したような居心地の悪さだった。それから数日したある日、家の居間は原色で圧迫感のある家具に占領され、今まで馴染んだ、地味だけれど使い勝手の良い家具達は処分されてしまっていた。それを知った時、私は、家を出ることを心に決めた。
 家を出た当初は、心細いのと、肩身の狭い想いをしている祖母が心配なのとで、週に一度は実家に足を運んだ。私が帰る日を祖母はとても楽しみにしていたようで、いつもお菓子を作って待っていてくれた。 
しかし、社会に出てからは、実家に行くのが月に一回になり、半年に一回になり、電車で5駅しか離れていないのに、いつしか実家が遠い場所になってしまっていた。私を待っている祖母の顔が心に浮かぶ度に、それを心の奥へ押し込んで過ごしていた。
元日の朝に父から電話があり、いつ帰って来るのか聞かれ、祖母の症状がまた少し進行したことを知った。
祖母は数年前から認知症の症状が出だした。昨年の正月に帰った時は、杖をつきながらも嬉しそうな顔で玄関まで出迎えてくれた。
「待ってたのよ、えっと……」
と私の名前がすぐには出てこなかった。
 かなり遅い冬休みを取って、私は一年振りに実家に来た。インターホンを押すと父が出迎えてくれた。少し奥を覗いてみるが、父の他に誰も出ては来なかった。代わりに聞こえてきたのは
「はい、右足上げて。ほら、こっちの足。ちゃんと上げないとおしめはけないでしょ」
という甲高い声と、つぶやくように
「すいませんね、こんなことしていただいて」
と言う懐かしい祖母の声だった。私が奥の祖母の部屋へ行くと
「あら、ようこそ。お母さん、紀子ちゃんよ」と祖母のズボンを上げながらまりこさんが祖母に教えた。
「紀子さんですか、よくいらしてくれました。ゆっくりしていってくださいね」
とお辞儀をして、祖母はベッドに横になってしまった。
「お休み取れたの?お母さん、少し前から風邪引いちゃってね。最近ずっと寝てるのよ」
まりこさんは以前より少し地味になっていた。
「お母さん、おしっこしたい時は横についてるボタンを押すのよ、いい?」
と祖母の下着をかかえてまりこさんは部屋を出て行った。こうなった祖母の世話をしてくれるのはありがたいとは思った。けれど、私はあらゆることが悔しかった。
 私は祖母の部屋を見渡した。去年来た時よりも箪笥の上の祖父の写真が増えていた。祖母はこの部屋で寂しい毎日を送っていたのかと思うと自分が不甲斐なかった。私は写真に近づき祖父の顔をじっと見つめた。
「おじいちゃん、会いたかったな。どんな人だったのかな」
私が生まれる前に死んでしまった祖父のことを考えていると
「紀子ちゃん」
と祖母がこちらを見て言った。
「おばあちゃん、わかる?紀子よ。ただいま」
やはり、祖母は嬉しそうな顔になった。記憶が戻ったり無くなったりしているのだろう。
祖母は震える人差指で空間を指した。祖母の指先を辿ると、箪笥の上の一枚の写真を指していた。それは若き日の祖母と祖父が満開の桜の下で寄り添って映っている写真だった。
「この写真が見たいの?」
祖母は笑ったまま写真を見つめている。
「ここに行きたいの?」
私が聞くと、祖母は深くこくりとうなずいた。写真の裏には[昭和二三年四月二日 深大寺]と書いてあった。深大寺。ここからはバスで数駅の距離だが、果たして歩くのもやっとの祖母が行けるだろうか?
