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<第6回応募作品>「車椅子デート」 著者:佐藤 浩介

 一ヶ月程度、祖母と二人で暮した。
 年齢を深く重ねると、子供に戻ると云う。遠く幼い過去を取り戻すには、一度大きく息を吸う必要がある。地中海で素潜りをするダイバーの様に、胸いっぱいに青く綺麗な酸素をぎゅっと詰め込め、それからゆっくり、曖昧でぼやけた世界に沈み込んでいく。
 たぶん、祖母はそんな身支度を始めた頃だったのではないだろうか。
 それまで僕は祖母と長い時間を共にした事がなく、かといって疎遠でもなかったけれど、祖母が、どういう考え方をして、どんな風に生きてきた人なのか、まったくと云っていいほど知らなかった。(祖母が左利きだった事を今回初めて知ったくらいだ)ただ、祖父が他界してからめっきり元気が無くなったと、母が話していたのを何となく聞いていた。
 僕の仕事がそれほど忙しくない時期だったけど、通勤時間が長くなり、基本は寝に帰るだけになっていた。平日の祖母の世話はホームヘルパーに任せきりになっていた。

 一緒に住み始めて二週目の土曜日に祖母が、僕にお茶を煎れてくれながら、ポツリポツリと自分の事を、たわい無い噂話の様に語り始めた。
 祖母の若い頃や、祖父との出会い、共に住み始めたこの街の事。近所の悪ガキ(僕の父だ)を好きになっちまった娘(僕の母だ)のために、ちょっと外れにあるお寺にかけた願い。その結果生まれた兄や僕の事。
 祖母は時々、眠り込む様に目をつぶり、指を組んだ。大切に言葉を選んでいるのだろう。その言葉たちは、僕にも大切な意味を持つと思う。
「そのお寺って、どこにあるんだい?」
 引っ越してくる際にネットで確認した航空写真では北側に公園らしきものを見た覚えある。
「あんた、忘れちまったのかい? 小さい頃はよく行っただろ」
 首を振る僕に、祖母は皺を寄せて少し残念そうに微笑んだ。
「十分も歩けば、すぐさ。行ってみるかい?」
 祖母はちらりと茶の間から見える玄関に顔を向けた。その先には折りたたまれた真新しい車椅子がある。窓の外は梅雨の隙間で、カラリと晴れている。ちょっとした散歩には気持ちがよさそうだ。それにそのお寺にはかなり興味が出てきた。祖母がとにこやかに笑って頷いた。僕もつられて頷いた。
「いいよ。行こうか」
 さっそく財布をジーンズのポケットに入れ、車椅子を広げ玄関前に配置した。祖母はお茶をすすり、手鏡で髪などを直した。ゆっくりと左手で杖を支えに立ち上がって、ぎこちなく車椅子に乗り込んだ。
「うしっ」
 杖を車椅子のハンドルに引っ掛け、勢い良く玄関を抜けると、初夏の風と共に祖母の髪の匂いが鼻先をかすめた。当たり前だが、僕と同じシャンプーの香りだ。僕たちは家族なんだと、変な実感がした。
 太陽はすでに夏の光をふりかざしていたけれど、街路樹の影に入ると涼しい。新品のタイヤが軋ませながら小さな石を蹴飛ばして、なんだか面白い。偶然に二度三度と同じ石を跳ねると祖母が後ろを振り返った。
「橘さんの具合はそんなに悪いのかい?」
 橘さんというのは父方の祖父だ。その連れ合いは割と早くに他界したと聞く。僕はその女性を写真でしか知らない。大きく横にずれた小石を諦めた。祖母もそれに気づいていたらしく、微かに声を上げた。
「うーん。もう歳だからね。八十二歳っていったらまあ、あれだ。がんばってるよ」
 祖母は、にくにくしげに鼻皺を寄せて歯を出した。
「あたしは、もう八十五だよ」
 ちょっとだけハンドルを持ち上げた。
「ばあちゃんはまだ大丈夫だ」
 祖母はよろけた振りをした。母はその橘さん(僕はあまり好きじゃない)の面倒をみるために、札幌の施設に泊り込んでいる。橘さんの故郷の近所らしい。(北の出身を体現する肌の白さは、僕にも遺伝している)父は仕事があるため、東京にいるが、金曜の夜から土日にかけて、そこに通っている。
「今回は、あんたが来てくれて、本当に助かった。嬉しいよ」
 祖母が小さく頭を下げながら前を向いた。橘さんの容態が悪化した事と、気丈な祖母が入院から戻ってきたのが重なったのだ。本当は両親と住むはずだった。 
「んにゃ」
 もごもごと答えに戸惑いつつ、川橋を渡るため、小さな段を慎重に乗り越えた。すると祖母が綺麗に整備された川辺の奥の方を指差して、母と父が始めて口づけしたのがその場所だと教えてくれた。
 何でばあちゃんが知ってるんだよと聞くと、見ちまったんだ。と照れくさそうに応えた。
「あたしと同じ場所。なんでこんな所だけ似ちゃっのかって、なんだかね、むしょうに親子だなって感じたもんだよ」
 この秘密は、あたしとあんただけのものだ。と唇に人差し指をあてた。あんたが誰かに言ったらあたしは恥ずかしくて三途の川が渡れないよ。僕は照れくさく、かゆくなった頭を掻き毟った。
「ばあちゃん、それうまくないよ」
 祖母がくくっと小さく声を上げた。ハンドルを強く握って、歩を早めた。
「ああ、そこを右に曲がってな」
 言われたままに曲がると、急に視界の緑が多くなった。神社へ至る道なのだろう。温度が少し下がって空気が澄んだ気がする。
「そば屋がいっぱいあるんだな」
 ぐるりと辺り見渡した。道沿いには水車が飾ってある。
「深大寺のそばって云ったら有名さ。あんた、本当にものを知らないね」わざとらしくため息をついた。「なら帰りに食べていくかい?」
「いいね」僕は喉をならした。
「だけど、お会計はあんたが持つんだよ」
「えっ」
「デートでは女性に払わせるんじゃないよ。みっともない」
 祖母がくしゃくしゃに笑った。だけれども目は真剣だった。僕は少し混乱したけれども、一応苦笑いした。
「デートですかい」
「そうだよ」
 祖母はぎゅっと、胸の前で指を組んだ。

