<第6回応募作品>「恋愛未満・カレは静かに暮らしたい」 著者:雨宮 瞬壱
ミツオは本が好きな青年だった。
天気の良い日は必ずと言っていいほど深大寺のなんじゃもんじゃの木が見えるベンチに座り、読書をしていた。
彼はこの木々の深い、森のなかにいるような気持ちになれる場所が好きだった。確かに参拝客や時期によっては音楽会なども催される――必ずしも深とした静けさのある場所ではない。だが本の世界に漂っている心地よさは、ミツオの視界から他人を消し去っていた。本の中の彼はヒーローで名探偵。時には人ですらない。何にでもなれ、現実の彼にはできないことを何でもできるのが心地よかった。
そんなある日、事件が歩いてやってきた。サク、サク、サクと、近づきつつある音。そして不意にどっかと隣に女が座ったのだ。
(なんだ――この女、失礼な奴)
三人掛けのベンチだが、一つ空けて二人が座ればそこはすでに満席の体だ。中央に座らなかったことを悔やんだが、別段いつものように物語に入ってしまえばいいだけのことだ。
隣に座った、読書を好むミツオとは明らかに趣味の異なる彼女は、綺麗に染め上げられた茶よりも明るい長髪。両肩から前に流した髪はテレビタレントのような流行の巻き髪にしている。肩も露わなブラウスにショートパンツ。まぶしい裸脚の先に編み上げのサンダルが映える。いわゆる今時の女性であった。
そんな彼女はじゃらじゃらとストラップをたらした携帯電話を取り出すと、拡声器を思わせるような声ではなし始めたのだ。
「ちょっと、ジュン! なんでこないのよ! アイコと一緒? あっそ、勝手にすれば!」
舌打ちも軽やかに、すぐに電話をかけ直す。
「あ、ダイちゃん? 今ヒマ? え? バイト? いいじゃん、一回休んだって――」
(オイオイ。何だよコイツは――)
ミツオにとっては頭の痛い、静かな時間の邪魔者以外の何者でもなかった。だが、この代わる代わる男性に電話をかけ続ける彼女の話が気にならないといえば嘘であった。
程なく彼女は席を立ち、サクサクと砂を跳ね飛ばしながらその場を後にした。
「なんなんだ、あの女――」
今度は思いがけず声に出していた。だが、それに気づくとムニャムニャと語尾をすぼめ、本に目を落としたのだった。
再び彼の前に静かな時間が帰ってきた――かに思えた。そう、これは始まりでしかなく、なんじゃもんじゃの木が見えるベンチは、彼一人のものではなくなっていたのだ。
毎日違うタイミングなのだが、彼のいうあの女が同じベンチに座るようになったのだ。
彼女は毎日、かわるがわる電話を続けていた。ときに楽しげに、ときに怒りのおもむくままに。その大半が後者であることを知るのは彼女自身と、この数日隣で話が聞こえていたミツオの二人だけだったかもしれない。
(まったく。毎日飽きもせず似たような話ばかり。おかげでこの本を読み切れなかった)
このところ、ミツオは全く本に集中できなかった。彼にとっては初めてのことで、まさかどこにでもいそうな、ファッション雑誌そのままの格好の女一人のせいで静かな時間が侵されていると思いたくもなかった。
しかし、事件はここからはじまる。とうとう彼女が先にベンチに座っていたのだ。
しかも、いつもと様子が違う。
いつもの快活さが鳴りを潜め、肩を落とし、背中を丸めてベンチの端に座っていたのだ。
ミツオは一瞬怯んでしまった。だが、彼にしてもベンチに座ってのひと時を譲りたくはない。いつも以上に彼女が気になっているのを悟られないように腰を下ろしたのだった。
(なにを考えているんだ、俺は――)
彼女を気遣った自分自身に納得いかないと、無理矢理に本を開き、文字に目を走らせる。
だが、全くと言っていいほど、本は彼の頭の中に物語を生み出してはくれなかった。
(俺はただ静かにしていたいだけなのに)
思った刹那、隣から声がしたのだ。
「アナタ、いっつもそこにいるのね」
今まで聞いたことがないくらいに、静かで穏やか。少し寂しさが入り交じった声だった。
「――あぁ、まぁ――」
「バカなウルサイ女だと思ってるんでしょ」
ミツオは思わず本を落とした。気づかれていたんだ、そう思った。
「全部聞いてたんでしょ、電話。軽い奴らのドコがいいんだ――とか思ってたでしょ」
全部見透かされている。ミツオは彼女にそこまで見られていたとは思ってもいなかった。
「べ――別にそんなこと――」
ミツオはこのときほど物語のヒーローのようになりたいと思ったことはなかった。
