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<第6回応募作品>「亀、風の道を渡る」 著者:山田ノ案山子

 「情人節(ちんれんじえ)と言います」
周さんが穏やかな声で、ちょっと不思議な音律を奏でるように、彼の母国語を口にする。私は彼の、この落ち着いた優しい声が大好きだ。
「昔は七夕のことですが、今は西洋の習慣が入ってきて、バレンタインデーのこともそういいます」
丁寧な日本語でゆっくりと話す周さん。
最初は、異国の言葉だからゆっくり喋るのだと思っていたのだけれど、実は母国語でもゆっくり話すのだ。彼の穏やかな性格をよく表している。
「今年、中国のお正月は、2月14日、情人節です」
日本でバレンタインデーの宣伝を繰り返している中、日本では旧正月にあたるその日を中国の両親の元で過ごすために、周さんは一時帰国をする。
「来年の情人節、一緒に過ごしたい。ずっと、一緒に過ごしたい。それはダメでしょうか」

周さんは中国からの研修生だ。地域のコミュニティーサークルに参加したとき、知人に引き合わされた。
紹介された時、留学生だと聞いたので、若いのに落ち着いた感じの人だなぁ、と思ったのだが、後で本人に聞いたら、日本の大学院に研修留学してきている企業研修生だそうで、一つ年上だった。
「古刹名刹が好きだそうだから、ぜひ深大寺を案内してあげて頂戴」
どうせ家の近くだし、社交辞令のつもりで、簡単に、いいですよ、と言ったら、周さんがすごく嬉しそうに、
「いつ行きましょう、私はいつでもいいです。土曜日、日曜日、とてもヒマなので、」
その思いっきりの笑顔に、今さら、ダメと言えなくなってしまった。

「あぁ、大きい木ですねぇ。きれいですねぇ。」
周さんは大木を見上げて笑った。
「なんじゃもんじゃの木ですよ」
私が言うと、周さんが目をパシパシッ瞬く。
「なんじゃ?」
「なんじゃもんじゃ。これはなんというものだ、という意味なんだそうです」
「なんという・・・ヒトツ、バタゴではないのですか」
「昔の人は、木の名前、学名が良くわからなかったのでしょう。」
ふんふん、と興味深げに頷いて、周さんは再び大木を見上げる。
「ほら、あれ、」
周さんがふいに空間に向かって指を差した。
私は彼が、あれ、と指差したものを見ようとしたが、その、あれ、が何かを見つけられなかった。周さんが指差す先にあるのは、美しく濃い緑色の深大寺の森だけだったからだ。
「ほら、あそこです。葉っぱが一枝だけ、揺れています」
目を細めて見る。確かに、固まった緑色の束の中で、ただ一枝だけが、光を跳ね返して、サワサワと動いている。
「きっとあそこに風の道があるのです。不思議ですね。ほんとうに、あそこだけに風が通っているなんて、」
風の道。なんて美しい不思議を、この人は見つけることができるのだろう、と思った
誰も気にとめないような、小さな、けれど確かにそこにある美しさ。
私が周さんに関心と好意を持ったのはその時だったと思う。風は私たち二人の間にも、道を通したらしい。

私たちはそれから度々、会うようになり、お互いを特別な相手だと思うようになるのに、そんなに長い時間はかからなかった。
どちらもテーマパークなどにあまり興味がないことがわかって、二人のデートはもっぱら寺社巡りや自然観察ばかり。
何気ないご近所散歩や商店街のそぞろ歩きも、二人なら楽しい。
そして、二人のお気に入りは、もちろん、思い出の場所、深大寺。
「深沙大王は、もともとインドの神様ですね。悪い神様だった。三蔵法師、7回も食べちゃったです。服の飾りに7個、頭の骨つけているのは、あれ三蔵法師の骨」
周さんがいたずらっぽく笑いながら言う。
「縁結びの神様なのに、悪口言っちゃダメよ」
「悪口、違いますよ。物語です」
周さんは日本蕎麦が大好き。深大寺に行く度に、いつも違うお店を選んで入る。
「中国にはお蕎麦はないの?」
「ありますよ。でも、作り方、違います。味も全然違います。日本のお蕎麦おいしいです」
暖かい蕎麦の方が良いけれど、冷たい蕎麦もおいしい、と言って、ざる蕎麦も喜んで食べる。嬉しそうに、楽しそうに。
周さんの目はいつもきらきらと輝いている。生きていることを楽しんでいる。こんな人の側にいたら、きっと、一生、楽しい日々を送れるだろう。
そう思って、私は周さんを両親に紹介した。
「今時になく、真面目でしっかりした青年だ」
「優しい人だねぇ」
周さんは父にも母にも大好評だった。だから安心していた。それなのに。

