*

<第6回応募作品>「私たちの散歩」 著者:綾稲 ふじこ

いつものとおり、散歩に行こうと言い出したのは隆だった。
静謐な深大寺と、緑が目に優しい神代植物公園。それから美味しい蕎麦屋に魅せられて、休日はよく深大寺付近を一緒に散歩する。
少なくとも、あの辺の蕎麦屋を全制覇するくらいは行っていて、二人のお気に入りの店もできた。植物公園の入り口付近の店だ。
散歩の途中に、毎回そこで蕎麦を食べる。
それから植物公園を散策する。お給料日前や、お財布が厳しいときは、入園料のかからない水生植物園や林間散策路を二人でゆっくりと辿る。季節を彩る様々な花に見とれているうち、花の名前にすっかり詳しくなった。
この習慣はずっと続いていて、殆んど破られたことはない。雨が降っても風が強くても、今日みたいに喧嘩していても、一緒に行く。
そういえば喧嘩の原因はなんだったっけ?
ああそうだ。隆がトイレットペーパーを使い終わったのに、新しいのを出しておかなかったからだ。用を足す前に気付いたのがせめてもの救いだったけど。
いつもの散歩道を一緒にたどる男を、ちらりと見る。
新島隆。私と同い年だから二十五歳。背は私より十センチ大きいのに、細身なので体重はあんまり変わらない。会社員だから普段はぱりっとしたスーツを着ているけど、私服はだいたいジーンズだ。日曜日だから、今日もジーンズとダッフルコートのラフな格好だ。
深大寺のそばにあるアパートで一緒に暮らし始めたのは、お互い大学を卒業するときだ。早いもので、もう三年になる。
どういう人なのかもっと知りたかったし、一緒に住むのが当たり前な気がした。彼がいてくれたらそれだけでいいって思ってた。
そのはずだったんだけどな。

一緒に暮らして、良かったことももちろんあった。だけど、それと同じくらいイラつくこともあった。原因はどれも下らないことだ。
例えば、隆が脱いだら脱ぎっぱなしにすることとか、酔っ払って帰ってきて服のままで寝るとか、トイレに入って便座をあげたままにするとか。
どれも些細なことだけど、塵も積もれば山となるように、下らないことも積もり積もって喧嘩になる。私も働いているので、疲れて帰ってきて部屋が荒れ放題だとがっくりするし、イライラする。人間だもの。
「まだ怒ってるのかよ。悪かったってば。怒ると可愛くねえぞ、恭子」
黙りこんでいた隆が、ふいにそう言った。
私はそっぽを向いた。可愛くなくて悪かったわね。
「蕎麦おごってやるからさあ。機嫌直せよ」
それでも譲歩する隆に、不本意ながら少しほっとする。
「……天ざる、大盛りだからね。デザートにあんみつも食べたい」
「おう、わかった。思う存分食え。なんならそば粉クレープとかそば饅頭も食っちまえ」
そう言って笑う隆の指先をぎゅっとにぎる。
くやしいけど、こうやって笑うとき細くなる目元が好き。意外にきれいな歯並びも好き。ちょっと掠れた声も好き。私の手を握り返してくれる指先も好き。
幾つかある欠点を全部を並べてみても、好きな気持ちのほうがそれを上回る。
だけど、もしかしたら隆は、もう私のことをそれほど好きじゃないのかな。
だって、一緒に暮らし始めて決して短くはない時間が過ぎたのに、隆は『結婚』という単語を一切口にしない。
隆との生活に私が不満を抱くように、彼にだってきっと私に対する不満があるのだろう。
彼からしてみれば、私は口うるさくて可愛くない女なのかもしれない。
世の中には、私よりもっと優しくて可愛い女の子なんて、掃いて捨てるほどいる。
そういう子に、隆が恋をしちゃうことだってじゅうぶんあり得る。
その場合、私は捨てられちゃうのかな。
自分でも嫌になるくらい悲観的だけど、ついついそんなふうに思ってしまう。
私たちはこのままいつか、道を違えてしまうのだろうか。そう思うと胸が詰まった。

