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<第6回応募作品>「雨上がり」 著者:榊 貴之

 やはり自転車で来て正解だった。神代植物公園北の交差点を曲がり、公園内を横断する並木道に入った瞬間、舞子はそう確信した。雨に濡れた植物のむせ返るような匂い。アスファルトの上に木漏れ陽が描く複雑なまだら模様。頭上を通り過ぎていく木々放つ圧倒的な生命力。それら全てが渾然となった官能を胸いっぱいに吸い込むと、今までの惨めな気分が何処かへ飛んで行き、躰が軽くなるのを感じた。
 ペダルを漕ぐ脚に力を入れる。七月の風が全身を通り過ぎる。木々の葉から落ちてくる水滴が頬の上で弾けるのが心地良い。いつもなら学生鞄が収まっている、ハンドルの前の買い物かごには、愛用のバッグがひとつ。その中には、初めて書いたラブレターが大切に収められていた。
 その手紙を、舞子は徹夜で書き上げた。書き終わったのは朝の七時。夜半過ぎから降りだした雨は、その頃には土砂降りになっていた。やっとの思いで書き上げたというのに気分は最悪だった。どっちみち、この雨じゃ、手紙を出しに行くことすら出来ない。いっそ全てを無かった事にして、眠ってしまおうか。しかし、枕を抱えてリビングのソファに転がってみても、眠気は一向に訪れなかった。九時を過ぎた頃、雨足が弱くなってきたのに気づいた。あれよあれよいう間に雨が止み、雲の切れ目から強烈な夏の日差しがこぼれてきた。
 舞子は自分の部屋に戻ると、便箋を三つ折りにして封筒に入れ、表にブルーブラックのインクで丁寧に宛名を書いた。内容をもう一度読み返す勇気はなかった。スティック糊で封をした時、果たしてこれで良かったのだろうかと、少し不安になった。
 初めて書いたラブレター。しかし、その内容には、はなはだ自信がない。そもそも、ラブレターとはどんな物なのか、舞子にはよく分からない。夜通し書いた手紙も、こうして夏の日の下で見ると、あまりに現実感が薄く、儚いものに思える。本当に、これを投函する勇気が、自分にあるのだろうか。

 舞子は、自分が感情よりも、理性の勝った人間だということを承知していた。言葉で明確に表現出来ないことや定義できないこと、あるいは客観的な評価基準がないことが、彼女はとても苦手なのだ。友人たちが、服のセンスの良し悪しや、音楽や食べ物の良し悪しについて、何の苦も無く論評しているのを聞いて、いつも羨ましく思っていた。しかし、その評価基準を問い詰めて、友人たちを呆れさせるような事はしない。それくらいの分別は彼女にもあった。成績が良いという事で、ただでさえ特別扱い……というかほとんど変人扱いされているというのに、これ以上、揶揄いのネタを自分から提供する事はない。
 こんな性格は、こと恋愛に於いては、かなりやっかいだ。理性が発達し、情緒が未発達な人間にも、恋愛という物は容赦なく襲ってくる。そして恋愛感情に支配されたとき、舞子はいつも、極度の混乱状態に陥るのだ。何事にも白黒つけなければ気が済まない彼女の性格は、微妙な駆け引きや非言語コミュニケーションが重要な恋愛に、まったくもって向いていない。
 そんな舞子がラブレターを書くということ自体、無謀な挑戦だったのかもしれない。昨夜、真っ白な便箋を前にした時の絶望的な気分が、再び蘇ってきた。いったい、ここに何を書けというのだろう?
 自分の素直な気持ちを便箋に移せばいい。
 おそらく、それが正解なのだろう。しかし、それは舞子には通用しない。なぜなら、その素直な気持ちこそ、彼女の最も理解し難いものなのだから。強いて言葉にすれば、ただ「好き」としか言いようがない。真っ白な便箋の真ん中に、黒い大きな文字で「好き」。それが舞子の素直な気持ちだった。
 だが、それではラブレターにならない。「好き」は、ただの出発点。問題は、それをどう展開させるかだ。いろいろ苦心して、彼女が考え出したのは二つ。ハウマッチとホワイだ。あなたのことを、どれだけ好きなのか。なぜ好きなのか。その時は、いいアイデアだと思った。これなら私でも書けるかもしれない。
 ところがやってみると、これが簡単にはいかない。舞子は万年筆を手に取り、まずハウマッチの方から取り組んだ。「10を最高としたら7.5くらい」それが彼女にできるせいぜいだった。便箋を破り捨て、気を取りなおしてから、ホワイに取り掛かる。一時間後、なぜあなたを好きなのかについて、便箋五枚にわたって延々と論証している自分に気づいた。ラブレターで相手を言い負かしてどうするつもり?舞子は、自分がほとほと嫌になってきた。
 学習机に頭を乗せてぼおっとしていると、表で雨の音がするのに気づいた。もう、深夜の四時半を廻っている。やはり自分にラブレターなんて無理だ。いや、そもそも恋愛そのものが無理なんだ。優等生の舞子に恋愛なんて似合わない。
 すると、胸の奥に小さな怒りの火が点るのを感じた。恋愛なんて、私がしたくてしている訳じゃない。いつも、こちらの意思など無視して、突然降り掛かってくるではないか。今度だって、一ヶ月前には何とも思ってなかったクラスメートが、いつの間にか私の中で世界の中心みたいになってしまった。何でこんなふうになったのか、こっちが知りたいくらいだ。そう思った瞬間、ついさっきまで自分がホワイについて、便箋のうえでさんざん論証を重ねていた事に思い当たった。その全てが、何もない想定の上に、論理を積み重ねただけの、空虚な詭弁だと突然気づいたのだ。そうだ、なぜ彼を好きなのかなんて、私自信、全く分かっていないのだ。
「私には分かりません。どうしてあなたを好きになったのか」
 気が付くと、便箋にそう書いていた。すると、この一ヶ月間、心の上にのしかかっていた重みが、少しだけ軽くなった気がした。
 そういう事だったのか。自分の心に素直になるってこういう事なのか。分からない事を、分からないと素直に認め、そのまま受け入れる。無理に理由を追求しようなどとはせず、むしろ分からない事、それ自体を大切にする。なぜならそれが、自分というものだからだ。不思議なことに、舞子は自分の何かが、初めて分かったような気がした。舞子は、心を空っぽにし、ただペンを走らせた。心がどんどん軽くなるような気分だった。
 書き上がったのが、朝の六時。そして、清書にさらに一時間。雨は日の出と共に激しさを増し、その頃には土砂降りになっていた。
 
