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<第6回応募作品>「アドバンテージ」 著者:遊亀 紫野

  約束の時間だ。
亨は携帯電話をポケットにしまうと、自転車のスピードを落として彼女の姿を探した。いや、探すフリをした。顔も年齢も思い出せず、亨にはわかっているのは性別と名前だけ。待ち合わせをするのに十分な情報とは言えないだろう。
昨夜、知らない女からメールが届いた。首をひねったのは、覚えのないその名前がケータイに表示されたからだ。アドレス帳に登録されている・・? いぶかしく思いながらもメールを開くと、こんな内容だった。
「先日は楽しかったですね。とても素敵な式、披露宴でした。五島さんはだいぶお酒が入っていましたけど、明日の約束は覚えてるでしょうか・・? 私は今週ずっと楽しみにしていました。十一時に神代植物公園の正門前で待っています」
亨はしばし呆然とし、それからフルスピードで頭を働かせた。まっさきに思い浮かんだのは悪友たちの顔だ。先週参列した同期の結婚式には、こういういたずらを仕掛けそうなやつが何人かいた。しかし探りの電話を入れてみると、どうも違う。
胸のあたりに、いやーな感覚がわきあがる。確かにあの日は飲み過ぎた。新郎は亨の親友で、彼の結婚は自分のことのように誇らしかった。両親への感謝の言葉には思わず涙が出たくらいだ。酒のまわりもいつになく速く、二次会の途中から記憶がない。おそるおそる記憶をたぐると、なんだかやけに盛り上がって熱く語った気がする。誰かの肩をばんばんたたいていたような気もする。そのへんまで思い出すと心臓がぎゅっとなって、亨は考えるのをやめた。酔った勢いで女をデートに誘ったらしい格好悪い事実は、いまさらどうしようもない。肝心なのは明日だ。
To go or not to go.
文面からすると亨が誘ったような雰囲気だ。それを前日になって断るのはいかにもひどい。一方で、この南沢あずさなる女性がどんな人なのかまるでわからない。どんな話をしたのかも覚えていないのだ。美人かもしれないし、十人並みかもしれない。すごく楽しいかもしれないし、退屈な時間になるかもしれない。うーん、と亨はうなった。
そして今日、お気に入りのマウンテンバイクにまたがり、定刻に亨はここにいる。心理学を専攻していた友人によると、なぜか人は確率が低い方に賭けたがるという。太古の人々が信じたように、希望とは魔物だ。
自嘲した亨は、人待ち顔で辺りを見まわす。こうして向こうから声をかけてくれるのを待つしかないのだ。果たして、女性の声が亨を呼んだ。
「あの、五島さんですよね」
少し離れたところに立つショートヘアの女が、のぞきこむようにして亨を見ている。
「こんにちは。南沢です」
「あ、どうも」
 白いパンツとサンダルが涼しげなあずさも、ほっとしたように笑う。
「近くにいるのに、五島さんたら全然気づかないんだもん」
 あずさがちょっととがめるような目をして、いたずらっぽく笑う。目をひく美人ではないが、優しげな笑顔が素敵だ。
「ごめんね。なんだかこないだとはずいぶん印象が違って見えて」
 適当にごまかすと、あずさが目を見開く。
「すごい、よくわかりましたね! 私、髪切ったんですよ。男の人は気づかないって言うけど、五島さん鋭いですね」
 げ、そうだったんだ。
「短いのも似合うよ」
あずさは亨を見つめて瞳をきらめかせ、小さな声でありがとうと言う。想像していたより素直で可愛らしいあずさに、亨は嬉しくも意外な気がした。酔っ払いとデートの約束をしたり、前夜に確認メールを入れてくるあたり、したたかな大人の女性だろうと想像していたのだ。
「これからどうする?」
「とりあえず植物園!」
子どものように入り口を指さすあずさの表情に、亨もなんだか楽しくなってくる。
他愛のない話をしながら、並んで青葉の中をのんびり歩く。あずさは亨の話をにこにこと聞き、ときには草花についておもしろい話をしてくれる。誘ったのは亨だが、場所を決めたのはあずさのようだ。すっぽかさなくてよかったと亨はしみじみ思った。
お昼は蕎麦を食べることにして、雑木林を抜けて深大寺門から外に出る。あずさがよく行くという店に入り、まずは深大寺ビールで喉を潤した。甘くてフルーティな黒ビールだ。五月の風がオープンエアの店内を吹き抜けていく。さわさわという音に目線を上げると、青空が見え隠れする緑の天井。
