<第6回応募作品>「イツカノサクラ」 著者:城東 真由美
―あ、また。
瀬里葉は、唇を噛み締めている自分に気が付いた。
どうも最近、こうすることが癖になってしまっている。この間も先輩に、「お客様をお迎えする窓口で、ムスッとした顔しないの!」と注意されてしまったところだ。
耐えているのだ、と瀬里葉は思う。彼がいなくなった淋しさを、唇を噛む痛みでごまかし、紛らわせようとしているー。
バスの窓に映る、どう贔屓目に見たところで平凡な、二十四歳の女(それが現実だ)と目を合わせ、瀬里葉は心に言い訳した。
今まで、単なる部下の一人でしかなかった瀬里葉からの突然の告白に、彼はさぞかし戸惑ったことだろう。でも、せめて最後に、気持ちだけでも伝えておきたかったのだ。
彼は、
「自分には、君はもったいない」
と言った。その前の十数秒の沈黙が、まるで罰ゲームを受けているみたいに感じられた。
「友達が入院したとか、親の介護が、とか……飲みに行くと、必ずそういう話題になるんだ。君にはまだ、想像もできないだろうけど。……僕はもう、そういう年なんだよ。……だから、」
こちらが気の毒になるほど、彼は頭を下げた。
―僕なんか、止めたほうがいい。
その答えを、どう受け止めていいのか悩んだ。
(……私じゃ、駄目ですか? そんな言い方をされると、諦めきれない)
思い出して、瀬里葉は再び、唇を噛んでいた。
(あの時は、怖くて聞けなかった。)
だからこそ、はっきりした答えをもらうために、何よりも、彼に会いたくて、瀬里葉は、深大寺行きのバスに乗ったのだった。
深大寺のある調布市は、人の多いことを除けば、瀬里葉の田舎とよく似ていた。カラフルだけれどどこか無機質な、大手チェーンの店が立ち並ぶ中に、昔からの古い家や商店、そして深大寺を中心として大事に守られてきた自然が、仲良く、新たな時を刻んでいた。
深大寺入口のバス停で降りると、繁った木々の影響だろうか、いっそう空気がひんやりとした。桜が、枝先まで残らず花を咲かせているというのに、今日はあいにくの曇り空。せっかく新調したシフォンブラウスも、上着の下に隠さなければならないくらいの肌寒さだった。
瀬里葉の目指す蕎麦屋は、観光案内所の近くだった。参拝を終え、名物の蕎麦を食べて帰ろうかと、楽しそうに思案している家族連れの間を、瀬里葉は一人、肩をすぼめて通り抜けた。
いつかこんな風に、ベビーカーを押して、愛する旦那様と出掛ける休日が、瀬里葉のささやかな夢だ。けれど今の彼女にとっては、持て余すほどの夢でもあった。
山門へ向かう道を地図通りに進むとほどなく、目的の蕎麦屋は見つかった。見つかったけれど、心に準備をさせたくて、瀬里葉は少し離れたところで立ち止まった。
店は繁盛しているようだ。入り口でたむろする客たちの隙間から見えた懐かしい姿に、瀬里葉は思わず泣きそうになった。店の入り口で蕎麦を打っていたのは、彼―菰田周吾その人だった。
入社以来、瀬里葉の真面目さを誰よりも認め、どんな失敗でもフォローし、励まし、時には叱咤してくれた菰田は、先月末で銀行を辞め、蕎麦の手打ち職人へと転身した。
菰田から退職の話を聞いた時、瀬里葉は、心を半分えぐられたような衝撃を受けた。自分が勤めている間に、上司である菰田がいなくなるなんて、考えたこともなかった。それだけ瀬里葉は菰田に頼っていたし、彼は銀行にとって、もとより瀬里葉にとって、必要な人だと思っていた。
「平日は銀行マン、休日は蕎麦打ち。実はここしばらく、二束の草鞋の生活をしていたんだ」
秘密基地の場所を打ち明ける子どものような瞳で、菰田は無邪気に言った。
「四十の手習いだよ」
と。大したことではないよ、と照れた。
けれど今、すぐそこで蕎麦を打っている彼の目は真剣だった。
ガラス越しに、珍しげに見守る参拝客には目もくれず、ひたすらに蕎麦を打つ。手の動きに合わせて、上半身も力強く、リズミカルに上下した。細身の菰田は、全身の力を振り絞って蕎麦を打っているようだった。
(すごい……)
何かに引き寄せられるように、瀬里葉の足が、一歩、二歩と進んだ。
蕎麦を打ち始めて、まだ数年とは思えなかった。途切れのない動き。ぶれない目線。あまりの集中力に、瀬里葉ははっとさせられる思いだった。
「どんなに忙しくても、お客様に、決して雑な対応をしてはいけない。笑顔で丁寧に、かつ、迅速な仕事をすること。それがプロの仕事だ」
よく注意された。瀬里葉は真面目で一生懸命だけれど、自分のことに一途になりすぎて、周りが見えていないことがある―。
(……あの頃に比べて、私は、少しは成長しましたか?)
