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<第6回応募作品>「かき氷と絆」 著者:渡邊 農夫也

「今日、どこかに行ってみようか?」そう母が切り出したのは、ようやく家の片付けも一段落ついた日曜の朝だった。
ここ東京の調布市へ引っ越してきたのはちょうど一週間前だ。ひとりっ子の光治は現在小学四年生。転校の手続きはなんなく終わり、すでに新しい学校へ通っている。まだ新しい友達はいないが、特に慌ててはいない。それは転校というごく一部の人間にしかできない希少な経験が初めてではないからだろう。
「行く!」
朝食のパンをかじりながら光治は目を輝かせた。待ち焦がれていた初めての東京散策。行きたいところは山ほどある。原宿、秋葉原、それからそれから……
「深大寺に行ってみない?」
 じんだいじ?
「なにそれ?」
「知らないの? 近くにある大きなお寺よ」
「お寺~?」
「有名らしいのよ。お蕎麦屋さんがたくさんあるんですって」
 やだよ、お寺なんて。じじくさい。
「参道がとても素敵なんですって。良いお店紹介してもらっちゃった。お昼はそこで食べましょう」
 母さん、もう友達できたんだ?人見知りしない性格は相変わらずだと、光治は心の中で呟いた。
「原宿行きたかった」
「もっと大きくなったらね」
 そして昼の一時過ぎ。二人は深大寺へとやってきた。参道はすごい人混みでバスからは更にたくさんの人が降りてくる。お寺がこんなに混んでいるなんて。
「今日、お祭り?」光治は素直に尋ねた。
「違うわよ。迷子にならないでよ」
 本堂でのお参りを済ませた二人は、参道に並ぶお店を見物していた。蕎麦屋がたくさん、団子屋、煎餅屋。屋台じゃないのが不思議な感じだ。
「食べたいものある?」
「うーん、かき氷」
 暑かったから。
「何それ? 売ってないでしょ」
「あるよ、ほら」
 道行く人の頭を避け、軽く飛び跳ねながら光治の指差すその先には確かに氷の旗が見える。母は光治に千円札を手渡した。
「じゃあ買ってらっしゃい。お母さん、そこのお煎餅屋さんに並んでるから」
 人混みをすり抜け、光治は何軒か先に見える氷の旗を目指した。そこは団子屋さんだった。おいしそうな焼きたての団子と、蕎麦饅頭が売っている。そして隅にあるかき氷のコーナー。団子と饅頭はすごい人だかりなのに、かき氷機の前は閑散としていた。
そこに光治と同い年くらいの少女が静かに立っていることに気が付いた。光治と目が合う。一瞬の沈黙の後、少女は目を逸らした。焦った光治もかき氷に意識を戻す。しかし店員さんは団子や饅頭で手一杯。仕方なく誰かの手が空くのを待つことにした。再び目の前の少女が視界に入る。やっぱり東京の子もかき氷は好きなんだ。そう安心した矢先、饅頭売りのおばさんの手が空いた。すかさず光治が話しかける。
「すいません、かき氷ください!」
「はいよ! 美沙」
 美沙と呼ばれた目の前の少女は、ゆっくりとかき氷を作り始めた。その光景を呆然と眺める光治をよそに、氷は立体的な造形を描いていく。
「何味ですか?」
「え……じゃあ、いちご」
 おぼつかない手つきでシロップをかける。よく見るとエプロンも着けている。かき氷が完成すると、無愛想に光治へ手渡した。
「三百円です」
 ……店員さん???
 あまりに異質だった存在の少女のことで、しばらく光治の頭はいっぱいだった。あの子、何で働いてるんだろ?数多くある東京への好奇心より、そのことが気になって仕方がなかった。来週。そうだ、来週もう一度行ってみよう。たまたま今日だけ手伝っていただけだと思うし。日曜日、ひとりで行ってみよう。光治は一週間が待ち遠しくて仕方がなかった。
 一週間後、光治は再び深大寺へと向かった。「そんなに気に入ったの?」と、母親に茶化されたが、少女のことを知られたくなかったので、「まあね」とだけ答えた。
 先週より少し早い時間に家を飛び出し、うる憶えの道を辿っていく。相変わらずの賑わいを見せている参道へと入り、緊張しながらあの団子屋を覗くと、やはり例の少女美沙はいた。
 相変わらずの無愛想。かき氷の人気も全くない。光治は来る前に母から受け取った三百円を握りしめ、美沙の前に立った。
 美沙の目が丸くなる。どうやら光治のことを覚えていたようだ。