 境内に入る階段で、車椅子を横から持ち上げる為、ハンドルから手を離すと、祖母がここからは歩かせてと手を払った。杖を左手にゆっくりと立ち上がった。その歩みは何かを確かめる様にも、ただ弱っている老人にも見えた。
 階段を二段ほど上がった時に、不意に「あんた、お爺さんに似てるね」とつぶやいた。そういわれるのは初めてだった。
 首をかしげると、僕の腕を細い指でつかんだ。爪が弱々しく皮膚を引っ掻いた。気が付かなかったがマニキュアがうっすら塗られている。
「この間だけ、あたしゃ、あんたをお爺さんの若い頃だと思う事にするよ」
 境内の奥の木々から風が流れてきた。祖母の髪が揺れて、僕と同じシャンプーの匂いがする。
 ああ、そういう事か。と思った。何が『そういう事』なのか良く分からなかったけど、祖母が言った事がどこか分かった気がした。
 祖母ははにかみつつ、真剣な瞳で僕を見つめて、階段を一歩一歩踏みしめた。
 急いで車椅子を境内の入り口まで担ぎ上げ、戻って手を差し出した。祖母は指先でつつくようにして、ためらってから、それに応じた。手が冷たく細い。力を入れたら、冗談抜きに折れてしまうだろう。生きる力は弱まりつつあるのが嫌でも分かる。それは仕方の無い事だ。
「さあ、本殿へお賽銭を入れに行きましょう」
 車椅子は境内の端に置かせてもらい、祖母の手を引いて本殿に向かった。祖母は小さく息をすった。
「あたしはここで、あんたに良く似た人と結婚をしたいと願ったんだ。それから、あたしの娘が悪ガキと幸せになれるように、願った」僕は財布から五円玉を二枚取り出して、一枚を祖母に握らせた。
 祖母は大切そうにそれを賽銭箱に滑り込ませ、静かに手を合わせて一礼した。僕もそれにならった。祖母は長い間、頭を下げていた。

「さて。帰りましょう」
 境内の階段を下りたところで、車椅子に祖母を乗せた。祖母はふうと息をついた。僕は少しためらってから聞いてみた。
「今回は何を願ったんだい?」
 祖母は上目づかいにあごに手をあてた。
「さあね。自分の胸に聞いてみな」
「ん?」すこし考えてから、ドキリとした。
「夜中の電話は響くんだ。今度連れてきな」
 祖母の横顔を見た。肌が少し赤く艶めいている。まだまだ元気だなと振り払う様にかるく頭を振った。
「さて、そばを食べて帰ろうか」
 ハンドルに力を込めた。
「家に帰るまでがデートだよ」
 祖母がぴしゃりと言って、前を向き、指を組んだ。自然とほほ笑んだ。この時間だけは祖母の事だけを考えよう。あなたがいたから、僕がいる。ありがとうと。
「承知しております。お嬢さん」
 僕は財布の中身をちょっとだけ気にしながら、慎重に、とてもゆっくりと車輪を押した。

佐藤 浩介(東京都町田市/29歳/男性/会社員)

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