湧き上がった思いは、上司であった菰田に対しての問いかけではなく、自分自身への、遠回しの戒めだった。
菰田がいなくなってしまってからは、心にぽっかりと穴が開いたようだった。仕事中も、菰田のことを思い出しては、ぼんやりとしていた。
「窓口で、ムスッとした顔して座ってないの!」
そこには、いつか菰田に言われたようなことを、いまだに注意されている自分がいた。
気難しい客の対応に手こずったり、苦手な業務に尻込みしたり。いつまでたっても、仕事は「やらされるもの」で、給料は「がまん料」であって、胸を張って窓口に座っていられる瞬間なんてなかった。
上を目指そうなんて思わない。自分はこの程度、この程度がいいのだと、大した努力もしないで、限界を作ってしまっている自分。
菰田との間に、大きな溝を感じた。
そうすれば菰田が気付いてくれるかのように、瀬里葉はしばらくじっと、菰田だけを見つめていた。
いつまでも一人前になれない瀬里葉のことなど知らずに、菰田はきっと、明日も真摯に蕎麦を打ち、また一歩、ベテランの蕎麦職人へと近付いていくのだろう。菰田にとって瀬里葉は、告白の前も後も、単なる部下の一人に過ぎなかったのだ。それを証拠に、彼はすでに新たな道を歩み始めている。それも、ずっと、ずうっと先を。
瀬里葉は、唇を噛んでいることに気付いたが、構わず、余計にぎゅっと噛み締めた。バスの中でもそうだった。菰田に会いに行くというのに、不思議と、楽しみな気持ちばかりではなかった。
―そう。きっと本当は、初めからわかっていたの。……ただ、会いに行く口実を作っていただけ。仕事も手につかない自分の弱さを、菰田さんのせいにしようとしていたんだ……。
明日からの現実が、「いい気味だ」と笑って待っている気がした。
思い出に浸る瀬里葉の前を、桜吹雪が横切った。
「ワー」
五歳くらいの女の子が、力いっぱい手を広げ、桜のシャワーを全身で受け止めようとしている。その目の前に広がる無限の未来を、できるものなら分けて欲しい、と強く思った。
風に吹かれ、次々と散っていく花びら。その最後の姿を慈しむかのように、瀬里葉も、空に向かって手を伸ばした。
躊躇いもなく枝から離れる花びらは、もう「きれいね」と見上げられなくなることを、惜しくはないのだろうか。はかない重さしかない花びらは、風に煽られると、簡単にその身を投げ落としてしまう。
(……ううん。躊躇いがないわけではない。惜しくないはずもない。……ただ今は、踏ん張れるだけの力がないの。)
瀬里葉は、手のひらに乗った花びらに語りかけていた。
(―私も、同じね。)
瀬里葉は、店の前を逃げるように離れると、山門をくぐり、本堂へと向かった。
深大寺は、縁結びのお寺であるらしい。予定では、菰田の打った蕎麦を味わい、久し振りの会話を楽しみ、その後で、思いを確かめるため、お参りに誘うつもりだった。
瀬里葉は、羽織っていた上着を脱ぐと、本堂の前へと進んだ。
ずっと好きだったのに、ずっと会いたかったのに、でも今は、まだ会えない、と思っていた。
(なくしたものを嘆いて、欲しがるばかりで、そのくせ、流されるまま。……たとえこの先、自分が何者にもならないまま、桜の花びらのように散ってしまう日が来たとしても、それも仕方がない、と諦めてしまうの?)
指先までぴたりと揃えた両手が、熱くなっていくのを感じた。
(会いたかった。今でも会いたい。すごく会いたい。本当は。)
桜は、すっかり花びらを落とすと、緑の葉っぱを伸ばし、また、新たな花を咲かせる準備を始める。落ちた花びらは、けれど、さっき出会ったあの女の子のように、眩しい未来の中にいる。花びらが散っていくことは、生まれ変わるために、必要なことなのだ。
くるり、とまわれ右をした瀬里葉の顔は、さっきまでとは違っていた。
―いつか。また、いつか会いましょう。
今日ここへ来たことには、ちゃんと意味があったのだ。
瀬里葉の言葉を繰り返すように、木々が揺れた。
いつか、いつか。
城東 真由美(大阪府大阪市/27歳/女性/会社員)