「一つください。いちご味」
「……はい」
 美沙はゆっくりとした動きで、四角い氷を機械にセットする。どうやら光治が今日初めての客だったようだ。
「いつも働いてるの?」
 突然光治が話しかけたので、美沙の動きが止まる。美沙は少しだけ光治の顔を覗き見ると、すぐにまた目線をかき氷機に戻し、ゆっくりと頷いた。続けて光治が尋ねる。
「何年生?」
「……四年」
「四年? 同い年じゃん」
 興奮気味でつい声が大きくなる。周りの大人がこっちを見た。
「すごいな、働いてるなんて……え、でも四年って、どこ小?」
「深大寺小」
「俺も深大寺小だよ!」
 光治は引っ越してきたばかりで、まだ知り合いも少ない。四年は三クラスあるから、残りの二クラスのどちらかなのだろう。
「知ってる。私も四年一組だから」
 光治は大きな声を出しそうになったのを必死で抑えた。代わりに目がまん丸になって痛くなるほど見開いていた。そんな顔を見て、美沙が少し笑った。
「俺も、四年一組!」
 同じクラス!でもこんな子いたっけ?やばい、クラスの子に気付かないなんて。実は毎日顔を合わせていたなんて……
 美沙は再び氷作りに取り掛かっていた。光治は氷どころではなかったのだが。
「三百円です」変わらぬ調子で美沙は言った。
 次の日、学校で注意深くクラスメイトの顔を眺めていると、確かにいた。高野美沙。一番窓側の席の後ろから二番目。昨日よりずっと子供っぽく見える。休み時間も特に誰とも遊ぼうとせず、机に伏して眠っていた。
 何度か話しかけようとしたが、勇気が出なかった。男子と女子の垣根は高い。実際、話しかけたら多分在らぬ噂が広まるに違いない。それも学年中に。もやもやした時間が続き、その日授業は終わってしまった。
「かき氷ください。いちご味」
 ようやく話すことができたのは、二週間後の日曜日。学校ではなくやはり例の場所だった。美沙はいつもの驚いた表情。これが見たくて光治は話しかけているのかもしれない。
「どうして?」いつも来てくれるの?美沙は尋ねた。
「カッコイイと思ってさ」
「……学校のみんなにはバカにされてる」
「そうなの?」光治は素直に不思議だった。
 俺はカッコイイと思う。まっすぐな光治の言葉に、美沙は少し赤くなった。そして同時に会話の終わりを告げる合図、「三百円です」
 それからというものの、日曜日が来る度に光治は美沙の元を訪れた。学校では相変わらず一言も喋っていない。ただかき氷を作る間、その一分やそこらが心地良くて。美沙も徐々に笑顔を見せるようになった。
そんな小さな幸せがしばらく続いた八月。光治は、母から信じられない言葉を聞いた。
「来週、引っ越しだって」
 父の仕事の影響で、全国の地方を転々としてはいるが、こんなに早く引っ越すのは初めてだ。東京は場繋ぎだったと聞かされる。
 夏休み真っ最中。学校はない。このまま誰にお別れを言うわけでなく引っ越すことになるという。「嫌だ!」こんなに強く思ったのは初めての引っ越し以来だ。もちろん光治が反対しても仕方ないのは分かっている。でも……それでも、もう一度、もう一度だけ話したい。引っ越しは来週。次の日曜日が最後!
 当日、光治は信じられないほど早く目が覚めた。昨日あれだけ眠れなかったのに。言えるだろうか。いや、言ったところでどうにかなるわけでもない。ただ覚えていてほしかった。もう一度、大きくなって一人でも暮らせるようになって、もう一度戻ってきたいと思ったから、だから。
「引っ越すことになった」
 光治は勇気を出して伝えた。美沙は氷を作ることも忘れ、光治の真剣な目を見つめた。そのまま時を止めてしまうわけにはいかない。美沙は無言で完成したかき氷を手渡した。三百円、光治も何も言わずに手渡した――
 二人の恋の話はここでおしまい。十年も昔の小学校の出来事なんて覚えている人の方が少ないかもしれない、それでも。変わらず店の手伝いを続ける美沙はその日。だいぶ低くなったけれども心地良い、とても懐かしい声を聞くことになる。
「すみません、いちご味ください」
 そしてあの日言えなかった言葉を、今度は笑顔で言えるに違いない。
「三百円です」

渡邊 農夫也(神奈川県川崎市/32歳/男性)

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