「今日はもう遅いから明日車椅子で行こうね」
私が言うと祖母は少女のような笑顔になった。
 翌朝、祖母の風邪は悪化していてとても連れ出せる状態ではなかった。祖母は
「桜を見てきて」
と深大寺の写真を私に渡して言った。こんな時期に桜なんて咲いている訳がない。けれど
「わかった。見てくるね」
と言って私は深大寺へ一人で向かった。バスを降りて、木々に誘われるように奥へ奥へ歩いて行く。さすがに今日みたいな寒い日は誰もいないだろうと思っていたが、少し先に男性が一人木にもたれて本を読んでいた。私が少しじろじろ見てしまったからか
「こんにちは」
と男性が挨拶してきた。私は慌てて
「あ、こんにちは」
と言った。目が会った時にドキッとした。その男性はとても優しい目をしていた。
「お参りですか?」
木から離れて男性が聞いてきた。
「いえ、祖母と一緒に来る予定だったんですけど、一人で散歩です」
「散歩ですか。僕は人を待っているのですが、まだ来そうにないのでご一緒していいですか?」
突然の誘いにびっくりしたはずなのに
「はい」
と口が勝手に言っていた。男性と並んで歩いていると不思議と安心した気分になった。
「ここはね、春になると道いっぱいに桜が咲いてそれは見事ですよ。僕の恋人はね、桜の散る頃が一番好きなんです。風が吹くと空全部が桜色になって自分に降り注いでくるって、それはもう楽しそうに笑うんですよ」
「待っているのはその恋人ですか?」
「はい。僕がいつも待ちぼうけです」
と男性は穏やかに笑った。
「桜色の空か。散っていく桜ってなんだか悲しいなと思っていたけど、次からは明るい気持ちになれそう」
「ええ。僕達の子供も、そのまた子供もこの桜を見て明るい気持ちになって欲しいな」
私達は赤い門の下の石段に腰を下ろした。真冬なのに、私達のいる場所だけは春のように暖かい気がした。何だろうこの懐かしさは。 
 その後私達は透き通ってきらきらした水の流れる川沿いを歩いて元の場所に戻ってきた。
「じゃあ、僕はもう少しここで待っています。とても楽しい散歩でした、ありがとう」
と男性は手を差し出した。私はその手を握り
「近々祖母とまた来ようと思います。ありがとうございました」
と言って別れた。
 家に帰ると家中がバタバタしていた。祖母は肺炎を起こして予断を許さない状態だということだった。私は何が何だかわからないまま祖母に話しかけた。
「おばあちゃん、深大寺行こうよ。春になると桜が降って来るんだって。行きたいんでしょ?元気になってよ、おばあちゃん」
祖母は目を閉じたまま苦しそうに息をしているだけだった。私は泣きながら写真を見た。祖母のきらきらした笑顔。そして、横にいる優しそうな目をした祖父。そういえば今日出会った男性はこんな目をしていた。私は男性の手の温もりを思い出していた。
 朝になっていた。祖母のベッドの脇で目を覚ました。祖母は昨日とはうって変わって安らかな顔になっていた。容体が良くなったのかと思ったが、しばらくして私は急いで父とまりこさんを呼びに行った。私には、祖母の最期だとはっきりとわかった。祖母の息は先ほどよりも深いものになっていった。
「行ってくる!」
そう言って私は慌てて家を飛び出し、昨日の場所に向かった。やっぱりいた!昨日散歩した男性が、写真で見た若き日の祖父が木の下に。そして私の後ろから
「ごめんなさい、遅くなって」
と走って来る女性に向かって笑顔で手を振った。その女性はあの写真の祖母だった。祖父が私に気づき
「やあ、僕の待ち人がやっときたよ」
と笑いながら言った。いつの間にか私達の周りは満開の桜で、風が吹く度にひらひらと花びらが降ってきた。桜吹雪の中で両手を広げた祖母が嬉しそうにくるくると回っている。
「さあ、そろそろ行こうか」
祖父が祖母に言った。祖母は祖父の手を取り桜色の中を歩いて行く。私は言いたいことが沢山あるのに言葉が出なかった。体が動かなかった。すると、遠くから祖母が走ってきて
「何故だかわからないけれど、あなたにどうしても言わなきゃいけない気がしたの。人は出会って別れるものよ。あなたはこれからあなたの人生を笑顔で送ってちょうだい。私はそれを心から願うわ」
と私を軽く抱きしめて祖父の元へ走って行った。祖父としっかり手をつないだ祖母はこちらを振り返り
「もう泣かないで。私は今とても幸せなのよ。ありがとう」
と言ってきらきらした笑顔で手を振り、祖父と並んで歩いて行った。

藤原 尚(東京都三鷹市/34歳/女性/自由業)

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