 自転車のスピードを上げると、樹木の葉を通して落ちてくる光の粒が躰を駆け抜け、まるで光のシャワーを浴びているようだ。なんて美しいんだろう。もし私に絵が描けたなら、この景色を素敵な水彩画にして彼に贈りたい。もし私に音楽の才能があったら、現在の気分をピアノの小品にまとめて、彼にそっと聴かせたい。そう考えると、自然に笑みが浮かんできた。
 自分は、これからどうするつもりなんだろう。ペダルを漕ぎながら、舞子は不思議に思った。どうやら自分は、あの手紙を出すつもりはないらしい。神代植物公園北の交差点を左に曲がった時点で、それは分かっていた。少しばかり、勇気が足りなかったのだろう。真っ直ぐ行けば目の前は郵便局。なのに、自分は交差点を曲がってしまった。
 この道の先は、五叉路になっている。そして、そこを右に折れて少し行けば、深大寺へ降りる参道だ。深大寺は、縁結びの寺として有名な古刹だ。こんなに近所に住んでいるというのに、舞子は一度も深大寺を訪ねたことがなかった。
 縁結びの寺で願を掛ける。いつもだったら、そんな発想をしたとたんに、彼女の中の理性が騒ぎ出し、現実世界での効用と、宗教施設での儀式的行為の間に因果関係を見出すことの無意味さを論証し、ただちに馬鹿な考えを退けていたはずだ。しかし、今回はそうではなかった。夏の空気があまりに気持ちよかったせいか、一晩、眠っていなかったせいか、彼女の中の理性は、今日は妙に大人しかった。ひとつだけ確実なのは、深大寺の森へと続く参道を、このまま自転車で降りて行ったとしたら、それは素晴らしくいい気分に違いないという事だ。

 山門の近くに自転車を駐めた。ラブレターの入ったバッグを手に取り、参道を少し歩いた。雨に濡れた深大寺の森が美しかった。さっきまで雨が降っていたせいか、人通りは少なかった。蕎麦屋や土産物屋が、参道脇に席を整えたり、商品を並べたりしていた。
 境内に入り、両手を清め、深沙大王堂の前に立った。木に囲まれた、思ったより小さなお堂だった。雨上がりの静謐な空気が喉の奥に流れ込み、自転車を漕いでいたときとは、また違った心地良さを覚えた。バッグから封筒を取り出し、手にとった。私の気持ち。それをどこまでこの手紙に託すことが出来たのだろうか。私は、もう一度、この手紙を投函する勇気を持つことができるだろうか。
 両手を合わせ、その間に手紙を挟み、しずかに眼を瞑った。風が頬を優しく撫でた。
 どうか、わたしの気持ちを、伝えることができますように。

榊 貴之(東京都稲城市/49歳/男性/会社員)

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