「ちょっと、困りました」
周さんが寂しそうな苦笑いを見せた。
「ひどいわ、お父さん、周さんのことあんなに褒めてたのに、」
周さんの研修期間があと二ヶ月余りで終了することになった初夏のある日、周さんは私の家に、二人の結婚を認めて貰えるようにと挨拶に来た。
ところが、父が猛烈に反対したのだ。一人娘を異国に嫁に出すわけにはいかない、と。
周さんは、あきらめない、と言い、何度でも心からお願いする、と言ってくれた。でも、寂しい、悲しい。周さんと引き離されてしまうかもしれないなんて、思ってもみなかった。
私たちはいつものように深大寺の境内をゆっくり歩いた。でも、二人の気持ちは、足元にしっとりと落ちる影のように暗い。
「縁結びの伝説になった男の人も、大陸から来た人だったそうです」
深沙堂の池のほとりで周さんがポツンと言った。
「娘さんのお父さん、やっぱり他所の国から来た男のお嫁さんにするの、嫌だったのかもしれません」
愛する二人を引き裂き、池の小島に娘を閉じ込めてしまったという伝説。
こんなに悲しそうな、暗い目をした周さんを初めてみる。
「私は閉じ込められたりなんかしないもの。周さんと一緒に行くわ」
「でも、お父さん、お母さん、悲しいのは良くないです」
どうしたらいいのだろう。このままでは、二人の間は、池よりずっとずっと大きい海で隔てられてしまう。
周さんは、ふぅっと一つ、大きく息を吐き出した。
「深沙大王にお願いしてみましょうか」
ふんわりと優しく笑って、周さんが私の顔を見る。
「伝説みたいに、亀が助けてくれるかもしれませんから、」
私達は両手を合わせて、深沙大王をお祈りした。悪い神様、なんて言ってごめんなさい。お願いします。私たちを一緒にいさせて。

「亀、出ました! 亀!」
周さんがいつになく興奮した声で電話を掛けてきたのは、深沙大王をお参りした数日後。
「日本の会社に出向、OKだって言いました。私、しばらく中国、帰りません!」
いつかは中国に帰るかもしれない。でも、直ぐにじゃない。だから、お父さんも許してくれるかもしれない、と。
「お父さん、きっと、わかってくれます」
私は携帯電話を握り締めた。
本当だった。深沙大王にお祈りしたら、亀が現れて周さんを私のところに連れてきてくれた。深沙大王さま、有難うございます!
「亀、来ましたね。お祈りして良かった」
周さんが電話口で笑った。嬉しそうに笑った。きっと、電話の向こうで、周さんの目はきらきら輝いているに違いない。
それから直ぐ、私達はもう一度、父に話をした。父は苦虫を噛み潰したような顔をして、うむむっ、と唸っていたけれど、ダメとは言わなかった。母はただ、うふふっ、と笑っていた。
両親と話をした帰り道、私たちは深大寺に立ち寄った。
深沙大王と亀にお礼を言って、境内を戻りかけたところで、
「ほら、あれ、」
周さんがなんじゃもんじゃの木を指差した。
「風の道?」
周さんがにっこり笑って首を振る。
「花嫁さんの帽子みたい」
 なんじゃもんじゃの木は、初夏の真っ白な花をいっぱいに咲かせていた。

山田ノ案山子(東京都中野区)

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