彼女はそれすらも見透かしていたのだろう。慌てているのを必死に隠そうとするミツオにやわらかくくびを傾げると、和らいだ目元を見せたのだった。
それを見たとき、ミツオはゴメンとつぶやき、その場から逃げ出した。
反射的に走り出していたミツオが我に返ったのは深大寺の入り口が見えてきてからだった。同時に、あることに気づいた。
(本がない――)
(この後図書館に返すつもりだったのに。さっき落としたんだ――)
場所はわかっていた。彼女のいたベンチだ。
まったく、いったい何でこんなことになったのか。俺はただ静かに過ごしたいだけだったのに。そう思わずにはいられなかった。そんな思いが、ベンチに戻る足どりを十二分に遅くさせていた。
(でも、あの女と本は関係ない。それに本は見つけて、図書館に返さなきゃ)
彼はいつものベンチに向かって走り出した。
しかし、ベンチに戻ったときには彼女もそうだが、本がどこにも見あたらなかった。
悪態をつきたくなったが逃げ出したのは彼自身だ。飲み込んで、彼女をさがした。
(きっとあの女が持っていったんだ)
思いがけず、奇妙な鬼ごっこがこの深大寺のなかで始まっていた。
ミツオは汗だくになりながら、走り回った。いつからか訳も分からず闇雲に走っていた気がする。少しずつ薄闇が広がっているのに気づいたのはそんな頃であった。
(そうだ。図書館に行ってみよう――)
彼女が持っていったなら、もしかしたら図書館に返してくれているかもしれない。ミツオは図書館に向かって再び走り出した。
だが、根拠はなかった。電話の内容だけならどこかその辺のゴミ箱に捨てかねない。百歩譲っても持って帰ったのかもしれない。
司書さんに謝るつもりになっていたのも半分。彼女に期待するのも半分。とにかく図書館に向かってみることにしたのだった。
図書館はまだ開いていた。だが、そのみちすがらも彼女の姿はなく、図書館の返却窓口にも本は返ってきていないようだった。
ミツオは、自分の静かな時間が侵されただけではなく、何か大きなものが心の穴になっていくのを感じていた。
呆然と図書館から出てきたとき、本を胸に抱いて彼女が立っていたのだ。
「――はい。もっと本を大事にしなさいよね。シシドミツオさん」
「なんで――(俺の名前を知ってる?)」
全てを言い終わる前に彼女は言葉を重ねる。
「さぁ? 何ででしょう?」
言うと少しだけあごをしゃくる。ミツオは本を受け取ると、ありがとうとだけつぶやいて図書館にきびすをかえしたのだった。
無事返却し、再度借りて図書館から出てくると彼女はいなくなっていた。
狐につままれたような気持ちのまま、何とはなしに彼は歩きだしていた。なぜ、なぜ、と思うままに歩いていたら、いつの間にかいつものベンチに来てしまっていた。
もうすでに辺りは薄暗い。人が次第に少なくなっていくなか、呆然と座っていると、不意に声が降ってきた。
「隣、座っていい?」
「アンタは――いや、どうぞ」
ミツオがベンチの端に腰を浮かそうとすると、彼女はすぐ隣に座ってきたのだ。
「さっきはよくも逃げたわね――」
いきなりの恨み言で不意打ちをされ、ミツオは言葉に詰まってしまった。しかも彼女の目が笑っている。気づくと余計に混乱した。
「――ゴメン。その、わざと、じゃなくて、驚いてしまって。だから、あ、いや、そうじゃなくて。本を拾ってくれてありがとう」
「あはははは――おっかしい。オモシロイね」
「――そう?」
「うん、オモシロイ」
いつの間にか、ミツオは彼女と話していることに心穏やかになっていった。はじめは彼の静かな時間を壊しにきた異邦人であったのに、今ではなぜか彼女との会話自体が静かな時間になっている気がしていた。
このとき、ミツオははじめて気づいたのかもしれない。物語という空想で作られた世界のなかにいるよりもずっと穏やかな気持ちになれる時間があるということに。
思い通りにならないことで感情がゆり動かされ、はじめて気づける穏やかな時間があるということに。
「あ――その、そういえば、なんで俺の名前を知ってるんだ――ですか?」
くすりと彼女は笑顔をみせる。
「むかし観たアニメのマネをしてみただけ」
どうやら、彼女の方が数枚上手らしい――彼女の本名を聞いてはじめて気がついた。彼女がいつもミツオが借りる本を先に読んでいたクドウリカその人であったことに。
イタズラっぽい笑顔に心が踊るのを素直に受け止めるミツオであった。それは、これから巻き起こる波乱と静寂の間で揺れ動く二人の物語の始まりを告げる合図でもあった。
雨宮 瞬壱(東京都多摩市/33歳/男性/会社員)