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<第6回応募作品>「続きは、また後ほど」 著者:河合 ふくみ

 まっさらな夜だ。都内だというのにここ、調布市の深大寺は武蔵野の面影を色濃く残していて、都心の夜の喧噪からは程遠い。けれどその素朴さが、乾ききって荒んだ感情の渦を鎮めてくれる。だから今日も、本来ならば自宅に帰る筈が、足はついふらりと実家のあるここに向かっている。
 昼間は賑わいを見せる深大寺は夜ともなるとさすがに人の気配は薄くなる。人通りがまばらになった通りでは、惜しげもなく涼しげな景色と自然の香りを味わえる。けれど折角の景観を味わいつくそうにも、私の足先は擦れるような痛みを訴えて足取りを鈍らせる。小道のガードレールに寄りかかり、右足の靴を脱いで足先を包む。靴擦れだった。痛みを堪えるように俯くと、風の音に混じって耳の奥に声が響く。
―…やっぱ俺、お前とは無理だわ。
何度思い出しても、窮屈に胸を締め上げる。「もう終わりにしたい」電話越しの元恋人は、私にそう言い捨てた。一方的な別れの言葉は、感情の振れ幅を乱す。心は知らぬうちに慰めを求めて、この場所に辿りついた。
痛むのは果たしてどちらだろう。足先の抗えない痛みは悲痛な叫びをあげることの叶わない心が代わりにそうさせているようで、堪えるようにただ呻いた。
「山名さん?」
「え?」
ほとんど反射的に、顔を上げると見知らぬ男性がこちらを伺っている。呼びかけられた名前は間違いなく私のものだったが、彼の姿に覚えのない私は返答に窮した。
「え、あの…はい。山名ですけど」
名前すら思い出せない相手を前に、私はあからさまに狼狽した。
「あぁ、やっぱり! でもその様子じゃ、僕の事を覚えてないでしょう」
無理もないか。と彼は苦笑した。彼は私の困惑を機敏に察知して、落胆するそぶりを見せるどころか遠慮がちに私の足許に視線を滑らせる。
「足痛いの? 立てる?」
私はしきりに頷いた。我慢できない痛さではない。
「じゃあ、行こう。ここは車も来るし少し危ない」
優しく手を伸べて、彼はしゃがみこんだ私の腕をとって軽々と引き上げる。なすがままに甘えてしまったが、礼を述べながら私は躊躇いがちに尋ねた。
「ありがとう。あの…私たち、どこかで会ってますか?」
あまりにも的外れだったのか、彼は目をみはり、しばしの沈黙の後に弾かれたように笑い出した。その反応に、却ってこちらが困惑してしまう。気まずさを覚えて居心地を悪くしていると彼はひとしきり笑って満足したのか口元を軽く押さえて息をつく。
「あの、私、変な事言いました?」
「いや、山名さんらしいなって思ってね。そういうところは変わってないんだね」
「はぁ…」
私の気の抜けた返答に気にする素振りもなく少し背の高い彼が手元の時計を見、思い立ったように問いかけてくる。
「ね、山名さん。夕飯食べた?」
「まだ」
「じゃあ、一緒に食べない? 僕を忘れてるお詫びにちょっと付き合ってよ」
 おどけた口調で、彼は微笑む。その気安さにほだされるように、私は頷いていた。
「あ、うん」
「よし、じゃあ行こう。まだやってる店、一軒しか知らないんだ」
彼は荷物を肩に掛け直して当たり前のように私の手を引いた。朗らかに笑うその横顔を盗み見て、微かに記憶の端を掴めそうになる。だが結局、記憶は霞んで指先をすり抜け、答えを見失う。気付けば彼に導かれるまま、通りの外れにある素朴な佇まいのそば屋に腰を落ち着けていた。
「何がいい?」
「じゃあこれ」
思えば私は街並みこそ見には来るものの、ここでそばを食べた記憶が殆どない。目に映る何もかもが物珍しく、素朴な店内を窺うように見渡す。そんな私の前に、注文を済ませてくれた彼が水を差しだしてくれる。
「もしかして、ここ来るのは初めて?」
「実はね。近くに住んでるとなかなか来ないもの」
「あぁ。なんとなく、わかるよ。東京都民が東京タワーに行かないのとどことなく似てる」
絶妙な喩えに笑い声をこぼして頷けば、なぜだか彼はどこか安堵したような温かい表情を浮かべる。いつくしむような視線に晒されて、不思議と胸の奥が疼いた。
「どうしたの」
「いや、初めて笑ってくれたなってね。なんか山名さん、ずっと顰め面だったからさ」