「いいねえ」
思わずつぶやくと、向かいのあずさがにっこりする。
「生き返るでしょう」
「うん」
「植物園はどうですか」
「楽しい。気に入った」
「ほんと? よかったあ」
「午後も楽しみだよ」
「五島さん、あたしのこと覚えてなかったでしょ」
「え」
あまりの不意打ちに亨はかたまる。
「似合うって言ってくれたけど、本当はショートヘアは好みじゃないし、パンツよりスカートが好き。でしょ」
 亨がよっぽど狼狽した顔をしたのだろう。あずさがはじけるように笑った。
「ごめんなさい。こないだのこと全然覚えてないみたいだから、ちょっと仕返し」
そう言うと、空になった亨のコップに丁寧にビールを注ぐ。その間になんとか冷静さを取り戻した亨は、ようやく思い至る。
「そうか。こないだ話したんだね」
 あずさが微笑む。
「記憶、少しはあるんですか。それともまったく・・?」
「ごめん」
亨は手を膝に置き、テーブルに頭がつきそうなくらいに頭を下げる。あずさが許してくれるまでそうしているつもりだったが、蕎麦が運ばれてきたので仕方なく亨は顔を上げる。あずさはきゅっと口を結んで亨をにらんでいたが、瞳の奥には楽しげな光が踊っている。亨が視線をそらさずにいると、あずさがこらえきれずに表情を崩す。どうやら怒るよりおもしろがる方に転んだようだ。
 しばらくの間、二人の間には蕎麦をすする音だけが響いた。手打ちの十割蕎麦はのどごしがよく、亨は一気にたいらげてしまう。
「その髪、本当に似合ってるよ。ショートも悪くないって、今日はじめて思った」
 あずさは数秒間またたきもせずに亨を見返していたが、首をひねるとビール瓶を手にとって疑うような目つきを亨に向ける。亨は思わず声をあげて笑った。
「ただのビールだよ。酔っぱらってないって」
茶目っけのある笑みを残しながら、あずさは亨をじっと見て言う。
「髪を切ったっていうのは嘘なの。もともとショートなんです。五島さんね、こないだ、ショートヘアは好みじゃないって何度も何度もあたしに言ったんですよ。正直泣きそうになっちゃったくらい」
 うわ、最悪だ。
亨はテーブルに目を落とす。
「でも、時間がたったら今度は怒りがメラメラ燃えてきて。好みじゃないならなんで誘うのよってね。喜んで行くって返事した自分にも腹が立ったし」
 不意にあずさの言葉が途切れ、亨がそっと目を上げると、顔を傾けて亨の顔をのぞいているあずさと目が合った。思いがけず愛おしげなまなざしに、亨は心をからめとられる。亨を見つめたまま、あずさが手を伸ばして亨の頭をさわった。悔しいけれど、春風になぶられているような心地よさだ。思わず自分の手を重ねようとすると、あずさはするりと手を引いて、何事もなかったように残りの蕎麦を食べはじめる。行き場のなくなった手を握りしめた亨は、もうあずさから目が離せない。
植物園に戻る前に周辺を散歩することにした二人は、風景画や似顔絵が並ぶ坂道を抜け、乾門と書かれた小さな入り口をくぐった。深大寺のお堂は華美でもなく質素でもなく、境内には明るく清新な空気がみなぎっている。ムクロジやヤマモモなど野趣あふれる樹木が寺院らしい。茅葺の山門から外に出るまで亨とあずさはほとんど口をきかなかったが、気まずかったわけではなく、しゃべらなくても通じ合うものが二人の間に流れていた。参道には饅頭屋や土産物屋が軒を並べ、緑を映す水路からは青々とした風が立ちのぼるようだ。
流れを見やったあずさが、思い出したように亨を振り返る。
「深大寺の水神様にはどんなご利益があるか知ってる?」
誘うように試すように、いたずらっぽい瞳が亨を見上げている。主導権は完全にあずさのものだ。だから亨は、できるだけさらりと言う。
「縁結びの神様には、もう用ないでしょ」
あずさが目を見開く。
アドバンテージをひっくり返すのも、恋愛の楽しみのひとつだ。くるりと景色が変わる。亨は笑顔で手を差し出してあずさの反応をうかがう。あずさは嬉しそうに亨を見つめ返し、手をとった。

遊亀 紫野(埼玉県蕨市/34歳/女性/会社員)

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