天ざる大盛りとあんみつを食べたら、違う意味で胸が詰まった。
おいしかったけど、さすがに食べ過ぎた。
「なに黙りこんでるの」
はちきれそうなおなかを抱えてぐったりしていると、隆に訊かれた。
「お腹がいっぱいでちょっと気だるいだけ。隆だって今日は無口じゃん」
そう指摘すると、隆はそうかあ? と首をかしげた。自分で気づいてなかったのか。
普段なら会社であったこととか、ちょっとしたことを面白おかしく喋るのに、今日はなんだかいつもと違う。さっきから、どことなくぼんやりしている。根に持つタイプじゃないから、喧嘩のせいじゃないとは思うけど。
「そうだよ。なんか悩みでもあるの? もしかしたら恋煩いだったりして」
冗談めかして訊いたら、隆が目を丸くした。
「恋煩い? 誰が誰に?」
「さあね。そろそろ行く? ごちそうさま」
隆がお会計を済ませていたので、私は席を立った。
「どういたしまして。あ、植物公園に行く前に、深大寺をお参りしようぜ」
そう言って隆は私の手を取った。
薄暗い石段を下りて、山門の並びにある小さなお店を眺めながら歩いていたら、不意に隆が手を離した。
「ごめん、ちょっと先にお参りしてて。すぐ行くから」
「わかった」
どうしたんだろ。トイレかな。
そう思いつつ一人で境内に入った。見るともなしに、なんじゃもんじゃの木を見上げる。
あてもなく境内を散策していると、社務所の脇にあるおみくじの箱が目に入った。
ひとつ引いてみようかな。でも、あんまり良くないのがでたら嫌だな。そう思いながら箱をじっと見た。ここのおみくじには、ひとつひとつに押し花が入っていて、お守りになる、と書いてある。
そういえば、私たちが付き合い始めたきっかけも花だった。私の誕生日に、隆が小さな薔薇の花束をくれた。そして告白してくれた。
薔薇を見ると、あの日のことを思い出す。
私が神代植物公園を好きな理由の一つは、見事な薔薇園があるからだ。
今は二月なので、艶やかな椿や可憐な梅が冷たく澄んだ空気を甘い香りで包んでいる。
薔薇が咲くのは、もう少し先のことだ。
その頃の私たちは、どうなっているのかな。

それにしても隆が来ない。
寒いし、早く来ないかな。そう思って山門を振り返ったとき、ちょうど姿を現した。
「おまたせ。なに、おみくじ引くの?」
「ううん、ちょっと見てただけ」
「ふうん。俺、引いてみようかなあ」
「へえ、珍しいね。今までそんなの引いたとこ、見たことない。どうかしたの?」
「べつに」
そう言って、鞄からお財布を出して二百円払う。それからおみくじを引いて、難しい顔で開く。読み終わると、表情がゆるんだ。
「良かった、まあまあだ」
覗き込むと、なんと凶だった。
「全然まあまあじゃないじゃん。初めて見たよ、凶なんて」
「いいの。勇気が出た」
おみくじを木に結びながら、隆は微笑んだ。
「勇気? なんの?」
「これを渡すための」
そう言うと鞄をごそごそして、箱を出した。片手に乗るくらいの小さな段ボール箱だ。
「恭子にやる。あけてみて」
いったいなんだろう。落とさないように慎重に箱を開ける。そこにはマグカップのようなものがあった。山門の入り口付近にある、らくやきのお店で買ったものみたいだ。
あのお店では、焼き物のお買い物のほか、陶芸や絵付けも楽しめる。絵付けは二十分でできるそうなので、いつか一緒にやろうねって隆と話したことがある。
「箱から出して、よく見て」
訳がわからないながらも箱から出す。
中身は思った通りマグカップだったけど、そこに描かれていたのは、思いがけない言葉だった。
『いつもありがとう。だらしない俺だけど、良かったら結婚してもらえますか?』
それから、マグカップの箱の底に、むきだしのままで転がっているものがひとつ。
綺麗な石のついた華奢な指輪。
「……ねえ。まさかこれってプロポーズ?」
「もちろん。一緒に住み始めてそろそろ三年たつし、恭子が嫌じゃなかったら…」
私はひとまずマグカップを隆に渡した。
それから指輪を箱から出して、左手の薬指にはめてみた。ぴったりだった。涙が出そうになったけど、ぐっとこらえて微笑む。
「ありがとう、嬉しい。私も隆と結婚したい」
隆もほっとしたように笑みを浮かべた。
「良かった。こっそりこれを用意してたけど、今日喧嘩しちゃったし、断られるかと思った。さっき恭子が言った通り、確かにお前に恋煩いでもしてたみたいだな。だけどおみくじの恋愛運も縁談も悪くなかったからさ」
「それでまあまあだったんだ」
私は吹き出した。
どうやら私たちの散歩は、この先もずっと続いていくようだ。

綾稲 ふじこ(埼玉県/女性/会社員)

   - 第6回応募作品