彼は人の表情の機微を悟ることがとても上手い。驚くのと同時にまた、ほんの少しの罪悪感に囚われる。彼は私の事を覚えてくれているというのに、私は彼の名前すらも思い出せないなんて…。運ばれてきたそばを啜りながら、さりげなく訊ねた。
「そういえば私、最初の質問の答え、聞いてない」
「最初の質問? ああ、《どこかで会っているか》って?」
「…うん」
「わからない?」
「ごめんなさい、本当。覚えてなくて」
彼を伺えば、そばを咀嚼しながらどこか楽しげに微笑む。
「うーん…僕のこと、気になる?」
「それは勿論、気になるよ。知ってくれてるのに私が知らないのは申し訳ない」
「でも僕の口から言うのはなんだか面白くないな」
暫く、そばを啜りながら互いに口を閉ざした。返答に窮してばかりの私に、彼は気を悪くするどころか、それすら受け入れるように穏やかな沈黙が続いた。そばを食べ終えると、見計らったように、私たちは席を立つ。
勘定を済ませて、武蔵境に繋がる通りを歩きはじめた。
「名前は教えてくれないんだね」
「単に僕が言うだけじゃ、つまらないでしょ」
街路樹が規則正しく並ぶ深大寺の通りを歩きながら私は傍らの青年を一瞥した。
「意地悪だね」
「そうかもね、好きな子には意地悪したくなる性質なんだよ」
君は小学生か。心の中の言葉に遅れをとって私の頭は、漸く彼の台詞の真意を呑みこみはじめた。
「えっ、ちょっと待って、なに今の」
「こんなこと、二度も言わないよ」
どうして。なんで、今なの。あらゆる問いかけが喉に引っかかった。今日最大の困惑に、私は棒を呑んだように立ち尽くした。だが彼はあくまでも真摯に語りかけてくる。
「考えておいてよ、山名さん。少しでも気になったら、卒業アルバムで僕を見つけて欲しいな」
僕からは教えてあげないよ。笑いながら彼は踵を返す。私は、その後ろ姿を目に焼きつけながら今度こそ、彼という存在がはっきりと私の中に刻みつけられていくのを感じていた。心のどこかに息づきはじめた名残惜しさに、救いを請うように天を仰いだ。
木々の隙間から濃密な色を散りばめて、空が覗いていた。そこかしこに煌びやかな光を帯びて輝いている。答えはなかった。答えを出すのは、私自身だ。靴擦れを起こした足はまだ少しだけ痛むけれど、もうこの胸に行き場をなくして込み上げていく鬱屈とした不安も、虚しさも、寂莫も、もう何処にもない。さぁ、家に帰ろう。今度こそ、私は実家に足を向けて歩き出した。
***
突然の娘の帰宅に、母と父はやはり驚いたようすだったけれども、いつものように優しく迎え入れてくれた。夕食を済ませたかと気を遣ってくれる母にもう済んだのだと告げて様子を見に来たとか忘れ物をとりに来たなど、適当な言い訳で突然の帰宅の理由を繕う。私は自分の部屋に荷物を放って、暫く放置していたアルバムを本棚から探し求め、山のような写真の中から彼の姿を探した。高校のアルバムをめくりながら懐かしい思い出に浸っていると、ふと彼の面影を持った一人の少年の姿が目に飛び込んでくる。食い入るように写真の下の名前を追った。
「…《本多くん》っていうんだ」
思えば同年代の男の子たちとは、疎遠だった。何より私は高校時代、一年ほど海外留学をしていたため卒業は一個下の学年と共に迎えたということも拍車をかける要因だった。
アルバムを眺めながら、妙に凪いだ心持ちで私は写真の彼を見つめる。なぜだろう、まるでまた何処かで会えるのだと確信を抱いているかのように、何一つとして不安がない。不意に部屋をノックする音が聞こえ、私は立ち上がった。扉を叩いたのは間違いなく母だ。扉から顔を出せば、昨日か一昨日の消印の往復はがきを手渡してくれる。
「あなたのところに送りなおそうかと思ったんだけど、いいタイミングだったみたいね」
そう言って母は笑い、父の呼ぶ声に応じてすぐに背を向けて階段を駆け下りて行く。手元に残されたはがきに視線を落とす。同窓会の報せだった。答えあわせをする時間はあるみたい。不思議と弾む心の中で呟くと手近にあったボールペンで参加の欄に丸をした。

河合 ふくみ(東京都小平市/21歳/女性/学生)

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